第7話 朱色の猫の導き


「結局、あの子が勝っちゃった」


 二人でつい一時間ほど前に交わした会話を思い返しながら、エミリアは出口を押し開いた。

 内壁の向こう側にある商業区の片隅に、小さな劇団が小屋を開いていて、その裏側に内壁があるのだ。

 劇場との間には小さな茂みがあって、草むらに隠れるようにして出口は存在する。

 押しても引いても開くその扉は魔法の扉。

 外壁を形作るようにカモフラージュされて、そこに人ひとりが這って通れる程度の出入り口は開かれる。


「真っ暗……」


 寒い。

 季節は春を覚えた頃だけど、この国は北にちかくてまだまだ暖かいとは言い難い。

 だから、太陽が沈んだ夜ともなれば、王都の空気は吐く息すらも白くなる。

 どこに行けばいいだろう。

 ここまでの道筋しか頭にはなかった。


 小脇に抱えていたヒールを履きなおすと、手と膝についたチリとほこりをはたいて、エミリアは歩き出す。

 ちょうど、夜は始まったばかりで劇場では夕方からやっていた演目が終了したようだった。

 あの小さな劇場のどこにこれだけ多くの人が入っていたのかと思わせるほどに、大勢の観客が建物から吐き出されてくる。


「あの中に紛れ込んだらどうにか――誤魔化せるかな?」


 イブニングドレスに身を纏った貴族の娘が一人くらいいても、正装をした男女の群れのなかで目立つことはないだろう。

 そう思うと、エミリアの足は劇場から出て来る人たちが目指す方角。

 王都の東の中央区に向かう大通りへと向いていた。


 少し小走りになって歩くと、大通りに近づくにつれて行き交う人の数は増えていく。

 寄宿学校だった魔法学院は共学だったけど、これほどに多くの年齢、国籍、人種の豊かな人々を見るのは初めてだった。

 この国の貴族と言えば、魔法を使えることだけが特権で。

 そこには人間族しかいなかったから、エルフやドワーフや、獣人なんて目にしただけで心が驚きで跳ねて喜んでいた。


「そっか。私……私も、魔法使いだから」


 魔法とともに生きて来た妖精族や魔族や精霊たちが目の前にいる現実が嬉しくて仕方ないのだ。

 人間が使う魔法なんて、矮小でちっぽけなものだから。

 あの夜会の会場から宮廷魔導師たちが幾重にも張り巡らせた結界を、たった一度の息吹で吹き飛ばしてしまった勇壮な朱色の魔物。

 あれは何だったんだろう。

 とても雄々しくて、とても強大で、どう考えても畏怖の対象にしかならないのに。


「どこか優しかったな、あの魔、は」


 恐怖を感じたのは人の本能にそんな何かがあるからだとエミリアは知っていた。

 はるかな古代。まだ人が闇の恐怖を克服する炎を手に入れる以前。

 闇は何よりも恐れられた存在だったから。

 だから、それを感じたことは自然なことなのだ。

 闇に潜み、闇の中に生きるのが魔だから。

 その魔から、力をかりて奇跡をおこなうのが魔法で、自分はその魔法使いに連なる者だから。


「あの魔女も変な人……ちゃんと逃げれたのかしら」


 これから自分の行く末すらもまだはっきりしていないのに、人の心配をしている余裕あるの? 

