第6話 夜会
エミリアは走っていた。
六年間通った校舎は通いなれた場所だ。
どこにどんな道があり、どこに繋がっているのか。
上級生たちが教師たちに内緒で魔法によって作り上げた抜け道だっていくつも知っている。
そのうち、どれがどこにつながっているのかも。
行きを荒くして、履いているハイヒールが走るのに邪魔だと初めて気づいた。
逃げながら、速度をゆるめて両足の枷になった靴を片方ずつ脱いで、まとめると小脇に抱えてまた、走り出す。
これからどこに行こう。
もう二度と、家には戻れない。
学院にも、友人や親せきのどこにっても迷惑がかかるだろう。
そう思いながら走っていると、目的地についた。
普段は壁の木目にしか見えないその場所。
魔力を注ぎ込み、ある呪文を唱えると、学院のある王都の内壁のはるか外側。
貴族と平民との世界を妨げる、あの外側に道は続いている……前回、友人のアナスタシアと商業区に遊びにいったからどこに抜けるかは知っていた。
「どうして、こうなったのかしら」
逃げ道がない人生にどうしてなってしまったんだろ。
この向こう側には自由があってくれと願いながら、エミリアは二度目となる抜け穴の入り口を潜った。
こうなってしまったその発端を思い返しながら。
今夜は特別な夜会だ。
国内外から来賓を呼び寄せて、数年に一度だけしか開催されない王立魔法学院の卒業式……その前夜祭。
王都の学院で学ぶこと約六年。
十六歳のこの年まで、貴族令嬢に与えられる教育の中でも最高峰。
王妃補、王太子妃補など、将来の国母候補を育てる特別クラスの卒業生が、前夜祭のメインディッシュ。
エミリアとアナスタシア。
二人の王子妃が揃った席は、もっとも賑わいを見せていた。
「アナスタシア、あなた今何人目?」
「覚えてないわ。エミリアは?」
「途中から数えるのやめちゃった」
「右に同じく」
そんな会話が少女たちの間で交わされて一時間が経過した。
卒業生たちは未来の社交界のリーダーとなる逸材ばかりだから、彼女たちに挨拶をして覚えてもらおうと画策する貴族は多い。
その間、ひっきりなしにやってくるダンスの申し込みをしたい男性たちは後を絶たない。
もっとも、どんなに立派な贈り物したところで、その大半は主催者である学院側が取り込んでしまうのだけど。
お飾りのお前たちは黙って壇上で笑顔を振りまいていればいい。
それが彼女たちを指導してきた教師たちの、最後の教えであり、格言だった。
下手に動かれたら、何かあった時に取り返しがつかない。
そういうリスク管理の元に計画された指導であっても、年頃の少女たちにしてみれば、六年間もの間、ずっと退屈で厳格な妃教育を詰め込まれてきたのだ。
窮屈な思いをしてきた少女たちにとって、こんなに楽しい場所がいきなり提供されたら――誰だって、間違いのひとつやふたつ犯してしまいそうになる。
最初のうちは嬉しくて心が躍っていたけど、断るのに慣れてくるとなんだかそっちの方が楽しくなってしまった。
「公女エミリア様。どうか自分と踊ってはいただけませんか?」
「え、……私には殿下がいらっしゃいますから」
「それは失礼」
そう言って、相手は残念そうな顔をしてちょっぴりと微笑んでから、席を辞した。
「まだ断っちゃったのね」
「殿下からのそういう命令だから、仕方ないじゃない?」
「ま、こっちの殿下は構ってくれなくて困るんだけど……」
隣の席の友人が、同じように誘いに来た男性に少し強めの断り文句を投げつけると、可哀想に。
相手はとても残念そうな顔をして彼女の目の前から離れていく。
「その八つ当たりやめたほうがいいわよ」
「ほっといてよ、エミリアには関係ないわ」
「アナスタシア……」
「嫉妬されすぎる女も大変ね。エミリア?」
「そっちこそほっといてよ」
社交界のパーティーで男性からダンスの誘いを受けたとき、断ることは失礼にあたると習ったけど。
私の殿下は嫉妬が深すぎて、こちらが困るほど……。
センディア公爵家第四令嬢エミリアは、ダンスの誘いに来た相手に軽く会釈をし心の中でため息をついた。
