そだつ
茜の最初のお役目は神様に名前をつけることだった。
「誰にもけして教えてはいけませんよ」
母様が言った。その首に、半透明の神様がくるりと巻き付いて、瞳をゆっくりと瞬きさせていた。真綿の上で眠っておられる神様よりもずいぶん大きい。半透明の体の中を流れるものがやけに黒ずんでいるのが気になった。
次のお役目は、神様に食事を与えることだった。
「
母様は小刀で茜の指の腹をほんの少し傷つけた。母様の唇よりも赤い血が紅玉のように盛り上がって輝く。じんと鈍い痛みがした。
「さあ、捧げて」
茜が恐る恐る神様に指を近づけると、むくりと神様は顔を、いや、顔と思しき部分を動かした。青紫色の目が、意志を持って茜を見た。
とぷん。冷たい池に指先をつけるように、神様の体に指が吸い込まれる。
薄青い寒天のような体の下で、茜の血がゆっくりと糸のように混ざっていった。
「茜もこれで、夜久の女となったのです」
母様が茜の頭を撫でる。
茜は、じっと目の前の神様を見つめていた。
茜の家は
どうしてそんな大きな家に茜と母様の二人しかいないのか。
なぜ茜の家は村はずれにぽつんと建っているのか。
時折訪ねてくる地主は、女で、しかも仕事もしていない母様にああも頭を下げるのか。食うに困らず、美しい着物を着ていられるのはなぜか。
なぜ茜の妹が産まれたとき、へその緒が首に巻き付いて死んだあの夜に、誰も助けてはくれなかったのか。死んだ赤子がどこにいったのか。
なぜ時折夜中に母様がでかけていくのか。
茜が理解しはじめたのはこの夜からだった。
茜は毎晩神様の所に通った。最初の夜から2年が経った。
米と酒を持って、茜は神様の所に向かう。
ゆるゆると続くおはらの道を通り、石室へと辿り着き、今では柔らかな真綿の布団の上で丸くなっている神様のもとに行く。
「お食事ですよ」
神様はぬらりと光る体を曲げて、茜の足に甘えるようにすり寄った。
茜はその体を撫でてやる。冷たくてつるりとしていて、押し返すような弾力もある。
撫でられる時には、眼球をひとところに寄せて、じっとする。気分がいいとぷるりと体を震わせるのでよくわかる。食事をする時には、とぷとぷと音を立て、酒や米が神様の体に消えていく。酒を飲むと酔うらしく、体がすこし熱くなった。
神様は大きくなった。茜の膝辺りまである。
茜が石畳に腰を下ろすと、神様はもぞりと動いて膝の上に這い登ってくる。
茜はそれを抱いて、体をゆっくりを叩いてやる。乳を飲み終わった赤子に母親がやるように。神様に触れていると、茜の感覚は鋭くなる。
遠くの海辺に流れ着いた椰子の実が転がる音を聞き、闇の中に漂う死んだ者たちの姿を見た。調子がいい時には、もっと遠くのものも見えた。
「遠くの、ずうっと遠くの砂しかない所ね。三日月が出ているよ。月は姿を変えるのです。あなたのような、まあるい形から猫の爪みたいに。猫というのは耳のとがった毛むくじゃらのけだものでね、自在に爪を引っ込めたり出したりできるのです。太陽の向きによって瞳の大きさが変わる、かわいいけだものです」
茜は神様に語る。神様は瞳をぱちぱちさせ、ぶるりと大きく身を震わせた。
ゆっくりと体の表面に体毛が生え、神様は毛玉に一つ目のものに転じた。瞳がせわしなく細くなったり広がったりする。どうだと体を反らせる神様に、茜は吹きだしてしまった。
「ごめんね。猫の目は2つよ。わたしと同じ横並びで2つ」
神様はまたぶるんと揺れて、今度はいくぶん猫らしくなった。
まだ徳利に耳と手足がついているような様子だったが、「すごいすごい」と茜が褒めるとごろごろ喉を鳴らした。毛並みを擦り付け、先を語れと促してくる。
