異邦人

支離滅裂だが、理由が後からついてくるなんて事が実は結構ある。


例えば衝動的に物を食べたり、タバコを吸ったり、目についた蟻を潰してみたりと、明確に理由がないまま行った事について、「脳が疲れていたから」「ストレスが溜まっていたから」「目障りだったから」といったように述べたり、あるいは自分に言い聞かせるなんてシーンが往々にしてある。人間の衝動というのは思ったよりも根深く、また、軽々けいけいに発露するものなのかもしれない。


カミュが書いた異邦人は、そんな日常の中で起こりうる突発的な衝動の暴発を描いた作品のように思う。


異邦人。

主人公であるムルソーは母の訃報を聞き葬式に出るが、悲しくもなく涙も落とさず、知り合いの女を抱いたりと、凡そ肉親が死んだとは思えないような行動を取る。

そんなある日ムルソーは友人に誘われ海に行くのだが、そこで出会ったアラブ人を……


というのが大まかなあらすじ。


冒頭からして「なんて奴だ!」と憤る人は多くいると思うし、返ってそれがいいという人間もいるような気がする。


俺がこの作品に触れたのは二十を超えてからだったので「まぁそんなもんかもな」と一歩引いて読んでいられたんだけど、多分中学生の頃だったら変に感化されて「ひょえーかっこよー!」と傾倒していただろうし、高校の頃に触れたら「哀れな……」みたいに、さも自分は達観して悟ってますよ的な感じになっていたと思う。いやよかった。大人になってから読んで。


で、この作品。とあるシーンでかの有名な「太陽が眩しかったから」という台詞が出てくるる。

いったい何に対しての台詞なのかは触れないが、作中ではあり得ない発言とされ、主人公の非人間性を象徴するような役割も果たしているように思える。


でも考えてみると、人間ってそんなものなんじゃないか。


人間は何かをする時いちいち考えたりするけど、それって要は理知の後付けに過ぎず、根幹にはもっと原始的な、衝動的な、即物的な、感情的な要因があって、それを隠すために、何かと言葉を繕って正当化したり、批判したりしているんじゃないか。

じゃあ、究極のところ理由なんてなんでもいいわけで、太陽が眩しかったから暴飲暴食してもいいし、煙草を吹かしてもいいし、蟻を捻り潰してもいいんじゃないかと、極論だけどそんな事を思った。

ムルソーが何をもって「太陽が眩しかった」と答えたたのかというのは受けてによって様々な解釈があるだろうけど、俺にとっては上記したように、理由だなんてのはなんでもよかったんだろうなと思う。あるいは、本当に眩しかったから、あんな事をしたのかもしれない。


もっとも、言語が敷かれ理知と理性によって成り立っている現代日本でそんな事されちゃ堪ったもんじゃないんだけどね。

和をもって尊しとなす。ありがとう十七条憲。いい規律です。


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