白痴

ゴールデン街にある文壇BARにて、一人の男と知り合った。


「食ってけないね。文学じゃ」


べろべろに酔っていたので多分一言一句間違っていると思うが、確かにそんなニュアンスの事をボソリと呟かれた。背筋が凍ったのは、冷え冷えのビールを飲んでいたからかもしれないし、真のこもった言霊にアテられたからかもしれない。



先に述べたようにベロベロのため彼の名前も知らないし聞いたかどうかすら定かではない。ただ二つ覚えている事があって、一つは彼が歌人であり何かの賞を取ったという事と、もう一つは無頼派を好んで読んでいるという話を聞いた事である。



無知な俺はつい「無頼派ってなんでしょうか。ドラクエでしょうか。コンジャラーでしょうか」などと聞いてしまったのだが、実は薄らと浮かぶ作家の名前があって、奇しくも男が出した例と一致したのだった。お察しの通り、坂口安吾である。



安吾も例に違わず学生時分に全集か何かを借りて読んでいたが、確か一作だけ読み終えて返却してしまったように記憶している。部活が忙しかったのか柄にもなく勉学に勤しんでいたのか単に気力がなかっただけなのか、酩酊時と同じく憶えておらず海馬は真っ白。仕様もない。

しかし、何を読んだかは心に留めてあった。白痴だ。



白痴というタイトルはドストエフスキーも執筆しているそうだが俺にとっては庵野だ。何故なら安吾の書いた白痴しか読んでいないからだ。読んでいないものをメジャーと云われても、それは困る。だから俺にとっての白痴は安吾なのだ。



その白痴であるが、安吾が無頼派と評されるのも納得の内容となっている。

社会を空虚だと断じ憎みながらも、我が身の為金の為と働く主人公。そこで出会った一人の女。女は肉欲を余し快楽を伴う愛を求めるが主人公は手を出さず、髪を撫でたり、死んでてくれねーかなーとか残骸ばかり爆心地に置いてこっかなーとか思ったりする。そんな話だ。



俺はBARで出会った男に触発され、オリオン書房で同作を購入。数年ぶりページをめくった。

そこに描かれる広がるのは溢れ出すやるせない現実。ままならない日常であっても縋るしかない情けなさ。身につまされる思いで進めていくと怒涛の勢いに圧倒。破壊的高揚感は素晴らしく、どんどんと耽読。気がつけば後書きである。諦観でも悲観でも達観でもない、ある種超越した価値観と世界観が読後に残った。生の迸りを感じる反面、死の臭いも濃い。戦中のリアルとでもいうのだろうか、現実と非現実の狭間にいるような気分となり、しばし言葉を忘れ、余韻の虚無に身を任せる。これをどうして学生のころちゃんと読まなかったのか。まったく馬鹿め。死ねばいいのに。



本を置いた俺は、あのBARで会った男に感動を伝えたかった。だが悲しいかな、連絡先も知らないし顔も声も覚えていない。一期一会の儚さが胸に沁みた。もっとも、会ったところで会話も弾まずさようならする未来が見えた。俺は喋るのが苦手なんだ。だから話なんかを書いている。これもまた、いや、まだ下手だが。


それでも人に向ける言葉を出すのは、話を書くより難しい。

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