真理先生

本読んだり話を書いてると仏教的な思想に陥ったりする事がある。

生きるとはなにか。死は何故怖いか。何を成すか。成さねばならぬのか。俺は何者なのか。何者になれるのか。何者かにならねばならないのか。何に成るのか。何にも成れぬのか。


考えても答えの出ない自問自答。哲学に浸るも歴史も思想も知らないから頓珍漢な説を導きすぐに忘れる。要するに中学生ブレイン。いい加減大人になってほしい。


けれど考える事を辞めて労働! 飯! 風呂! 寝る! ばかりの人生を歩むのは味気ない。ロジックは苦しくもあるが同時に楽しみも得られるのだ。なくすには惜しい(それがどれだけ拙いものであっても)。


そんな逡巡をより豊かにしてくれたのが、武者小路実篤の真理先生である。



真理先生。

主人公、山谷五兵衛が真理先生と呼ばれる人物との交流を経て人生観や哲学を育んでいく。



粗筋はこんなもん。短い。短すぎる。

というのもこの作品、正直あんまり覚えてない。友情のように濃厚なストーリーがあるわけでもないから記憶に残りづらいのが原因な気がする。仕方ないね。一個一個のエピソードはなんとなく覚えているんだけどね。真理先生が虫を殺す時に「次はいい生だといいね!」みたいな事呟いたりする事とか、女がやってきて「抱いて!」みたいな事言ったりするところとか。でも大筋さえうろ覚え。記憶力のなさを痛感するばかりだ。学生の頃あれだけ感銘を受けたのに、浅いなぁと自分でも思う。

でもね。あの時の感情は多分上っ面だった。どうにも俺は自分を善性だと思いたい節があって、当時はその最盛期だった。だから、分かりやすい人の道を示す内容に心惹かれたんだろう。

でも歳を取ると若い時の自分の愚かさにちょっとだけ気が付くもので、それもあって、俺は自分をある程度分析できるようになったような気がする(本当に気がするだけなのかもしれないけど)。

俺は痛ましい事件の被害者に同情したり、犯罪者に軽蔑の念を抱いたり、寛大であろうとしたり、慈悲深く接しようとしたり。そんな人間。まぁ普通の脳みそしてるなら誰もが持っている感情なんだけど、俺のは本当に上っ面というか、根にあるクズ部分を棚に上げているので余計に露骨に如実な感じで二面性が浮き出てしまう。それが苦しくもあり楽しくもある。人間に備わった性と個体による潜在的思考。それと教育や経験により得た後天的価値観。これらがせめぎ合って混ざり合って、一定の傾向を生み出すも感情の波に流されたりして簡単に例外的判断を下す。その要因は、先に挙げたどれに起因するのか。考えると楽しい。馬鹿の考え休むに似たりだが、下手の横好き的に、つい没頭してしまう。おかげで眠れなかったり人の話が入ってこなかったりするから困る。益体のない想像や妄想は止められないよね。どれだけ無駄と分かっていても抜け出せない。おかげで立派な社会不適合者だ。そら授業もまともに聞けないし試験も落第点頻出するよ。


話しは大きく逸れたけど、倫理や道徳を先生の言葉で表した真理先生は面白いよ。

でも内容的にツァラトゥストラやら聖書やら仏典に影響されてんじゃねーの? って部分はあったような気がする。どれもまともに読んでないからしらないんだけどね。


ところで昔、神は死んだって言葉をずっとマリリンマンソンが言ったって思ってたんだけど、バッチリニーチェだったよ。うーん。アンチクライストスーパースター。

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