第9話 上巳節の奇跡

 上巳節の日が来た。

 上巳節は女子の節句であり、春の目覚めに厄病を祓う節句でもある。朝から三色の餅を作り紙代を用意し、皆が忙しく働く。そうした準備が落ち着いた昼前、桜は皆と共に吉紫山へ入った。



 しばらく上ると空心と平が、毎年欠かさず摘んでくれた山の桜葉のある辺りに着いた。

〈長きに渡り二人が摘んでくれた桜葉・・・〉

桜は心の中で感謝した。


 そして、寺の者達に並んでもらいその手の上に織物を広げていった。桜の目には、春の陽光に照らされキラキラと輝く五色の織物が眩しい。だが、皆にはやはり見えていなかった。ただその手には、何か柔らかく心地の好い物が触れている感覚だけがあった。


 蒼、桜、黄、紅、緑。五色に織られた織物が皆の手の上に川のように美しく広がっている。小坊主五人と空心、月、平、桜。皆で広げてもまだ手が足りぬ程の織物だった。


「天女様、お約束の織物をお持ち致しました。空へとお返し致します。」

桜が蒼く晴れ渡った空に向かって言う。



 すると、キラキラと霧雨のようなものが下りて来て、織物は皆の手を離れ空へと上がって行った。霧雨の中、陽光に照らされた五色の織物は、次第に棚引く雲のように姿を現した。


「あぁ・・・ あぁ、天女の羽衣だ。桜様、私にも見えます!」


小坊主の一人が驚きと共に叫んだ。すると、


「私にも!」

「私にも見えます!」

「あぁ、なんと美しい・・・」

と次々に声が上がり、そこにいる皆の目にも五色の織物がしっかりと見えたのだ。


「まぁ、本当に? 本当に見えたのね。よかったわ。皆にも見せたかったの。あの美しい五色の織物を。天女様、ありがとうございます。」


桜は天に向かって手を合わせた。皆も自然と天に向かい手を合わせていた。織物と一体となった五色の霧雨を纏った桜木は、花も葉もキラキラと輝いている。桜木にも天女が舞い下りたように美しかった。


「さぁ、みんな。桜葉を摘みましょう。丁寧に、今日干せる分だけを摘みましょう。」

桜の号令で、皆で丁寧に美しく光る桜葉を摘んだ。




 そして寺へ持ち帰ると、皆で広げ日が沈むまで干した。葉は表一日裏一日干すとすっかり乾いた。その後は丁寧に七枚ずつ紙に包んでおいた。こうして次の満月までこの作業を繰り返し、百包程の〈紅桜湯フォンインタン〉が準備できた。小坊主たちも

「有り難い事だ。」

としきりに申しては手を合わせた。


 そうして出来上がった紅桜湯を携え皆で本堂へ行き、仏前に供え感謝の経を唱えた。天女と仏から教えられた紅桜湯は、寺へやって来た民へ分けられる寺の大事な薬となった。



 そうしている間にも桜は、次の一山分の織物にとりかかっていた。今度はあまり日がない。七夕節は三カ月後に迫っている。約束通り期日までに織り上げねばならない。桜は焦りや不安を抱きながらも織り続ける。

 ただただ夢中になって織り続けていると、前に感じたのと同じ感謝の気持ちが胸に広がり幸せな気持ちになれた。その心持ちのお陰なのか、前よりも織り上がる量は日毎に増していきどんどん絹糸は反物へと変わっていった。



 そうして、明日はもう半夏生という日、やっと残りの一山分を織り上げた。桜は安堵して本堂へと運び仏前に供え手を合わせ、


「今日無事に、残りの一山分の絹糸を全て織り上げる事が出来ました。ありがとうございます。」

と報告した。


 すると香の匂いがし、桜が触れてもいないのに御鈴が三回鳴った。驚いた桜が目を開けて仏様を見つめると、あの声がした。


「桜よ。長きに渡りご苦労であった。立派に織り上げてくれたな。そなたに感謝する。此度の織物は、七夕節の夜に皆で吉紫山の麓の竹林へ持って行き、そなたの薬となった竹葉の辺りで広げ竹林へ返せ。その時また天女が取りに参る。


 そして、五色の夜露が弾け辺りの竹葉はみなそなたが飲んだ薬と同じ薬効を持つ。その葉を皆で摘み干して三枚を一包として民に分けよ。煎じて飲めば殿方の病に効く良薬となる。竹葉に薬効があるのは、七夕節から次の満月までじゃ。竹葉を摘むのも満月までじゃぞ。よいな。〈竹清白湯ヂィチンバイタン〉を民と分け合うのじゃ。頼んだぞ。」


