巣立ち
いぬきつねこ
うまれる
神さまは白い真綿の上に、しっとりと湿って眠っておられた。
寒天のようにつるりとして、透き通った膜の下に、赤色がトロトロと流動している。まるで鼠の赤子のような大きさと形で、違うのはその表面に瞼のない青紫の目がぱちぱちと瞬きをすることである。
目はいくつもあり、開いては閉じ、開いては閉じ、その度に位地を変えていた。
「眠っておられる」と茜の母様が言うので、眠っているのだろうと茜も思った。
それは茜が十になった晩であった。
生暖かい夜の風に、どこかの家が灯している松明から漂う松脂の香りが混ざっている、どこか湿った晩であった。
母様は屋敷の裏手から続く、おはらの道へと茜を誘った。手には火の入った行燈を掲げている。
おはらの道は遠い祖先が造ったという、地中へと続く地下道で、普段は立ち入ってはならぬと固く言われている場所だった。茜は普段は着ることのない赤い着物を身につけていた。正月に着る振袖よりもずっと上等で、ふんわりと花の香りがした。
母様も上等の美しい錦を着ていた。
二人の着物から溢れる花の香りが、薄暗く狭いおはらの道に漂い、湿った空気の中を下は下へと流れていった。
おはらの道は狭い石段がゆるゆると蛇行して続いていた。
石段の踏面は狭く、苔むしているから気を付けないと滑りそうだ。
茜は石壁に手をついて、一段一段足下に気をつけながら下りた。
下っているのに上っていくような変な心地がして、熱のある時のような酩酊感に襲われる。母様の手にした行燈の明かりが石壁を照らしている。影が浮き上がる。
そこには、円を模したこれまた奇妙な彫刻がなされていた。
二重の円がある。円を、さらに小さい円がある。等間隔に並んでいる。瞳のようだと茜は思った。瞼のない、剥き出しの瞳。
茜は村の子らに連れられて見た、寺院の曼荼羅を思い出していた。あれに似ている。円の中にさまざまな仏がおられた。
しかし壁面の彫刻には仏はいない。
下りる。下りる。下りてゆく。
おはらの道は唐突に終わった。
石段の先は小さな部屋へと繋がっていた。
体を屈めねば入れないくらいの入り口が昏く口を開けている。
どこかで水の滴る音がした。
「さ、入るのです」
母様が言った。紅を引いた唇が行燈の火で艶々と光った。
「茜が先に入るのですよ」
袂を掴んで竦んでいる茜に、母様は少し厳しい口調で言った。
「いや。ここは怖いもの」茜は首を振った。
「怖いものですか。
母様は有無を言わせぬ口調に変わり、自分の袂を茜の指から引きはがす。
「ゆくのです」
ぎゅっとにぎられた肩の痛みに茜は呻き、ゆくしかないのだと悟った。
背後にあったはずのおはらの道が消えていた。
後ろには、ただの闇が広がっている。前方の闇の方がまだましだった。
その部屋は石室だった。明かりがないのにはっきりと見える。
敷き詰められた石畳、びっしりと彫刻のなされた壁面。彫刻は天井までに達し、頭上には、巨大な眼球がひとつ描かれていた。白い顔料で大きな円が描かれ、その中に青紫色の円が、さらに濃い色でもう一つ円が描かれている。目だ。
茜の中から恐怖が消えていた。全身の細胞が酸素で満たされ、感覚が研ぎ澄まされていく。岩壁の向こうで水滴が伝う音も、地上の山の中で眠る獣たちの寝息も、はるか遠くにある海辺の潮騒も、砂浜の松の葉が擦れる音さえもが耳に届いた。
空気の味がする。匂いがする。この、わずかに黴を含んだ湿った水は、かつて刑場で首を切られた男の体が焼かれた時に蒸発したものだ。これは天寿を全うしたはるか昔の王の体を作っていた水。これは……。肌が何か大いなるものの存在に戦慄いて鳥肌だつ。
「進みなさい」
母様の囁きが暴風雨のように鼓膜を揺らした。
茜はふらふらと足を進め、部屋の奥へと達した。
石壁の一部が繰りぬかれ、そこには箱があった。組木で作られた、美しい箱、縦に横に、斜めに。数百枚の木の板が寄せ集められ、複雑な模様を作っている。
茜はその板に順番に触れていった。わずかに熱を持つ板が、次はここに触れよと伝えてくる。
箱が崩れた。無数の板切れが、石畳に跳ね返る。
茜の掌の上には白い真綿が載っていた。
神さまは白い真綿の上に、しっとりと湿って眠っておられた。
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