黄陽国、吉紫山へ

第5話 治療の始まり

 漆黒の海を十六夜の月が照らしている。


「穏やかな夜じゃ。このまま無事に着いてくれたら善いのだが・・・ 海が静かな内に少しでも、静月と陽平に黄陽の言葉を教えておこう。」

空心は、船旅の間に守役の二人を気遣って黄陽の言葉を教える事にした。



 静月は若く美しい気の利く娘で、陽平は武術の心得もある心根のまっすぐな青年だった。二人は歳も近かった。この任務は前途ある若者には酷な役回りかと、空心は少し心を痛めていた。せめて互いに励まし合い、これから始まる黄陽での長い月日を少しでも楽しく過ごして欲しいものだ。そんな想いで十六夜の月を眺めていた。



 蒼天を出て三日目の日暮れの後、急に雲行きが怪しくなり雨が降り出した。夜が更けるにつれて雨足は強まり波は高く海は荒れ出した。


「まずい。海が荒れ出した。このままでは船が・・・ 辰斗王とのお約束も星水様とのお約束も守れず、我が身は海の藻屑となってしまうのか・・・」


空心は、一心に祈るしかなかった。しかし、この荒れた海の揺れる船の中でも、七杏はすやすやと眠っている。


「まるで小さな菩薩のようじゃの。」

そう思って空心が見つめていると、突然、七杏の胸元が紅く光った。


 胸元から紅い護符が浮かび上がると、辺りに強い紅い光を放ち船全体を包み込んだ。そして、その内側に白い光が現れ船は二重の光の結界で包まれた。


「何という事だ。龍峰山の神仙様の法力じゃ。この護符にこんな強大な力があったのか・・・」

空心が半ば放心していると、静月がやって来た。


「空心様。これは一体?」

「静月、これは龍峰山の神仙様の法力じゃ。七杏の首にかけられた護符から放たれておる。七杏様が蒼天に戻られるその日まで、この護符を決して七杏様の身から離してはならない。よいな。陽平もよいな。」

「はい、空心様。そのように致します。」

二人は大きく頷いた。



 雨は一晩中続き海は荒れていたが、護符に守られた船は雨風が吹き込む事もなく壊れる事もなく海を渡って行った。




 翌朝、朝日が上がると紅白の結界は消え波も低く穏やかな海に戻っていた。


〈やはり護符には龍峰山の神仙様の法力が宿っておる。有り難い。七杏様、ここまでの力で守られているそなたを必ず無事に育て、蒼天へ帰そうぞ。〉

空心は改めて心に誓った。




 空心一行は、無事に海を渡り切り黄陽国へ着いた。港からは陸路を行き吉紫山の寺にたどり着くと、皆の顔に安堵の笑みが浮かんだ。空心は旅の荷を解くと庭と寺の入口に朝顔の種を蒔いた。


 翌朝早くに空心は裏山へ入った。まだ旅の疲れも癒えぬ体で〈紅く光る桜葉〉を探した。次の日も、その次の日も探したが見つからなかった。


〈やはり時季は限られているのだな。上巳節から満月までの間しか光らぬという事か・・・ 桜葉と竹葉は一対。桜葉が先でなければならぬ。やはり今季は、七杏様に飲んでいただくことは叶わぬか・・・〉


空心はやるせない気持ちで、最初の春を見送った。




 夏になると朝顔は鮮やかに咲いた。遠い異国の土でも力強く花開いた姿に、空心は希望を抱き日毎に手足の動きが多くなった七杏を静月、陽平と共に見守った。


 秋には朝顔の種を採り、また来年の花を見る楽しみにした。今度は七杏も一緒に見られるだろう。そう思うと三人の心は温かくなった。

 冬には雪も積もり外仕事は減り、静月と陽平は黄陽の言葉をたくさん覚えた。寺の小坊主たちとも打ち解け簡単な話ができるようになり、二人に笑顔が増えていた。




 季節は巡りまた上巳節が近づいて来て、吉紫山の桜が咲いた。七杏は一歳になり、よちよちと歩くようになった。その七杏の後を小坊主たちが追って右往左往する。なんとも賑やかで微笑ましい情景が日々繰り返されている。


 吉紫山の桜木には、二種類の桜木が交じっている。里の桜と呼ばれる桜木は、先に一斉に花だけが咲き山を薄紅に染め花が落ちてから葉が芽吹く。

 一方、山の桜は数は多く里の桜より少し後に花が咲く。だが葉が出るのは早く、花がすべて散らぬうちにたくさんの葉が枝を賑わす。そのために山肌に薄紅と赤みがかった緑色が交じり、一目に数十本の里の桜に劣る。と云う者もいる。


〈はて、紅く光る桜葉はどちらの桜木の葉だろうか・・・〉


空心は、花の盛りを迎える里の桜を見ながら心配になった。昨年は、葉を摘める時季に間に合わなかったから。


〈里の桜木だとしたら、もう葉も芽吹きだす頃となる。山の桜木なら、もう少し先だろうか?〉


 


 上巳節の朝が来た。空心は陽平と共に山へ入った。まだ日も上がらぬ青白く暗い山へ。しばらく歩き回ると、山の桜の花陰に紅く光る物を見つけた。


「もしや・・・」


空心が足早に駆け寄ると、山の桜の花陰に小さく芽吹いた若葉が紅く光っていた。


「空心様、お気をつけください。」


陽平が慌てて後を追う。空心は、山の桜木の前で立ち止まり一点を見つめている。


「空心様、あれでしょうか? 葉が紅く光っております。本当にありましたね。あぁ、これでお嬢様に飲んで頂くことが叶います。」

陽平は、桜葉に向かい手を合わせた。


「あぁ、陽平。本当にあった。紅い桜葉だ。山の桜木だったのだな。さぁ、摘ませて頂こう。」


 紅く光る桜葉は、一本の木に一枚しかなく数千本の桜木の中にたった数十本しかなかった。二人は辰斗王らに云われた通り七枚だけを摘み取り急いで持ち帰り、すぐに煎じて七杏に飲ませた。


「さあ、飲んでおくれ。これを飲まねば、そなたの病は治らぬぞ。」

静月が見守る横で、空心自ら飲ませる。だが、七杏は大泣きし、なかなか飲み込んではくれない。


「空心様、きっと初めての味に驚いているのです。幼子には薬は苦い物。仕方ありません。」

「そうかもしれん。許しておくれ、七杏。七日の間だけ耐えておくれ。」

空心は、七杏を静月に預け部屋を出て行った。



「そろそろ名前を、黄陽での名を付けてやらねば・・・ 

 あの子は、この吉紫山の桜木に守られて育つのだから・・・ 

 ‘桜’ がよかろう。杏と桜は近しい花。それが善かろう。」


空心は、幼き七杏が言葉を覚える前に黄陽での新しい名を決めた。

そして蒼い鳩を蒼天の空に向け放ち、辰斗王に知らせた。

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