第17話:失意の中の幽体離脱
悲しい。
やるせない。
心が千切れてしまいそう。
苦しくて、愛しくて、もどかしい。
目の前にあるのに、手に入らない。まるで蜃気楼のように
ゆらゆら、
ゆらゆら…。
「ーー様」
「ーーお嬢様?」
意識が浮上して、瞼が揺れた。ああ、目を覚ましたわ。
「お嬢様?」
「ーー誰?」
「アルヴィーナお嬢様、サリーでございますよ?どうなさいました?」
ぼんやりと目を開けたその人物は、私であって私じゃなかった。だって、私はここにいる。サリーと私にそっくりな人形を見下ろしているのだから。
「サリー?誰?」
「お、お嬢様?メリー!ローリィ!エヴァン様をお呼びして!アルヴィーナお嬢様が【お隠れ】になってる」
「私は、誰?ここは?私、どうしたの?」
眼下では、サリーが慌てて私の体を横たえて、メリーがエヴァンを呼びに走った。ローリィは私の顔を見て、治療魔法を施そうとしているけど、動揺しすぎて魔法が発動していない。
ベッドに横たわっているのは私の体だけで、私はどうやら幽体離脱をしてしまったようだ。
『久しぶりだわ、この感じ…』
そう。これは初めてのことではなかった。魔力の暴走をするたびに、私の体は耐えられず、魂が抜け出してしまう現象を度々経験している。大抵は感情的になりすぎて爆発してしまいそうな魔力から体を守るためだけれど、今回はどうしてかしら。
魂の記憶と、体の記憶はいつも一致しているとは限らない。なぜなら体の記憶は抑制をかけていて理性を重視するのに対し、魂の記憶は私自身がどう感じたか直接的な記憶を刻み込むから。苛立ちや、嫉妬、恋情や悲しみ、感じたことを全て覚えている。その感情を体が抑えられなくなると魔力となり暴れ出し、その元凶である魂を体から追い出してしまうのだ。
初めて幽体離脱を経験したのは、エヴァンが私のせいで鞭を打たれた時だったと思う。あの時は怒り狂って体から押し出された後も、母に対する憎しみと恐怖と怒りで真っ黒に染まり、母の体に押し入ろうとしたのを覚えている。
母の魂を鷲掴みにして食いちぎってやろうと襲いかかった。手に触れた魂は赤黒くてブヨブヨして醜く小さな塊だった。それを握りつぶしてしまおうと思ったところで、エヴァンに止められたのだ。
「大丈夫だから、安心していい」
そう言って体を抱きしめられて、猛々しく燃え盛っていた魔力が吸い取られたような気がした。途端にどす黒い感情が薄まって、私は母の魂を手放した。母の魂は体の奥深くに潜り込んで小さくなって震えていた。貧相で禍々しく、ただただ怯える魂を見下した。大きくて暖かなエヴァンの魂に掬われて私の魂はすぐに体に戻っていった。その時の重力も忘れてはいない。体に戻った魂は体の重さに悲鳴をあげ、私は数日寝込んだ。
それから何度か同じような経験をしたけれど、いつもエヴァンが掬い上げてくれた。エヴァンの魂はいつも暖かくて大きくて、私を安心させる。エヴァンがいるから、私は私でいられるんだと心から信頼を委ねた。
エヴァン。
エヴァン。
私の唯一の鎖。私をこの世界に引きとどめておくたった一つの
早くきて。私を助けて。掬い上げて。
メリーがエヴァンを連れて戻ってきた。部屋に入るなり大股で私のそばに歩み寄るエヴァン。
「アルヴィーナ?どうした、アルヴィーナ?」
「だ、誰?あなた、誰?」
魂のない私の体が怯えて答える。なんの記憶もないんだもの。私の抜け殻は、エヴァンさえも覚えていない。私の声で言葉を発するただの人形は心を持たない。
「アルヴィーナ様が、き、記憶喪失…?」
「魔力暴走のせいでしょうか?」
メリーとローリィが不安げに震えた声をあげた。エヴァンはわかってる。私が体にいないこと。だから頭を横に振り、悲しげに微笑む。
「アル、俺がそばにいるから安心していい。戻って来い」
嘘つき。
大好きな声で大きな嘘をつく。
私をボンクラ王子に押し付けようとしているくせに。
そうして自分は平民に戻って、自由に過ごそうとしているんでしょう。
お荷物の私はいらないのよ。
嘘つきのエヴァン。
「いや……っあなたたち、だれ?私は、私…私の名前が、思い出せない」
私の体が怯えながら辺りを見渡す。
「え、エヴァン様、お医者様を…っ」
「呼ぶな!必要ない。俺がアルヴィーナを治す」
「で、でも…っ!」
「親父様にバレたら、アルヴィーナは使い物にならない人形だと言って、王家に売られる。1日でいい。誰にも言わないでくれ」
「そ、そんな!ご自分の娘ですよ?心配するに決まって…っ」
「今更本当にそう思っているのか、サリー?そんなタマじゃないんだよ、あの人たちは。俺とアルヴィーナはそうやってこれまで生きてきたんだ。だから1日だけ時間をくれ」
そう。そうね。
そうやって生きてきたんだもの。私とエヴァン、二人きりで。
魑魅魍魎の住まうこの屋敷で、二人で助け合いながら生きてきた。今更になって、私を捨てようとしたのはエヴァン、あなたなのに。
このまま、エヴァンの魂を抜き取って私のものにしてしまったらどうかしら。
ずっと一緒にいられるじゃない?
