第11話:シンファエルの勇気
空中遊泳を楽しんで反転。
宙へと放り出されたシンファエル王子は、叫びに叫んで酸欠になり、幸か不幸か途中で意識を失ったため余計な力が抜けて、木々の枝葉が緩和材になり逆に下手な怪我をせず、沼地へ一直線に飛び込んでいった。とはいえ、柔らかな肌は鞭を撃たれたかのように擦り傷、切傷、打撲に加え、先日王妃にボコボコにされてようやく癒えた肋骨に、またヒビ入ってしまったが。
顔が半分ほど泥に沈んだ時になって、ようやくシンファエルは目が覚めて、またしても叫び声をあげようとしたが、泥が口に入り込んできたので慌てて口を閉じた。死に物狂いで
「こんな、全く私に似つかわしくない場所で息絶えるところだった…!」
実は、この沼は底なしの瘴気沼だったのだが、知識は頭に入らず、瘴気を見たことすらなかったシンファエルは知る由もない。瘴気沼とはもちろん、魔獣が生まれ出る沼である。エヴァンが見つけた場合は速攻で焼却埋め立てをするのだが、この数ヶ月来ていなかったせいで新たに湧き、見落とされていたものだ。
出かける前にエヴァンが念の為として身体強化、毒・精神異常無効化の魔法をシンファエルに重ねがけしておいたおかげで瘴気に侵されることもなく、沼から這い上がる際に掴んだ蔓性の植物の根も、触れれば即死に至る危険もある猛毒を持つものだったが、王子には全く影響がなかった。
だが、それもシンファエルの
「全く、側近のくせに私をこんなところで一人にして置くなどけしからん!帰ったらエヴァンの休暇は向う1年は取り消しだ。ははは。アルヴィーナの悔しがる顔が目に浮かぶわ」
キーキー喚くアルヴィーナの顔を思い起こし、グフグフとほくそ笑むシンファエルだったが、待てども暮らせどもエヴァン達が探しに来る気配はない。それは『シンファエルの中では』と注訳がつく。実際のところ1時間もたっていないし、実はシンファエルが落ちたのは結構深い森の中でそう簡単に近づける場所でもなかったのだが。
「一体何をしているのだ。とっとと探しに来んか!」
ジタバタと足を動かすと、ヒビの入った肋骨がズキリと痛み、ようやく自分が怪我をしている事に気がついた。
「私の美しい肌が裂けて、血が出てるじゃないか……」
木々の枝葉で作った擦り傷や切り傷から血が滲んでいるのを見て、王子は青ざめた。ふと、エヴァンの一般常識論の授業でサバイバルについて学んだことを思い出したのだ。
『森や山で遭難した場合、闇雲に歩き回ってはいけません。助けが来るのを先ずは待つのが一番良いでしょうが、時と場合によっては助けが数日、あるいは数週間も来ないかもしれません。特に魔獣がいる森や戦時中は助けを待つより、生き残ることを第一に考えるべきです』
「時と場合によってはって、今はどういう時と場合なのだ?」
イマイチ学んだことを理解していないシンファエルは、今が待つべき時なのか動くべき時なのかわからない。
『怪我をした場合、血の匂いに引き寄せられて獣や魔獣が寄ってくることもありますから、止血は絶対です。血のついた衣類は土に埋め、傷口をきれいにしてください。ーーーーーの場合には泥が役に立ちます。ただし…』
「泥…は目の前にあるが。なにかの役に立つ…。なんだったかな?」
『ーーでその後、泥が血を吸いこむため獣は寄って来ません。応急処置が済んだら、川を探してください。森が上流にある場合、水の流れに沿って下っていけば必ず村か民家がある筈ですからね』
「川を探せか…。よし」
シンファエルは、痛い傷口を庇いながら立ち上がった。幸い足の骨は折れていないらしい。五体満足だ。
よし、と頷き、自分に喝を入れシンファエルは泥沼の泥を手に取り、傷口になすりつけた。
「次は川を探そう。その前に食料も必要だな。腹が減っては戦は出来ぬというし」
シンファエルは「無闇矢鱈に歩き回るな」と言われた事をすっかり忘れ、森の中へ入っていった。どちらかと言えば忘れていることの方が多いシンファエルにとって、サバイバルの授業自体がサバイバルだった。
鬱蒼とした森を見ると、シンファエルはごくりと喉を鳴らした。じめっとした薄暗い森に何気に不安になる。