 心のどこかで別の自分がそう問いかけて来る。

 そんな余裕、あるはずがない。

 あの場を逃げたのには理由があった。

 第六王子アノンの言葉に間違いはなかった。

 この国では、女は男性の持ち物なのだ。

 婚約者、それも王族を相手にもったのなら……エミリアもそして、友人のアナスタシアも死ぬまでその婚約者の持ち物なのだ。

 どう自由を望んだとしても、それが叶うことはない。

 あるとすればそれは簡単なことで。


「さーて……どこで、死のうかな」


 なるべく人目に付かない場所で。

 でも、見つかる時は多くの目に留まる、そんな場所がいい。

 そう考えると上がってくる自殺する場所の候補は限られてくる。

 中央区にある巨大なビル……総合ギルドの最上階からの飛び降り自殺。


 痛いのは嫌だな。

 じゃあ、魔法使い御用達の店に行き、身につけている宝石類を売り払い、そのお金で高価な毒薬を買ってもいい。

 でもそうなると副作用でどんな顔になるかわからない。

 東洋には死ぬ理由によって、死ぬ時の肌の色が決められるらしい。

 そのために研究され開発された専用の毒があるのだとか。


「緑色の肌になって死体が発見されたらもう誰か分からないわね」


 たぶんそんなことはないのだろうけれど、やはり苦しみながら死ぬのは嫌だった。

 だけど、と再考する。

 苦しみを味わい第四王子から叩きつけられた婚約破棄を恨みながら、悶え死ぬ。

 そんな死に方はどうだろう?

 このやり方なら自分はあの男を許さずに、家名を汚すことなく、自分の命だけで全てを収めることができる。

 あの男に対する怨念はどう晴らせばいいのかな?


「ああ、そうか。命と引き換えに契約をすれば……」


 思い返されるのはあの時見た、魔の勇壮なその姿。

 あれほどの魔がどうしてあそこにいたのかは不明だが、それにしてもあの魔女が関わっているのは確かだろう。

 もしもあれが使い魔なら、あの魔女は途方もない魔力を秘めたはるか上位の存在だ。

 この国の、宮廷魔導師の頂点に立つ魔法卿ルゲル男爵と並ぶか、それに近しい魔力を操るに違いない。


 エミリアも魔女の端くれだ。

 純粋な魔力の強さが全てにおける魔法界において、より上位の存在には純然たる憧れがどうしてもつきまとってしまう。


「私のために身を呈してアノンの馬鹿を叱責してくれたのに。本当に失礼なことをしてしまいました」


 せめて最後だけは貴族令嬢らしく、きちんとした言葉を並べることにしよう。

 言葉には魔力が宿るからどこかの精霊が、自分の謝罪を彼女に伝えてくれるかもしれない。

 その時、自分はもうこの世にはいないだろうけれど。


 歩いている間、いろいろと思いあぐねて、ようやく決めたのは王都の間を流れる大河の支流に、身を任せることだった。

 悪魔との契約方法なんて何も知らない。

 むしろ自分の魂が闇の世界の住人のものになることで、残された家族に思いもよらない残酷な運命が降りかかるかもしれないし。

 そんなこと思ったらただ黙って死のう。


 裏切られたから死ぬんじゃない。

 自分の名誉を守るために。

 家の名前を汚さないために。

 自分の命で全ての罪をあがなうために。

 少なくとも、それが貴族に許された唯一の特権だから。


「あー寒そう。それに攻めたそうですねー……はあ。なんでこうなってしまったんだろう」


 この世に対する未練と共に思い浮かんだのはなぜか、千年以上も昔の童話のお話。

 北国のこの王国に流れる支流の先。

 シェスという名前の大河が東の海へとたどり着くその河口に、かつて巨大な帝国があったという。

 対岸の王国とは犬猿の仲で、両国は大河と海が交じり合う湾内に土砂が堆積してできた三角州を巡って、ずっと争ってきたのだとか。


 百年に及ぶ戦争。

 それを止めたのはいま、エミリアが住んでいる王国が属するルゲル枢軸連邦で。

 春のある日、帝国のとある大公家でずっといがみ合ってきた二つの国の若い貴族たちが、お見合いをしたのだという。


 見合いといっても既に相手は決まっていて、その場所で大公の娘は王国の婚約者を妹に奪われたのだとか。

 今自分がしようとしているように、彼女は大河に身を投じることで己のプライドと、皇帝に対する大公家の罪を償おうとした。

 ところが死のうとした寸前で、この辺りがおとぎ話なのだが。


「なんと皇帝陛下の第二皇子、直々に結婚を申し込まれるなんて、ね」


 さすが童話。さすがおとぎ話。

 その後の二人のことはハッピーエンドすぎて思い出したくもない。

 今の自分には、貴公子すら現れてくれないし、自殺を止めてくれる第三者もいない。


「あーやだ。冷たいのやだ、死にたくないー。でも生きてたら、家が困る……お父様とお母様が断罪されるところなんて、見たくない」


 勇気を出せ自分!

