秘密の薬
第7話 天女の頼み
桜は十五歳になった。無事に今年も春夏の服薬を終えた。これで龍峰山の神仙に云われた〈七季二回〉の薬を飲み終え治療が完結した事になる。空心らは安堵し、麗しい実りの秋を迎えていた。
〈そろそろ桜を蒼天へ帰そう。蒼天を発つ前に星水様とお約束した経典の書。民の為に経典を記す作業も、終わりが見えてきた。黄陽を発つのは何時がよいだろうか?〉
そう思案する毎日を空心が送っていると、桜がやって来て妙な事を話した。
それは、三日後の重陽節の準備のために菊花の仕度をしている時だった。
「空心様、今朝方に不思議な夢を見たのです。夢に天女様が現れてこう云われたのです。
〈吉紫山の北側にある滝の裏に‘雲外洞’《うんがいどう》という洞がある。重陽節の日にそこへ参って、五色の絹糸を取って参れ。〉と、仰ったのです。」
桜はそう夢の話をした。
空心は、不思議な夢を見たものだと思いながらも、
「そうか。そうか。はて、吉紫山の北側に滝などあっただろうか?」
と記憶をたどってみても滝に思い当たる節がない。
「そうなのです。空心様。薬草摘みやらで私も幾度かその辺りへ参りましたが、滝など見かけた覚えがないのです。」
「やはりそうか。私もこの寺に長く居るが見た覚えがない。念のため寺の小坊主たちにも聞いてみよう。」
空心が寺の小坊主たちにも聞いて回ったが、誰も滝を知る者はなかった。
〈はて・・・ どうしたものか?〉
そう思いながら空心が眠りに就くと、朝方に夢を見た。
「空心よ。桜が言った滝は、吉紫山の北側の大きな胡桃の木の近くにある。ただし、この滝は常人には見えぬ。龍峰山の護符を持つ者にしか見えぬ。雲外洞もまた同じ。その洞の中の五色の絹糸もまた同じ。桜にしか見えぬ。
重陽節の朝、山へ入り絹糸を持って参れ。そして、その五色の絹糸で反物を二組織り上げよ。
一つは上巳節までに、もう一つは七夕節までに必ず織り上げよ。頼みましたよ。」
そう告げると天女は消え、空心は目覚めた。
その日、朝の勤めを終えると空心は桜を呼び今朝方に見た夢の話をした。すると桜もまた、今朝方に同じ夢を見たという。
「空心様、重陽節の朝、山へ入りましょう。」
「あぁ、そうするのがよかろう。月と平にも声をかけ共に行ってもらおう。」
重陽節の朝、いつもより早く目が覚めてしまった桜は、月の手伝いをしてむすび飯を握った。まるで母娘のように睦まじくむすび飯を握る二人の姿に、平は、
「お嬢様もすっかり大人になられた。ご無事で何より。我々もひと安心だ。」
と、父親にも似た想いが込み上げ胸が熱くなり涙が滲んだ。
空心が朝の勤めを終えると、四人は山へ入った。寺は吉紫山の南側にある。北側へ行くには山裾の道をぐるりと回り、そこから山へ入らなければならなかった。
山に入りしばらく歩くと日が高くなり始め、木々の隙間から日差しがもれ暖かくなってきた。滝の目印は〈大きな胡桃の木〉しかなく、この広い山の何処を目指して進めばよいのか分からぬまま一行は歩いていた。
すると、目の前を鳩が飛んで行くのが見えた。よく見ると蒼い鳩だ。空心が寺の鳥かごに入れておいたはずの龍峰鳩が目の前を飛んでいる。
「おや? あれは龍峰鳩ではないか? いつの間にかごから飛び出したのじゃ。」
鳩はとぼけた顔をして首を傾げたりしながら、じっと四人を見ている。
「空心様、もしかしたら我々を道案内しようとしているのではありませんか?」
平が一番後ろから首を伸ばして声をかけた。
「平よ。そうかもしれぬ。法力でかごから飛び出したやも知れぬぞ。」
空心がそう合点すると、鳩が再び飛び始めた。
一行は鳩の後ろをついて行く。鳩は時々木に止まり、一行の歩みを待ちながら先へと進んでいく。いかばかりすすんだだろうか?