ああ、でもエヴァンは嫌かしらね。
そっとそっと、近づいてこっそり後ろから手を伸ばして…。
「アル、そこにいるのはわかってる。お前の体はここだ」
バレてた。
私はフワリと飛び上がり、天井近くまで逃げた。
もしかして追いかけてくるかしら。馬鹿な真似はするなって怒られるかしら。
ああ、でも私、エヴァンに怒られた事なんてなかったわね。
困った顔をされたり、諭されたりはしたけれど。
お父様やお母様のようにお仕置きをしたり、恐ろしい顔で睨みつけたりされた事はなかったわ。それって、私のことを少しでも思ってくれているから?それとも無関心だから?
エヴァンは私の魔力をよく知っているから、私の魂が見えなくても感じてしまうのね。あまり近づくと危険かしら。でもアルヴィーナは、もうその体に戻りたくないのよ、お兄様。アルヴィーナじゃない、他の誰かの体を奪い取って、それからエヴァンの目の前に現れたらどうかしら?そうしたら妹じゃなくて、恋人として、一人の女として見てくれる?
ねえ、エヴァン?
私、あなたに愛されたいのよ。
エヴァンだけ。
エヴァンがいいの。王子じゃない。他の誰でもない。あなたがいれば、何もいらないわ。どこでもいいの。平民でもいい。他の国でも無人島でも構わない。あなたが欲しい。
私のエヴァン。
あなたが口にする言葉が大好き。
あなたの声が大好き。
あなたの大きな魂も、剣だこだらけの手のひらも、優しい森のような魔力も大好き。
全部、全部、わたしのものにしたいのよ。
ねえ、言って?
俺のアルヴィーナって、言って?
◇◇◇
「アルヴィーナ。お前またかくれんぼしてるのか?」
俺はベッドの端に腰掛けて、アルヴィーナに笑いかけた。
「かくれんぼ…?」
泣きそうな顔をしたアルヴィーナが、キョトンと俺を見る。こうしてみるとまるで5歳の時から変わってない。心の隅まで見通せるような大きな瞳だ。
「ああ、昔から好きだったよな。魔力暴走の後は特にこうやって遊ぶんだよな」
「私が?」
魔力暴走から一週間、ずっと目を醒さなかったアルヴィーナがようやく目覚めたとメリーから連絡が入ったんだが、様子がおかしいと半泣きになっていた。ああ、また【雲隠れ】したのか、と俺は気がついて王子に断りを入れて転移魔法で館に戻ってきた。
魔力暴走の後や感情の起伏が激しすぎた後、アルヴィーナはよく抜け殻になる。おそらくは自衛本能だと思うがよくわからない。
年頃の女の子だから、ホルモンのバランスが崩れると感情的になることがあると王宮の女医に聞いた。王子妃教育の時も時々同じような現象を起こしたアルヴィーナは《かくれんぼ》の常習犯だ。
魔力の多さに比例して感情も大きく揺れ動くらしく、今回は特に月イチの「あれ」だった可能性もあって、おそらくそうなるだろうなと予想していたが、やっぱりだった。
サリーたちの前でも何度か【雲隠れ】したと思ったんだが、なぜか今回はみんな不安げにしている。メリーなんかは特に動揺しっぱなしで、いい加減落ち着けと言いたくなった。
「いつもと何かが違うんです」
サリーが小声でそう言った。
「いつもはアルヴィーナお嬢様の魔力をこの部屋の中で感じることができるんですが、今回はそれがなくて」
「俺にはわかるけど?」
「えっ?いらっしゃるんですか?」
「うん。いるよ。ただ、今回はちょっと理由が複雑だから、ひょっとすると俺に対して怒ってるのかもしれないな」
「……やっぱり、エヴァン様何かしたんですね?襲いかかるにしても時と場所を…」
「違うって言ってんだろ。襲いかかる訳あるか」