 死ぬための勇気なんて欲しくないけれど。

 家族のためなら仕方ない。


 漁師たちが釣り船を係留するために使っているのだろう。

 鉄柵がずっと川岸に打たれ向こう側に行くことのできなくなっているそんな場所で、ほんの少しだけ隙間が空いている。


 あそこから身を投げれば、腰まである長い髪、足首まで隠れるようなイブニングドレス。

 どちらも大量の水を吸って、這い上がることすら難しいだろうから。

 ごうごうと夜闇に音を立てて流れ行く大河の音は、まるであの世から自分を誘う死者のいななきのようで、全くもって気味が悪い。


「せーの……」


 と、思い切って走る込もうとしたら、いきなりスカートの裾が引っ張られた。

 当然の如く勢いのついた彼女は、足元が疎かになってしまい途端、足がもつれてその場に倒れこんでいた。

 もちろん、顔面から。

 ずだん、と重そうな音がして行ってくるべき衝撃に目を閉じて備えたら、なぜかそれはいつまでたってもやってこない。

 痛いという感覚すら、捻った足首から這い上がってくるけれども、お腹や胸や顔面にはそんなものは生じなかった。


「……何よ、もうー」


 多分、街路を埋めているレンガの合間か何かにつま先をひっかけたに違いない。

 そう思って振り返ると、そこにはあの時見た一人の魔女と……自分のスカートの裾を加えて話そうとしない、巨大な朱色の長毛を持つ猫が立っていた。


「死ぬには冷たいんじゃない? それに婚約破棄ごときで死なれてもねー」

「あっ、あなた! あの時の……」

「シリル。金麦のシリル。それが私の名前よ。あなたは?」

「その……先に、スカートを……」

「ああ、そうね。ほら、レム」


 魔女がそう指示すると、朱色の猫は咥えていた裾を放した衝撃で倒れ混まないようにと、数歩歩いてこちらに近づいてから丁寧にそれを口から放してくれた。


「ありがとう。その、ちゃんとしたお礼を言えなくて……ごめんなさい」

「別にいいのよ。あなたの言うとおり、大したおせっかいだったから」

「それはそのっ、あの時はああ言うしかなかったから……国王陛下がいらしたから、だから――あなたに味方するようなことが言えなかった」

「分かってる。貴族って不便よね、頂点に立ってのうのうと生きてる王族のために命をかけなきゃいけないんだから」

「そんなこと……言わないで、ください。それを誇りに思い、懸命に生きているそんな彼らもいるのですから」

「そうかもね。愛想が尽き果てて見放す誰かもいるかもだけど」

「誰かって。そんな人、いるんですか? 国に居場所がなくなってしまうじゃないですか」


 そんな疑問をエミリアはシリルに投げかける。

 その誰かがもしかして、あなたではありませんか? そう言いたくて、でも言えなくて。

 正解を知るよりも彼女に謝罪をして感謝を伝えて、止めてくれたけど。

 やっぱり鉄柵の向こうにある水の流れに身を任せた方が、もう色々と考えるのも苦しくて。どこか自由になりたくて……。


「死んだら何もかもあの男のいいようにされるわよ」

「え……?」

「それくらい理解しなさいよ、魔法学院を首席で卒業する予定だったんでしょ? センディア公爵家のエミリア様?」

「ご存知で……いらっしゃいましたか」

「有名だから、あなた。アナスタシア様と並んで、十数年ぶりの才能が旅立っていくなんて。そんな嬉しいような悲しい悲鳴、魔法学院の知り合いが上げてたから」

「そう言われると恥ずかしい限りです。結局こうなってしまった」

「まだ終わってないから。生きてたらやり返すチャンスだってあると思うよ? あくまで生きてたらの話だけど」


 死ぬなと言われてもじゃあ逆にどうすればいいの、とエミリアの心は声にならない悲鳴を上げる。