よく日の当たる少し開けた所に出たので一行は休み、桜と月が握ってくれたむすび飯一つずつ食べた。鳩はその間、木々の間を飛び回り花の蜜を吸っては戻り、また飛び立っては戻りを繰り返していた。
「鳩さん。ちょっと待っていてくださいね。私たちは朝から歩き通しで体がもちません。」
月が優しく鳩に話しかけると、蒼い鳩は大人しく切り株の上でじっとしていた。
日はだいぶ高くなり、北側の斜面からもその姿が見えるようになってきた。
「さぁ、そろそろ出発しよう。皆、大丈夫かな?」
空心が声をかけると、皆立ち上がり大きく頷いた。そして蒼い鳩もまた道案内を始めた。
しばらく進むと急に山肌がもろい所があり、その斜面を支えるかのように大きな胡桃の木が立っていた。鳩はその胡桃の木に止まったまま動かない。
「この木じゃな。これが目印の胡桃の木じゃな。」
空心が木に触れながら言うと、
「きっとそうです。この大きな木ですよ。」
そう言って桜も触れた。
しかし、辺りは山肌が広がるばかりで空心らには滝の気配など全く感じられない。
桜は一人、その先へ歩き出した。胡桃の木を過ぎ数十歩先で止まると、山肌が奇妙にえぐられたように見える場所があった。
「空心様! 本当よ。滝があったわ! ほら、ここに滝が!」
桜の大きな声に三人は急いで駆け寄り、桜が指差す場所を見るが一滴の水もなくただむき出しの山肌が見えるばかり。そのえぐれたような山肌の様子が、水が流れる跡のように見えなくもないが水滴はない。天女様が言った通り、本当に桜以外の者には滝の姿が見えなかった。
三人がぼんやりしているうちに桜は、山肌の中に消えていった。驚いた三人は、慌てて山肌を触ったり叩いたりしてみたが何の変化もない。
「本当に滝の裏へ行ったのじゃ。雲外洞へ行ったのじゃ。」
空心が呟くと、平が
「お嬢様は、大丈夫でしょうか?」
と心配そうに空心の腕を掴んでいる。
「私たちにはどうする事も出来ぬ。ここで無事の帰りを待つより他は無いようだ。二人とも案ずるな。」
空心はそう言うと経を唱え始めた。月と平も手を合わせ共に祈った。
桜は雲外洞の中にいた。中はひんやりとしていたが、薄っすらと明るく意外にも広かった。桜が少しかがみながら歩ける程の高さがあり、両端の壁は両手を広げても届かぬくらいあった。まっすぐ進むと両壁が薄緑に光る場所があり、苔のような物がびっしりと付いている。その苔の光に照らされ、目の前に五色の絹糸が二山見えた。
「これだわ。この絹糸のことだわ。なんて美しいんでしょう。それにとても滑らかで。天女様、絹糸を頂いて帰りますね。必ず期日までに織り上げるとお約束いたします。」
桜は姿の見えぬ天女に手を合わせ、背に巻き付けて来た風呂敷を解き、その中に絹糸を大切に包むと再び背負った。背中はずしりと重くなった。
そうして戻ろうと振り返ると、足元に小さな機織りがあった。胡桃の木で作られた両手で抱えられるくらいの大きさの可愛らしい機織りだった。
「これで織り上げよと云うのだわ。ならばこれもお借りしていきます。」
桜は背に絹糸を負い、両手で機織りを抱えて雲外洞の出口へ向かい歩き出した。
「ただ今戻りました。ほら見て! 本当にあったの。五色の絹糸がこんなにたくさん。それに機織りまで貸してくださったのよ。」
桜が元気に山肌から姿を現した。
外で待っていた三人は驚いて、一瞬言葉が出なかった。しかし、すぐに気を取り戻し桜に駆け寄った。
「お嬢様。あぁ、ご無事で何より。」
月は桜を抱きしめ、身体の無事を確かめた。空心と平も、よかった。よかったと笑顔で桜を見つめている。
「見てよ三人とも。ほら、機織りと絹糸よ!」
桜は誇らしげに機織りを突き出し、背中の風呂敷を解いて絹糸を見せた。ところが三人には機織りしか見えず、空っぽの風呂敷が地面に広がっているばかりだった。
「お嬢様・・・ 申し訳ございません。我々には何も・・・ 絹糸が見えません。」
平が申し訳なさそうに言うと、
「本当に? 月も空心様も? 本当に見えないの?」
桜が目を丸くして聞いた。月と空心は黙って首を振った。
「そうかぁ・・・ そうなのね。残念。とても美しい絹糸なのよ。」
桜は悲し気に風呂敷を包み直し背負おうとする。
「あぁ、お嬢様。私がお持ちします。」
平が代わって風呂敷を背負うと、確かにずしりと背は重くなった。そうして機織りは月が抱え、四人は来た道を再び鳩の先導で戻った。
まだ日があるうちに寺に戻れ、一行は安堵した。鳩はいつの間にか鳥かごの中に居た。小坊主たちに聞くと、鳩は一日中ずっとかごの中にいたという。
その夜、寺では菊団子に菊花茶を揃え菊花節を皆で祝った。
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