心の底

 病院に入ると警察官が待ち構えていた。ケンゴは診察室に通された。

「おかけ下さい」

 椅子に座っていたのは中年の男性医師。

 警察官も「どうぞ」という素振そぶりをする。

「家族は……当然、無事ですよね?」

 座るなり聞くケンゴ。その声は細かく震えていた。

 医師は申し訳なさそうに、小さく首を横に振った。

「娘さんは重症で緊急手術中です。奥様と息子さんは……手を尽くしたのですが」

「嘘……だろ」

「カーブを曲がり切れずスピードを出したまま電柱に……緩いカーブなので事故なんて起こったことがない場所なんですが」

 神妙しんみょうな面持ちで告げる警察官。

「お会いになられますか? 心の準備が出来てからで結構ですよ」

 医師は残念そうに深くゆっくりと言った。

「会います……すぐに」


 看護師に案内されたのは、ドラマでしか見たことがない霊安室。

「……」

 言葉も涙もでない。

 り傷はあったが、二人とも綺麗な顔をしていた。


 娘の手術は相当な時間がかかった。病院の外は暗くなり、待合室にいるのはケンゴだけになった。どのくらい時間が経っただろう。深夜に医師から「一命はとりとめた」と告げられた。

 手術は終わったとはいえ、幼い娘は集中治療室だ。離れたくない。娘とも、地下の部屋で眠る妻、息子とも……。

 病院にお願いして空いていた個室に泊まらせてもらうことにした。しかし、眠れる心理状態ではなかった。結局、真っ暗になった待合室にずっと座っていた。


 ふと、昨晩の小袋のことを思い出した。

『深層心理の願いが叶うクスリ』

 こんな残酷な未来が待っているなんて。

(オレが望んだことなのか?)

 そんな訳はない。最近、口喧嘩が増えたとはいえ……。

 数時間が経過した。

(娘はまだ三歳 事実をすぐに伝えるのは酷だ)

 考えた末の結論だった。

 自分の両親……あと、アリサの両親にも伝えなければならない。

 時間的に遅すぎるとは思ったが電話をすることにした。


 ケンゴは居間のソファーで放心状態で座っていた。

 テレビは消音しており、画面だけがついている。開け放った窓から入った風が薄いカーテンをゆっくりと揺らしている。


 やっと、娘を寝室に寝かしつけた。一週間、休む暇がなかった。親戚への連絡、葬式の手配など……。アリサの両親は取り乱して泣き崩れていた。無理もない。その間、実家から母親に来てもらい、病院で娘に付き添ってもらった。そんな娘も今日、家に戻ってこれた。

「ママは?」

 半べそで聞く娘を説得するのは苦労した。子供なりに不自然さを感じているのだろう。

「ママはちょっと調子が悪くなって、ババちゃんの家に帰ってる」

 そう言い続けるしかなかった。


―人間の判断は二段階

 最近読んだ本に書いてあったことを思い出していた。

 一段階目は『直観』にによる判断。これは『衝動』に頼るともいえる。判断のスピードは速いが誤ることがある。二段目が『論理』による判断。こちらは、判断スピードは遅いが誤りが少ない。『冷静』に考えることが必要ということだ。

―オレの衝動的な願いが叶ったのか?

 口喧嘩が絶えずイライラしていた。直観的に家族と離れたいと考えていたとしてもおかしくない。しかし、『冷静』に考えるとそれは誤りであることは、ケンゴ自身が一番わかっていた。


 ピンポーン。

 突然のベル。


 ビクッと驚くケンゴ。インターフォンの画面を見る。オートロックの外に立っていたのは一人の女性……マヤだ。

「ごめん。もしケンゴがよければ、話し相手くらいにはなれるかなって」

 女性を家に上げるなんて……通常はそう思うところだ。

 しかし、ケンゴの判断力は弱まっていた。とがめる者はいなかった。

「今、ロック解除する」

 しばらくして、自室のドアをノックする音が聞こえた。十階まで上がってきたマヤだ。ドアを開けると、会社とは明らかに異なる服装のマヤ。大人の雰囲気をかもし出している。

「何かできないかと思って。同期として。ちょっといいワイン買ってきちゃった」

 紙袋にはワインの包みが見える。


「何て言ったらいいのか……」

 居間の絨毯じゅうたんに座るマヤ。

「普通でいいよ。気遣きづかいが過ぎると話しにくくなる」

 ケンゴは食器棚からワイングラスを取り出してきた。マヤは手慣れた感じでワインを開けてグラスに注いだ。乾杯というわけにいかず、各々が飲み始めた。

「娘さんは?」

「もう寝た。ママ、ママ言って、大変だったよ」

「まだ、言ってないの?」

「三歳とはいえ、ダイレクトに伝えるのは……な」

「……」

 一杯目を飲み干し、自分でワインを注ぐマヤ。


 エーーン。そのとき、寝室から泣き声が聞こえた。娘が起きてしまったらしい。

「ちょっと、行ってくる」

「いい。私が行ってくる。こう見えても私、子供に好かれるのよ」

「知らない人が突然行くと……」

「親戚のおばさんって言っとく。あとで口裏合わせといて」

 小さくウインクして寝室に向かうマヤ。


 数分後。泣き声はピタリと止んだ。

「そんな特技があったのか」

 そう思ったとき、ガシャっとドアが開く音がした。


 寝室から出てきたマヤの手には、血がベッタリついた包丁が握られていた……。

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