むくい
にわかに母が忙しく出かけるようになった。
家に地主の使いがやってくるようになり、茜は、始まったのだと唾を呑んだ。
もっとも水が必要な時期に、田んぼはひび割れている。
川は無残に水底の石を晒し、雑草までもが気だるげに
加えて病が流行った。子どもたちは手のひらや口元に赤い水疱を作っている。
弱いものから死んでいった。
残った者たちが蓄えのある長者の家を襲撃しようとしているという噂がむくむくと立ち始める。いや、長者たちがわざと噂を立てているのだ。噂は人を突き動かす。
母が家に帰ってこなかったその日、干上がった畑に男の死体が3つきれいに並んで転がっていた。
百合の花が咲いたように肋骨が折れて開き、空っぽになった腹の皮膚がべろんと捲れている。それなのに顔は人相がわかる程度の破壊にとどめられていた。
大きく開けた口の端は切れ、濁り始めた目は飛び出さんほどに見開かれている。
「生きながら肝を食われたんだべ」
誰かがぽつりとつぶやいた一言で、村中に恐怖が伝染した。
もう誰も、貯えを奪おうとは言わなかった。
「虎の姿がいいですよ」
夕飯に、白い飯を口に運びながら母が言った。
「虎は強くて足も速い。大陸の竹林を覗けたら、縞模様の獣を探してごらんなさい」
それが何を意味するのか、わからないわけがなかった。
母に寄り添う神様の体は、赤黒かった。ぎょろぎょろと動く目が、茜を見た。
茜は石室で南の海の話をした。
ぷりぷりした神様の体に額を当て、白い砂浜と渦を巻く海流のある海を見た。
神様はもう茜の体を支えられるくらい大きくなっていて、茜は半ば神様に埋もれるようにしていた。
「塩辛い水がずうっとずうっと続いているんです。何故かしら。海は水が青いんですよ。渦の下に人魚がいるんです。頭が人で、短い角が生えています。金色の美しい角。射干玉の髪。首から下は真珠色の鱗の魚です。大きな鱗。泣いています。人魚が泣くと涙は真珠玉になるのですね。乳白色で照りのある宝珠です。何故泣いているのかしら……」
ふいに潮の匂いがした。手の中の神様は人魚に変じていて、その顔は茜にそっくりだった。神様はぽろぽろと真珠の涙を流したが、床に零れるたびにそれは水滴に戻ってしまった。
「お前は人を殺したりしなくていいからね」
神様にお前などととは思いながらも、茜はそう言ってしまう。
夜久の女は神を使役する。神を祀り、名を与え、形を与えて思うように操る。それが生業なのだと今ではわかっていても、心は追いついていなかった。
茜が十五になる日に、この子は人を殺すことに使われるだろう。
あと半月しかない。
人を殺すものになどならなくてもいい。きれいな物だけを見せてあげたい。
神様に触れ、鋭敏になった五感に迫る世界は何もかもが輝いていた。
木々はきらめき、風は時に厳しく、優しく歌い、人は運命の前に抗い、ときに膝をついた。世界が愛おしいと思った。また神様に額をつける。
ごおっと吹雪く音がして、頬に切り付けるような冷気が走った。見たことのない景色が広がる。
「雪深い土地です。険しい山脈が続いている。とても寒いわ。まつ毛も凍りそうです。空に、大きな鳥が飛んでいる。強い翼、逞しい嘴。神様もあの姿ならどこまでも飛んでいけますよ。その下には大きな獣がいます。山羊かしら。とても毛が長い。小さな子供が綱を引いています。こんなに険しい場所にも、人は暮らせるんですね。すごいわ。山羊たちと一緒に家に帰っていく。囲炉裏に似たものに火がくべられている。暖かい食事。みんな笑っています」
神様は大きな鳥になり、赤い頬をした少年になり、そして火を抱く囲炉裏のようなものになった。すっかり上手に変じるようになった。
今は木目の感触がする神さまを撫で、火傷するのも構わずに抱きしめる。
ぶるんと神様が震えて元の姿になった。透き通る薄青い体、その下を脈動する赤。
奇麗だ。母様が連れているものよりも弱そうだが、ずっときれい。
茜は、石室の向こうを透かして見て、ああ、と一つため息をついた。すぐに目を逸らす。
茜はその時、緑深い竹林の中を疾走する縞模様の獣を見ていた。これが母様の言う虎だと思った。猫を何百倍も大きくしたようだが、手足の太さも、牙の鋭さも段違いだった。たしかにこれに変ずれば、人など簡単に殺せるだろう。
「まっすぐに伸びた竹が生い茂っています。ムッとするような熱気。空気に水の匂いが混ざっています。とても美しい獣ですよ。縞模様で、滑らかな毛皮。琥珀色の目。早いのにとても静かに走ります。獣がみんな道を開けていきます。ああ、子育てをしているんですね。小さな子が出てきた」
急に神さまが跳ねるように動いたので、茜は顔を上げた。来た。もう引き返せない。
ごろんと石室の床に転がってきたのは、母様の首だった。
床に転がったのは、間違いなく母様の首だった。髪は解けている。こちらに向いた首の断面は凸凹で、力任せに叩き切ったものだとわかった。寝込みを襲われたのかもしれない。神さまに命令することもできずに逝ったのだ。
「神さま」
茜は背後に神さまを隠した。他の者には見えないはずだが、それでも。
すぐに喧騒がやってきた。怒声。叫び声、金属の鳴る音。
なんだか胸がすっとしていた。死ぬのだ。今日。この屋敷は報いを受ける。
神さまで人を殺す方法を知る前でよかった。
茜はそっと神さまを抱きしめた。つるりとした感触。その下に脈動する赤色が、自分の名前と同じ色でよかった。大好きよ。さあ、きれいなものをたくさん見ておいで。
「
石室のくぼみの奥、人は通り抜けることのできない小さな穴が開いていた。
「鳥でも、獣でも、人でもいい。あなたがなりたいものになって」
体を離した時と、大勢の人間が石室の前に迫ったのは同時だった。
「ここにおります」
凛とした茜の声が、石室に反響した。
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