「森で遭難した場合、森に入るなと言われたかな?それとも森に入って難を逃れろと言ったのだったか…」
ふむ、と考えるがどちらも正しいような気がする。何せ不気味な森なのだ。シンファエルが漠然とイメージしていた森は、妖精が飛んでいそうな、花が咲き乱れふかふかした苔が地面を覆っているようなもので、大蛇が出てきそうなジャングルではなかった。これが森だと知っていたら、おそらくエヴァンについて来なかっただろう。
「だが、森で遭難したということは、すでに森に入っているということだから、もっと奥に行くべきか。草木に紛れれば獣も私を見つけられないだろうし……何か食べるものも森なら手に入るだろう。ポタージュとかステーキとか落ちてないかな…なければケーキでもいいか」
野菜が嫌いなシンファエルは、肉がいいなと夢を膨らませ、森に入っていった。残念ながら、ポタージュやステーキは森の中に落ちてはいない。
ちなみに泥が役に立つのは、水が手に入らない場合の緊急濾過に使うためであって、決して傷口に塗りつけるものではない。(良い子は真似しないでね。破傷風になりますよ)
しかも塗りつけた泥は、細菌どころか瘴気を多量に含んでいる。泥だらけになって森を歩くシンファエルの姿が、幸か不幸か人型の魔獣に見えてしまったとしても致し方なく、彼自身の持つ匂いと合わさって、通常の獣は皆逃げてしまった事にまだ気がついていなかった。そして自分の傷口から青黒く変色していく肌の色さえも。
◇◇◇
俺とアルヴィーナは(嬉々として)魔獣を退治しながら森に入っていた。
もちろん名目は王子救助だが、ここ数ヶ月やはり親父様は誰もこの森に討伐をよこしていないようで、魔獣で溢れかえっていた。後数ヶ月遅ければ、スタンピードが起きていたかもしれないという数だ。まだ森に入って数キロというのにちっとも先に進めないでいるせいで、流石の俺もちょっとイラついている。
「エヴァン!いた!右よ!」
「任せろ!」
腰から下げていた剣を抜き、軽やかに走りすぱっと首を落とす。頭を失ったトビオウムカデが木に駆け上りながら絶命し、どしゃりと地面に落ちる。
トビオウムカデは体長1メートルほどの毒ムカデで、朽ちた落葉樹の
勿論、俺とアルヴィーナは常時薄膜の結界を張っているので、襲われても滅多なことで怪我をすることはないのだが。
「あの高さから落ちたせいで、かなり中央部に近いところに落ちたみたいなんだけど。私の探査にも引っかからない。まさか死んじゃったんじゃ…」
「俺の魔力とまだ繋がりがあるから、生きてるよ。身体強化と精神異常の無効化はかけてあるから怪我もしていてもかすり傷だと思う。ただ、魔獣に丸呑みされてたら助け出すのに苦労するかな」
「エヴァンの身体強化の術ごとだと、消化できないものね。魔獣の便秘なんて見たくないわぁ」
「糞まみれでいない事を祈るけど…。ひょっとしたらそのせいで体温が落ちてるのか?」
「ええ…やだなあ…」
「この前、サバイバルの授業をしたばかりだから、覚えている事を祈ろう」
「無理無理。ピーナッツほどの脳みそしか詰まってないんだから」
「……残念ながら、反論できないな」
俺の魔法とシンファエルが繋がっているから、生きていることは確かだ。ただ時折そのつながりが揺らぐということは、怪我をしているか、何かしらの理由で魔法が断たれつつあるか。ここで王子が森に落ちて死にました、なんてなったら俺とアルヴィーナは極刑間違いなしだ。スカイだって処分される可能性がある。そんなことになれば、ワイバーンのオスの二匹も黙っていないだろうし、王宮が阿鼻叫喚に包まれるのが目に見えるようだ。
俺はフルリと頭を振って、とにかく王子へ向かって先を急ぐことにした。
「ちまちま討伐していても埒があかない。とっととドラゴンを見つけるとしよう」
「わかった。…あと、数キロ先を南に…。泉の近く。かなり弱ってるみたいだよ。動かない」
「緑のドラゴンって言ったな。森の主か…?」
この森はかなり古くからあり、山脈と繋がっていて奥も深い。俺も領地に近い部分は見回りをしていたけど、全貌は分かっていないのだ。そんな中で例え古竜がいたとしてもそう驚くべきことではない。ただ今までこんなに人間の近くまで出てきていなかっただけだ。何かしらあって逃げてきたか、何処か別のところから飛んできたか。