「いつでも手に入ると思って侮られていると、」
「思ってねーって」
「最近は色気も出て」
「あのな…。俺はそれなりにアルヴィーナを大事にしてきたし、これからも誰よりも大事にするつもりだ。了承もなしに襲いかかるようなこともしないし、俺の気持ちを押し付けるつもりもない」
「えっ…そ、それって。エヴァン様も…」
「ローリィ!黙りなさい!」
「エヴァン様、それアルヴィーナお嬢様に言いましたか!?」
「…いや、いう前に暴走した。というか、暴走してから気がついた、というか。ただ…、ちょっと王子の件で言い間違えをして怒らせた。ともかく、アルは俺が直すから、お前たちは通常業務に戻ってくれ。くれぐれも親父様や奥様に下手なことを言わないように」
「了解です」
ローリィはいつまでもぐずぐずしていたが、サリーたちに引きずられて部屋を出て行った。
「さて。アルヴィーナ。そこにいるのはわかってる。戻っておいで?」
俺は部屋の天井の隅っこに目をやった。
普通の人から見たら何も見えることはないだろうが、俺にはわかる。アルヴィーナの魔力はこれまでだってずっと見てきたし完治してきた。ああ、少し瘴気にやられたのか、黒ずんでいる箇所がある。
「怪我してるな。直してやるからここにおいで?」
優しく言ったつもりだが、降りてくる気配はない。やっぱりまだ怒っているのか。こうなったら本心を告げたほうがいいのだろうか。でも本人はこの体にいないわけで、なんか間抜けだよな。魂の抜け殻に告白するのって。
ベッドに上半身を起こしこちらを訝しげに伺うアルヴィーナの体は、俺と天井をチラチラと見る。体だけじゃ何にも感じないんだろうな。心臓は動いているし脳も機能はしているが、アルヴィーナの人格はここにいない。何もない空間に向かって話しかける俺を見て、頭おかしいとか思われてんじゃないかな。
俺の視線がアルヴィーナの体の視線と絡み合うと、体はぼっと火がついたように赤くなった。
「あの…どなたか存じませんが。わ、私とそのどう言った関係なのでしょうか?」
俺はギョッとした。アルの体が俺を見つめる視線は全く他人を見る視線なのに、妙に熱がこもっている。何を期待しているのか上目遣いで妙にクネクネと体を動かしている。
これは、令嬢特有の
まさかアルヴィーナから向けられるとは!
「いや、あの。誤解しないように。君と俺はえーと、兄妹だから」
「兄妹、ですか?」
「うん、一応」
本音は違うけど、この体にそう言ってもわかんないだろうし、これで抱きつかれでもしたら俺の理性がもたない。
「な、なんだ…。でも、あの…では、あなたは私のお兄様?」
「え、えっと、うん。そう。エヴァンだ」
や、やりにくい。アルヴィーナなのにアルヴィーナじゃない。
「アルヴィーナ!」
「はい」
「あ、いや。君じゃなくて、えっと」
天井に張り付いてる、アルヴィーナを呼んだつもりが、肉体の方が返事をした。
「あ、あの!私。きっとエヴァンお兄様とはとても仲が良かったのですよね?わ、私記憶が全く抜け落ちているんですけど、エヴァンお兄様がいればきっと思い出せるような気がしますわ。エヴァンお兄様、手伝ってくださいますわよね?」
「え、えっと。うん。モチロンダヨ」
「嬉しい!とても心細いの。エヴァンお兄様がいてくださって本当によかった!」
うおっ!?抱きつくな!胸が当たって…って何考えてるんだ!そうじゃない!スリスリするな!
アルヴィーナ!早く肉体に戻ってこい!
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