その声は言った。


「仏様。かしこまりました。必ず、そのように致します。」

桜は、手を合わせたまま再び約束をして七夕節を待った。





 七夕節の夜。

 桜は寺の皆を呼んで竹林へ向かった。皆も上巳節のことが記憶に残っているので、今度もまた美しい光景が見られるに違いないと胸を躍らせている。


 夜空には上弦の月が浮かび淡く道を照らしている。無数の星が瞬く柔らかい夜である。

 桜の薬となった白く光る竹葉を摘んだ辺りまで来ると、春と同じように皆の手の上に織物を広げたがやはり皆の目には見えず、ただ重みと心地好い感触だけがあった。


 静かな竹林に向かって桜が

「天女様。無事にもう一山の五色の絹糸を織り上げ、ここにお持ち致しました。竹林にお返し致します。」

と織物を差し出すと、皆は息を飲んで待った。


 するとやはり、天女が舞い下りて来て織物を竹林に広げ始める。

 五色の織物に覆われた竹林は、真珠の粒のような白い夜露が竹葉から浮かび上がり五色に染まると次々と弾けた。竹葉は五色の夜露に照らされキラキラと輝いている。


 その様子は、皆の目にもしっかりと見えた。美しく透き通り五色に輝く竹葉の夜露。次々に竹葉から浮かび音もなく弾けていく。夢を見ているかのような不思議な光景に、皆は言葉を失っていた。


「さあ、みんな。竹葉を摘みましょう。明日干せる分だけを。」


桜の言葉を受け、まだ五色に光る葉を皆は摘んだ。



 そうして寺へ持ち帰り満月までの間は、摘んでは干しを繰り返した。乾いた竹葉は、三枚を一包として丁寧に包み民と分け合う。出来上がった紅桜湯と竹清白湯は、寺の本堂の隅に設けられた小さな薬庫に納められる事となった。


 空心はまだ桜の身を案じていた。約束の服薬期間は終えたが、もう十分に癒えたのだろうか・・・と。その不安から、少しだけ手元に二つの薬を置いておこうと考えた。そっと薬庫から幾らかの紅桜湯と竹清白湯を手に、空心が出てきたところで桜と鉢合わせた。


「空心様。その薬をどうなさるのですか? それは吉紫山の民のための物です。」

「もちろんだ。だが、そなたのもしもの為に・・・ 桜、そなたの分を少し手元に残しておきたいのじゃ。」

「空心様。いけません。私はすっかり好くなっています。もう痛みもありませんし苦しくもないのです。私は大丈夫ですから。それに薬は寺にあるのだから、いつでも取り出せます。さぁ、薬を元の棚に返してください。」


「そうは言ってもなぁ、桜。私は心配なのじゃ。この先ここを・・・ だから、少しだけ手元に・・・」

「いけません。民だって苦しんでいる者がいるのです。今、薬を必要としている者に分けねばなりません。一年に摘める葉の量には限りがあるのですよ。作れる薬の量も限りがあるのです。さぁ、薬庫へお返しください。」


桜がそう言って道を塞ぐので、仕方なく空心は薬庫へ戻り薬を元の棚へ返した。

 

 それを見て桜は、背を向けて薬庫を出た。桜が戸口に向きかけた隙に、空心はさっと三包ずつを掴み密かに自分の袂に入れた。そして、戸口で見張っている桜と扉を閉め共に薬庫を後にした。




 この年より寺では毎年、春には桜葉を夏には竹葉を摘んでは干し一包ずつにして取り置く。という作業が寺の大事な仕事として続くようになった。こうして紅桜湯と竹清白湯は、民に喜ばれる五光峯寺ごこうぶじの妙薬として吉紫山一帯に根付いていった。

 空心は、紅桜湯と竹清白湯と共に寺の朝顔の種を少し小さな籠に納めた。


 十六年前、空心が蒼天より持ち帰った種が毎年鮮やかに花を咲かせ寺の者も村の民も楽しませてる。民の中には、朝顔の種を欲しがる者も多くいた。空心や月、平もどれ程この鮮やかな青紫の花に希望をもらったことか・・・ 今では夏になると寺の至る所で朝顔が見られるほどに増え、五光峯寺のことを朝顔寺と呼ぶ者もいる程に鮮やかな寺になっている。


 その希望の種を、今度は蒼天に持って行こうと空心は心に決めていた。

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