ただ、緑のドラゴンということは、森の守り手ということもあり得る。もし怪我をしているのなら助けてやるのが森のためにもいいだろう。
「王子がサバイバルの授業を覚えていれば、川に沿って下流に来る筈だ。信じるしかないな」
「意外としぶといからね。
「兎も角、この辺の魔獣は仕方がない…アルの聖魔法の力、貸してくれ」
「ん。わかったよ。仕方ないものね」
俺は地属性の魔法を練り、アルヴィーナは聖魔法を練り上げる。俺の魔法にアルヴィーナが聖魔法を絡ませる俺とアルヴィーナの二人でしか出来ない混合魔法で、誰にも秘密の魔法だった。
「《アースウェイブ》」
「《ホーリーチェイン》」
地を走る波動魔法に聖属性を乗せ魔属性のものにだけダメージを与えるのだ。何度目かの領地視察でアルヴィーナが聖魔法を使えることがわかり、二人で森の瘴気を浄化したのが最初だった。
領地中の魔力だまりや瘴気だまりを解消して歩き、何年かかるか先の見えなかった領地改革が、かなり楽になったものだ。そのせいでアルヴィーナの魔力も劇的に増えてしまったのだが。アルヴィーナの聖魔法は今のところ誰も知らない。でなければ、王子妃の地位より聖女だなんだと騒がれて神殿に連れ込まれて、2度と出てこれなくなってしまうだろう。アルヴィーナはそれだけは絶対に嫌だと泣いた。
子供の頃アルヴィーナは誰からも顧みられないで一人部屋で過ごしていたのだ。神殿に入れば待遇は違うだろうが、ひとり閉じ込められるのは同じこと。俺としてもそれは本意ではなかったから、二人の秘密ということにした。
アルヴィーナは「二人だけの秘密」ごっこが大好きだったから、これもそのうちの一つということにした。おそらくサリーもメリーもローリィも多分気がついていないと思う。気がついていてもあの3人はアルヴィーナが大好きだから多分誰にも言わないと思うけど。
ズズ、と地鳴りのような音がした後、あたりは静かになった。どうやら無事成功したようで、魔虫や魔獣は綺麗に消滅したようだ。ついでに瘴気も薄くなり、森が明るくなった。
「うん、成功みたいね」
「よし、急ごう」
◇◇◇
「うおっ?なんだ今の揺れは……?」
その頃、王子は王子で森を彷徨いながら、食べてはいけない果実を口に入れ、触れてはいけない花を手折りながら、鼻歌まじりで歩いていた。全く危機感がなく、エヴァンの魔法がかかっていなければ速攻で死んでいただろう。
しかしながら、瘴気の沼を身体中に纏い、泥を貼り付けた傷口から魔虫が湧いて出てきていることにも気が付かず、穢れを森中に振りまくこの男に襲いかかるような気骨のある獣はおらず、また魔獣たちは仲間とみなしているのか、全くその存在に近寄ろうとはしない。ある意味、最強の存在でもあった。
そこで(気づいてはいないものの)エヴァンとアルヴィーナの混合魔法を体で感じ、自分に纏わり付いていた穢れが祓えたことで、ちょっと体が軽くなったと首を傾げるシンファエル。
「森というからどれほど危険かと思えば、そうでもないではないか。これでステーキが生えていれば我が宮殿のピクニックとそう変わりはないな。……とはいえこの格好はいただけないな。帰ったら特別に乾布摩擦で汚れを落とそう」
エヴァンがいたら、ステーキは植物ではないので生えてきません、と言ったところだが、今は誰も否定の言葉も肯定の言葉も発しない。
異常なまでに乾布摩擦が気に入っているシンファエルだが、本来の乾布摩擦の目的は血液の循環を良くすることであって汚れを落とすためのものではない。
シンファエルの中に汚いことは悪いことだ、と方式が成り立ったのだから誰からも深くは追求されなかったため、勘違いしたまま朝昼晩とあまり意味のない乾布摩擦を続けている。
そんな調子で森を歩き回り、川を探す目的もすっかり忘れていたシンファエルだったが、ふと、小山のようにこんもりと盛り上がった緑色の塊を少し先の開けた場所に見つけた。
「アレはなんだ?」
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