振り返ると自分にそそがれる熱い視線が一つ。
王族が座る奥の檀上から、自分の婚約者がじーっとこっちを凝視して、満足そうに頷いていた。
「夜会が成功するように、応援しているよ。頑張ってくれ」
あの男の空々しい一言が頭の中をよぎる。
頑張ってくれなんて応援してたけど、実際にこちらに向けられるそれは、監視以外の何物でもない。
「私は籠の中の鳥ですか……!」
思わずそんな一言が飛び出しそうになって、慌てて飲み込んだ。
あの嫉妬心さえなければ素晴らしい男性なのに……エミリアは婚約者に軽く微笑むと、自分たちに用意された席を見渡す。
「そろそろ解放してほしいわ」
「アナスタシア。後二時間もすれば終わるから」
そう言い、振り返るアナスタシアの瞳に見えたエミリアは限りなく女神に近しい美しさをもつ、美少女だった。
夜に映える黒髪。墨色のようなそれは、濡れ羽のようにきらきらと夜会の天井から降り注ぐ魔法の灯りを照り返して、煌めいていた。
苔色の理知的な瞳は、大空の蒼をすべて飲み込んだ湖の底のように澄んでいて、見る者を一瞬で虜にする。
すらりと伸びた手足、小さくも形のよい頭部。長い首と出るところは出ている、均整のとれたプロポーション。
同年代の男性たちは、相手がいない彼女を目ざとく見つけて声をかけてくる。
「どの口が言ってるのかしら……。退屈でたまらなくて抜け出したいのはあなたでしょう?」
「知らなーい」
もうこれで何人目?
十人を超え辺りからエミリアは数えるのをやめた。
そろそろいい加減にして欲しい……。
同世代の令嬢たちよりも頭一つ高い彼女は、夜会という名のこの会場の雰囲気を楽しめない。
二百人ほどが参加するこの会場では、アナスタシアとエミリアはそれなりに目立つ存在だった。
隣に座るアナスタシアが、残念ね、と声をかけてくる。
「またお断りになられましたの、もったいない」
友人の伯爵令嬢が、いかにも残念だわと声に出す。
それはどこか自分を非難しているように聞こえてしまい、エミリアは顔を曇らせた。
「アナスタシア。それならあなたが、私の代わりに踊ってくださらない?」
「あなたの代わりに? 嫌だわ、譲られたみたいでいい気がしない」
嫌味を言うくせに自分がその立場になるとあっさりと言葉を翻すこの女。
今人気なのはあの公爵令息、この前人気だったのはあの騎士団の団長。
そんな噂話ばかりを振りまいては周囲の反応を楽しんでいる、そんな彼女、バーゼル伯爵令嬢アナスタシア。
銀髪と紅の瞳がとても美しい彼女もまた、自分と同じ王子妃補、だ。
もっとも、こっちは第六王子で、彼女は第八王子。
うちは四つ年上で、もう独立していて自分の領地も屋敷も家臣もいる。
あちらはまだ十二歳で国王陛下の覚えもあまりよろしくないらしい。
「譲られたなんてそんなこと思わないで。私の殿下はその……」
「あなたの夫になる男性、第六王子アノン様は嫉妬深いことで有名ですからね。とっても大変そう……」
羽根扇子で口元を隠して、くすくすと笑うアナスタシアはどうにも好きになれない。
最も、その裏には余裕がないことを知っているから、エミリアは腹を立てることがない。
アナスタシアの婚約者、第八王子ザイードは母親が第二夫人ということで、宮廷で権勢を誇っているからどうにか王子の役職から外れないのだとか。
王位継承権を持つ王族だけが、王子・王女を名乗ることを許される。
そんな意味で、彼女の心の中では将来に対する不安が尽きないのだろう。
「お気遣いどうも。あなたにも幸せがやってくるとよろしくてね」
「は? どういう意味!」
「お気になさらず。ほらそちらにも誘いが来られたみたいよ」
「え、ああ……こんばんは」
断ればいいのに。
自分の立ち位置に不安だから一人でも多くの誰か味方になって欲しくて。でも彼女は自分のしている愚かしさに気づかない。
バカな女。
この夜会の二つの華、エミリアとアナスタシア。
その運命は、意外なことにエミリアの敗北に傾こうとしていた。
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