 なぜかそれを聞いたかのように魔女がうんうん、と頷いて返事をくれた。


「とりあえず生き抜けばいいのよ。姿を変え名前を変えてやり返すチャンスをずっと伺えばいいの。もちろん、死んだことにするのは大事だし、親兄弟とか親しい友人とか。そういった関係者にはこれから会えなくなるけどね」


 そうするなら協力するよ?

 魔女はそう言い、悪魔のような微笑みをにっこりとこちらに向けて笑っていた。


「もし。もしそれをするとして、私が支払うべき対価は何ですか?」


 魔法には望んだ結果に対して、等しい対価が要求される。

 魂を差し出せとか、体をよこせとか、その寿命の多くを復讐が終わった後に、譲渡しろとか。

 死を儀装するということは、魔女である自分の肉体と同じ特性を持つ、珍しい誰かが。

 その肉体が必要となる。

 魔法学院を首席で卒業することは、伊達ではなかった。


「対価、ね? そうねー私の勤めているところはずっと人員不足だから。そこの補佐でもやってもらおうかな」

「え、補佐って? 勤めているってどこにですか? あの大広間に天井から降りてくるようなそんな職場があるはずが……」

「あーまあ、言いたいことも分かるんだけどね。これ私の名刺」

「はあ、どうも……総合ギルド、庶務――六課、課長専属秘書……随分な役職をお持ちなんですね」

「そうなのよ、うちの連中はあいつもこいつも魔力だけは強いんだけど、仕事がまともにこなせないから。誰か補佐をする人間が必要なのよ」

「その補佐をされているシリルさんのさらに、補佐をするのが私の役割……っていうか、対価ですか? でも、死体は? こう見えて、私。特殊な体質なんです。遥か遠い祖先は闇の精霊王に仕えていたとかで、だからこんな黒髪をしていて。それに、魔力の流れだって普通の人と違うし――」

「問題ないから心配しなくていいよ。庶務六課(うち)には色々と複製するのが得意な奴とかいるから。死亡した書類がって課長がいくらでも偽造してくれるしね、まあとにかくそんなとこで、手を打たない? 私、お腹空いちゃってさ。行きつけの居酒屋にこれから行こうと思うんだ、エミリアはお酒飲める?」

「え? お酒? たしなみ程度にはできますけど、え? ええっ? 本当にいいんですか?」

「いいんじゃない。何かあったらあいつはどうにかするよ」


 あいつ……魔女が指差した先にいるのは、大きく長い尻尾を機嫌よく左右に振りながら先を行く、自分を引き止めてくれた朱色の猫だった。

 名前を確か、レム。といったか。


「あれ、使い魔じゃないですか」

「ただの使い魔じゃないから。それはあなたもあそこで視たでしょ?」

「……多分?」

「じゃあそういうことで」

「え? どういうこと!?」

「ほら行くよ。夜が更けてきたから寒さが増してきた。さっさと行かないと、席が取れなくなっちゃう」


 ほら早く早く。

 金色の髪を美しい銀月の光に染め上げて、おとぎ話の中の皇太子様じゃないけど。

 助けに来てくれた彼女はどうやら新しい人生を与えてくれるらしい。

 これからどうなるか分からないけど。

 これがもし、悪魔の誘いだとしても、秘密を共有できる親しい仲間ができたのかもしれない。

 裏切られるだけの道具になるそんな運命かもしれないけど、それならもう少し賢く誘うと思うし。


 今は騙された気になって彼らについて行ってみよう。

 こうして、エミリアはシリルに導かれ、裏ギルドの門を叩いた。



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王都のチートな裏ギルド嬢 和泉鷹央 @merouitadori

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