心の底
病院に入ると警察官が待ち構えていた。ケンゴは診察室に通された。
「おかけ下さい」
椅子に座っていたのは中年の男性医師。
警察官も「どうぞ」という
「家族は……当然、無事ですよね?」
座るなり聞くケンゴ。その声は細かく震えていた。
医師は申し訳なさそうに、小さく首を横に振った。
「娘さんは重症で緊急手術中です。奥様と息子さんは……手を尽くしたのですが」
「嘘……だろ」
「カーブを曲がり切れずスピードを出したまま電柱に……緩いカーブなので事故なんて起こったことがない場所なんですが」
「お会いになられますか? 心の準備が出来てからで結構ですよ」
医師は残念そうに深くゆっくりと言った。
「会います……すぐに」
看護師に案内されたのは、ドラマでしか見たことがない霊安室。
「……」
言葉も涙もでない。
◇
娘の手術は相当な時間がかかった。病院の外は暗くなり、待合室にいるのはケンゴだけになった。どのくらい時間が経っただろう。深夜に医師から「一命はとりとめた」と告げられた。
手術は終わったとはいえ、幼い娘は集中治療室だ。離れたくない。娘とも、地下の部屋で眠る妻、息子とも……。
病院にお願いして空いていた個室に泊まらせてもらうことにした。しかし、眠れる心理状態ではなかった。結局、真っ暗になった待合室にずっと座っていた。
ふと、昨晩の小袋のことを思い出した。
『深層心理の願いが叶うクスリ』
こんな残酷な未来が待っているなんて。
(オレが望んだことなのか?)
そんな訳はない。最近、口喧嘩が増えたとはいえ……。
数時間が経過した。
(娘はまだ三歳 事実をすぐに伝えるのは酷だ)
考えた末の結論だった。
自分の両親……あと、アリサの両親にも伝えなければならない。
時間的に遅すぎるとは思ったが電話をすることにした。
◇
ケンゴは居間のソファーで放心状態で座っていた。
テレビは消音しており、画面だけがついている。開け放った窓から入った風が薄いカーテンをゆっくりと揺らしている。
やっと、娘を寝室に寝かしつけた。一週間、休む暇がなかった。親戚への連絡、葬式の手配など……。アリサの両親は取り乱して泣き崩れていた。無理もない。その間、実家から母親に来てもらい、病院で娘に付き添ってもらった。そんな娘も今日、家に戻ってこれた。
「ママは?」
半べそで聞く娘を説得するのは苦労した。子供なりに不自然さを感じているのだろう。
「ママはちょっと調子が悪くなって、ババちゃんの家に帰ってる」
そう言い続けるしかなかった。
―人間の判断は二段階
最近読んだ本に書いてあったことを思い出していた。
一段階目は『直観』にによる判断。これは『衝動』に頼るともいえる。判断のスピードは速いが誤ることがある。二段目が『論理』による判断。こちらは、判断スピードは遅いが誤りが少ない。『冷静』に考えることが必要ということだ。
―オレの衝動的な願いが叶ったのか?
口喧嘩が絶えずイライラしていた。直観的に家族と離れたいと考えていたとしてもおかしくない。しかし、『冷静』に考えるとそれは誤りであることは、ケンゴ自身が一番わかっていた。
ピンポーン。
突然のベル。
ビクッと驚くケンゴ。インターフォンの画面を見る。オートロックの外に立っていたのは一人の女性……マヤだ。
「ごめん。もしケンゴがよければ、話し相手くらいにはなれるかなって」
女性を家に上げるなんて……通常はそう思うところだ。
しかし、ケンゴの判断力は弱まっていた。とがめる者はいなかった。
「今、ロック解除する」
しばらくして、自室のドアをノックする音が聞こえた。十階まで上がってきたマヤだ。ドアを開けると、会社とは明らかに異なる服装のマヤ。大人の雰囲気を
「何かできないかと思って。同期として。ちょっといいワイン買ってきちゃった」
紙袋にはワインの包みが見える。
◇
「何て言ったらいいのか……」
居間の
「普通でいいよ。
ケンゴは食器棚からワイングラスを取り出してきた。マヤは手慣れた感じでワインを開けてグラスに注いだ。乾杯というわけにいかず、各々が飲み始めた。
「娘さんは?」
「もう寝た。ママ、ママ言って、大変だったよ」
「まだ、言ってないの?」
「三歳とはいえ、ダイレクトに伝えるのは……な」
「……」
一杯目を飲み干し、自分でワインを注ぐマヤ。
エーーン。そのとき、寝室から泣き声が聞こえた。娘が起きてしまったらしい。
「ちょっと、行ってくる」
「いい。私が行ってくる。こう見えても私、子供に好かれるのよ」
「知らない人が突然行くと……」
「親戚のおばさんって言っとく。あとで口裏合わせといて」
小さくウインクして寝室に向かうマヤ。
数分後。泣き声はピタリと止んだ。
「そんな特技があったのか」
そう思ったとき、ガシャっとドアが開く音がした。
寝室から出てきたマヤの手には、血がベッタリついた包丁が握られていた……。
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