ドラフティング・ストリート



 藤島壮也ふじしまそうやは、自慢の友達だった。


 初めて会ったのは、小学二年だったか。僕が地元の野球チームに入ったとき、彼はすでに才能の片鱗を垣間見せていた。「とにかく上手い奴がいる。打っても投げても一級品」だという噂が街角から街中まで広まっていた。


 子どもの目にもそれは確かだった。美しいバッティングフォームと、空気を物理的にぶち壊すようなスイングの力。一人でチームの戦力を変えてしまうほどのパワーを持っていた。事実、壮也はこの時すでに高学年チームのメンバーに名を連ねていた。


 バックネット裏で彼の一挙手一投足を眺めていた僕の瞳は、さぞかし輝いていたことだろう。それはまるで運命の恋だった。僕は見惚れていたのだった。


「あ、君は同じ学校の……」


 すぐそばに来ていた壮也に、僕はすぐ声を出すことができなかった。


 その後、二人とも同じ中学校に進学し、野球部に入った。当然のごとく、三年生にもろともしない強さを兼ね備えた壮也は、すぐレギュラーに成り上がった。地元で流れ尽くしたスーパースターの噂は、他の街にも徐々に広がっていった。県の新聞にも取り上げられ、「将来のホームラン王」と銘打たれた。


 特に三年生のときには、たかが地方の予選会場に、何人もの威圧感のある大人が壮也のプレーを見にやってきた。彼がバッターボックスに立つたび、何度もカメラのフラッシュが鳴り、怖い大人は手元のメモ帳にペンを走らせる。僕にとっては、あまりいい気はしなかった。壮也がまるで奪われるような、僕たちの中にいる壮也を舞台に無理やり引きずってしまうような、そんな恐怖と疑念の両方を大人たちに向けていた。


 壮也も、「あまり目立つのは好きじゃないなあ」と笑っていた。僕も「そうだよね」と同意した。


 それから彼は、少し離れた街の高校に進学した。野球の強豪校として有名なところだった。


 地元の神童も、都会に行けば「野球が上手い奴」の一人。そういうことはよくある――実際、壮也も高い壁にぶち当たって、苦労をしたらしい。しかし、人並み以上の試行錯誤と努力が実を結び、学年でも随一の選手にまで成長した。甲子園出場は叶わなかったが、プロスカウトも一目置く成績を引っ提げて大学に進学した。


 壮也の成長スピードは、決して目立つものではない。ただ一歩一歩、着実に階段を上っていき、そして歩みを止めることをせずに実力を伸ばしていった。


 大学四年生の、春。壮也は今年のドラフト会議の目玉選手として、様々なメディアの脚光を浴びていた。左バッターとして巧みな技術と、華麗な身体能力が魅力だと球団のスカウトは語った。


「自分の進路は決めかねている」と壮也は報道陣に向けていった。テレビでも特集が組まれるほど全国区でも知れ渡り、地元も大騒ぎになっていた。「この街からプロ選手が出る」という興奮が、人々の心をざわめき立てていた。


 僕も、たくさんの人――うとまれない程度に壮也のことを自慢した。小学校中学校が、一緒だったこと。同じ少年野球チームにいたこと。それとはまた別に、放課後グラウンドで野球をしたこと。キャッチボールをしたこと。当時からずば抜けた才能を持っていたこと――。僕は誇らしげに語っていたことだろう。壮也の背中が輝かしかった。未来のスーパースターである彼と友達でいることが、何より嬉しかった。


 すべてが順調に進んでいる。そう思った矢先、唐突に幕は閉じた。


 壮也が、プロ入りを志願せず、社会人野球の道に進むことを決意したのだった。



    〇       〇       〇



 鳥の長い鳴き声が、いっぱいに響き渡る。草の生い茂り方は、数年前よりもひどくなっているかもしれない。


 川べりのすぐ近い野原。そこに降りる途中の階段には、すでに先客がいた。紺のウィンドブレーカーを着て、短髪が綺麗に揃えられている。


 足音で気付いたのだろう。振り返った壮也は、相も変わらない落ち着いた表情を見せていた。慎ましやかな笑みは人を不快にさせず、誰もが彼のふところに入ってしまう魅力の持ち主。バッターボックスに立つ、鷹を狩るような目つきのギャップにはいつも驚いてしまう。