茜は目を閉じて、遠くの砂漠を見る。
「砂がとても細かくて、奇妙な獣が歩いているわ。馬のような……。背中に
茜はそこで目を開けた。どうしたのだと神様が湿った舌で頬に触れた。
「大風です。外では風というものが吹くのです。見えない力で、物が巻き上げられていく。砂が巻き上げられて、2人が……」
白い服を着た2人が、砂嵐に消えていった。それを予感していたように、2人はそっと微笑み交わして、奇妙な獣から降りた。2人が固く手を繋いで頬を寄せた。まつ毛の長い優しい目をした獣は、2人をしばらく見つめた後に静かに去っていった。
砂の嵐が2人を覆い隠す寸前。彼らの青い目が、どこか満足げに茜を見たような気がした。
「おそらく死んでしまった。わかっていたのでしょう。2人は、死んだ後に一緒になるしかなかった」
死ぬとは何だ。問うたのは神様が、それとも茜の心か、茜にはわからない。
「いなくなること。二度と会えなくなること、です」
その後のことは茜は口にできなかった。茜は極楽に行けない。
茜がまだ七つだった時、茜と一緒に
腹の中身は魚か獣に食われ、赤黒い
子守を申し付けられていた彼女たちは、屋敷の縁側で一人おはじきを転がしていた茜に「お寺さ行こう。いいもんがあるよ」と誘った。
誘われたのは初めてで、茜はどぎまぎして何も言えないまま、彼女らの後を追った。
彼らは道端の草を吹いて音を出したり、数珠玉と呼ぶ灰色でつやつやの実を拾い集めたりした。背中の赤子がむずがると、よしよしと言ってあやす。
どの子も土埃で汚れた黒い顔をしていて、擦り切れた着物を着ていた。茜だけが白い顔で繕い跡もない着物だったが、彼女たちは特に気にしていないようだった。
しばらく歩いて辿り着いた山寺で、住職が茜を見て皴の奥の目を見張った。ほんの一瞬で住職の目は白くて長い眉毛と皴の中に埋もれた。
枯れ木のような手を茜の両肩に載せ、住職は静かに言った。
「御仏はお救いくださる。手を合わせなさい」
その日、茜は初めて仏を見た。穏やかな顔でこちらを見下ろすその姿。そしてその後ろには、曼荼羅がかかっていた。和尚は子どもたちに小さな握り飯を振舞い。仏の話をした。曼荼羅に描かれた仏と、死後の世界の話を子どもたちは膝をそろえて聞き入った。帰り道で、茜はおはじきをひとつずつ子どもらに渡した。
それはまた遊んでくれという茜なりの心使いだったし、その他に約束をするという方法を知らなかった。名も知らぬ子どもたちは声をあげて喜び、明日また来るからねと手を振った。明日は来なかった。みんな死んだ。
縁側におはじきが転がっていた。たしかに彼女らにあげたはずの、青い
「神様に祟られたのですよ」
母は笑っていた。
神様がまた頬を舐めた。
「猫の舌はもっとザラザラしていますよ」
茜は笑おうとしたが、瞼の裏に青いおはじきが焼き付いてしまっている。
「もっと楽しい所を探しましょうね」
意識を研ぎ澄ます。
村の小さな家の軒下で、子犬が産まれていた。鼻づらが黒い子犬が、母犬の乳を吸っている。
「犬が産まれたようですよ。犬は、うん。そう。もっと鼻づらが長くて牙も太いんです。あはは、似ていますよ。神様も私と同じ景色が見れたらいいんですが。私が十五になるまで石室から出れないのです」
神様は自在に形を変えた。茜の話を聞いて、なんにでもなった。
獣にも、人にも、花や鉱物に変じることもあった。
どんな姿であっても、愛おしいと茜は思った。小さな神様。どうかずっと一緒にいられますように。
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