「久しぶり。背、伸びた?」


 彼の第一声は、溌剌としていた。


「変わんないよ」

 

 僕は答えた。心中を察しさせないように気を付けて言葉を選ぶ。


「壮也も、元気そうで」


「ああ、そうだね。おかげさまで」


「ああ、うん」


 僕は言葉に詰まる。果たして例の件を切り出そうか、迷っていた。壮也から切り出してくれれば楽なことはないのに、彼は女神の像のように和らげな笑みを浮かべるだけだった。


 昨日行われたドラフト会議で、壮也の名前が呼ばれることはもちろんなかった。もしも名乗りを挙げていたら、複数の球団が指名をするに違いない。それほどの逸材だったのだ。


「やるか」


 僕は、手に持っているグローブを掲げた。ここ二、三年ほど触っていなくて、ずいぶんと固くなっている。壮也は、よしっと立ち上がって、階段を軽々と降りていった。左手にはめたブルーのグローブは、また違う年季の入り方をしていた。


 それから黙って、キャッチボールが始まる。壮也の球はいつも正確で、胸にすっぽりと収まってくる。パシン、と響くミットの音が心地よい。左手から全身に伝わる気持ちよさは、野球をやった者にしか分からない感覚だろう。


 僕の投げ返す球には自然と力がこもっていた。気付かれただろうか。


 怒り、とまではいかない。ただすごく、モヤモヤしている。疑問符が浮かび、壮也への八つ当たりになってしまう。なぜ? どうして? その答えを訊こうとも訊けぬまま、無言のキャッチボールが続いていく。


 誰もが期待と夢を向けた地元のスーパースターは、静かにその役目を退場していた。


「なあ」壮也が口を開く。


「なに?」


「野球、最近やってないだろ」


「バレた?」


「ああ、なんとなくね」


 はは、と僕は笑う。同時に投げたボールは、右に小さく逸れた。


 壮也からの返球が来ない。僕の身体が止まる。


「なあ」


「なに?」


「聞いてくれるか?」


「なにを?」


「俺の話」


 鼻から息を出して、腰に手の甲を当てた。内心ドキドキしながら。


「うん、聞くよ」


「ありがと」


 壮也は、ボールを右手でもてあそぶ。


「めちゃくちゃ考えたんだ。俺がこれから何をやりたいのか、将来どうやって生きたいのか。真剣に、監督にも親にも相談してね……。いままでは、とにかく強いところで野球をやりたいっていう気持ちだけでいたけど、プロ野球の世界は強いだけじゃダメだなって」


「強いだけ……か」


「で、ようやく自分の気持ちに答えを出せた」


 招き猫のように、白球を持った右手を笑う顔の横にやった。


「俺はただ野球を楽しくやりたいだけだって。好きなことをめいいっぱいしたい、それだけだって」


 僕は右手をポケットに突っ込む。目線は、壮也の頭上に向けていた。


「……それが理由?」


「ああ、そうだね。で、楽しくやりたいだけの人間に、プロの世界は重荷すぎる」


「待ってくれよ。お前は地元のヒーローだぞ? 誰かに夢をこれからも与え続ける選手になれるじゃないか。それに、社会人よりもプロの給料は破格だ。壮也の実力を考えて、一億円プレーヤーも夢じゃない」


「まあ……そうなんだけどね」と、自虐的に笑った。


「何が、不満なんだ」


「不満――というか、俺はただ野球を楽しくやりたいだけなんだ。

 ピエロになりたくないんだよ。タレントにも道化師にもマリオネットにも、俺はなるつもりはない。野球がやりたいだけなんだ」


 小さく息を吐く。まぶたを下に落としたあと、僕に向けていつものように目尻を上げた。


「いくよ」


「ああ、うん――」


 壮也の投げた球は、右に大きな楕円を描きながら、構えたグローブの位置にスッポリと優しく入っていった。


 気持ちのよい音が、グラウンドに広がった。











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