第8話 朱色の剣

地上に落ちてきた塊は、やがて不気味にうねり始めた。

それはヤマタノオロチほどではないが、やはり、怪物と呼べる大蛇だった。大伽藍だいがらんの柱のような太さの体が、社の床の半分以上を占めている。白い鱗におおわれて鈍く光り、見方によっては美しく見えないこともない。


壁際の和子から距離をおいた明の前に、大蛇は鎌首を持ち上げ、深い闇のような口を開いた。

「ふはー、ヤマタノオロチの不完全さを見抜き、自滅へと導くとは…。だが、ははー、ヤマタノオロチの魂の宿り先であったわしは残っている」


目の前の怪物が、太い管楽器の音色のような声で話した。幽霊は怖いが、本当に怖いのは、現実に生きる悪意をもった存在だという。明は、圧倒的な肉感をもつ化け物に、それに近い恐怖を感じていた。

「君は何者だ」

足の震えをこらえ、明は掠れ声を絞り出した。


「ふー、わしはこの社の見守りヘビ。社に祝詞のりとがあげられて以来、時代を超えてこの境内にて生きてきた」

「ならば人を危害を加えない、いいヘビってことか?!」

問いかけに、大蛇は、巨体に似合わないけたたましい笑い声をたてた。喉元の鱗が細かく振るえている。

「愚かな問いかけだ。わしに神聖さというものを取り戻させようとでもいうのか。人であるおまえが、そんな押しつけがましい問いを投げるとは、腹立たしさを超えて、おかしいのみだ」

「僕はそんな余計なことは考えていない。君は善いものか悪いものかを聞いたんだ」

「善悪などないわい。聖なる生贄いけにえなども関係なく、ただ、生きるために人を喰らう。全く自然な営みだ」

なかば分かっていた答えだった。

『でも、この大蛇は、どうやって生きてきたんだ。町外れの、こんなちっぽけな山にいるのは、せいぜい虫かネズミぐらいなもの。数だって知れている。そんな食べ物では巨体は維持できないはず…』

言葉を発する大蛇を前にして、明の冷静な思考がめぐり始めた。

「君は、これまで人を襲ったり、食べたりはしていない。そんな事件は聞いたこともない。この境内から離れなかったのなら、なおさらにだ」

「ふふ、おまえは正しい。これまではな。喰らう前に聞かせてやろう」

大蛇は赤い舌を震わせた。


「遥か以前、わしが棒切れほどの小さな体の時、獲物はもっぱら、虫やネズミ、コウモリだった。だがある秋の終わりに、地中に穴を掘ったわしは、数知れぬ絵馬が埋められているのを見つけた。わしは律儀りちぎにも社の床下に運ぼうと思い、その内の一枚を口でくわえた」

大蛇は、明の周りを身をくねらせて回り始めた。その円の外側で横たわる和子の体が少し動いた。意識が戻ってきたのだ。


「だが、ははあ、わしは絵馬を誤って飲み込んでしまった」

大蛇は思い出話を楽しんでいるようだった。


明は視線を巡らせた。

『この場から逃げ出す方法は…社から出れば何とかなる。和ちゃんがいる壁とは違う方に大きな穴が開いている。そこから大蛇を外におびき出せばいい。外にはまだ、ヤマタノオロチを蘇らせようとしていた大人がいる。大蛇は人を選ばずに襲いかかり、僕と和ちゃんは助かる。ああ、ちくしょう、僕はなんてことを…』

明は激しく首を振った。

『外には山田先生もいる。校長や他の大人たちだって、自分の意志ではなくオロチの手下になってしまったのかもしれない。そんな人たちを囮に使うことを考えるなんて…』


「それで、どうしたっていうんだ!」

明は自分への怒りをぶつけるように、目の前に静止している鎌首に怒鳴った。

「焦るな、若造。わしの話の合間に、その身が腐ることもあるまい。はー、わしが誤って口にした絵馬はな、ああ、体に染み入るほどにうまかったのだ。なぜだか、わかるか」

低くうなる声は床板を震わせて、明の足元から体に伝わった。緑色の目に見つめられた明は、自然に話に注意を向けはじめた。

「なぜだ」

明は聞いた。


「理由は、人間の影の言葉だ。わしが口にした絵馬には、他の人間への呪いが込められていたのだ。だからこそ、社の表には掛けられず、地に埋められたのだろう。そのドロドロとした思いは、わしの舌に喜びを、体には熱を与えた。わしは冬の眠りに入ることもなく、空腹を覚えるたびに絵馬を飲み込んでいった」


舌を揺らす大蛇の後ろで、目を覚ました和子がそろりと起き上がった。

明は、逃げろとばかりに、和子の背後に開いた穴に視線を飛ばしたが、硬い表情にうなずきを確認することはできないまま、白い巨体の陰に見えなくなった。


大蛇の話は続いた。

「地中の絵馬を飲み尽くしたある日のこと、車が一台やってきた。車から降りた人間は、草むらにいたわしの体の上に、金属のロッカーを投げ落とした。わしはすぐにも逃げようとしたが、同時に、甘美なものが体に溶け込んだ。

人間はゴミと一緒に、後ろめたさという気持ちをわしに振り掛けたのだ。それは、絵馬に込められた呪いほどではなかったが美味かった。

それから長い年月、実に様々なものが、わしの上に、周囲に落とされ続けた。その度に、わしは地面にめり込んでいった。だが一方、不思議なことに、わしの体は脱皮もせずに成長し続けたのだ。そして先日、体をおおっていた重みが取り払われた。それと同時に、どこぞから声が響いた。

…兄弟よ、おまえは人間の心の闇を十分に吸収した。今こそ、広き闇の世界に心を開け。おまえに強大な力を授けよう…と。

わしはその声に、応!と答えた。そしてヤマタノオロチの魂は、わしに宿ったのだ。

だが、ヤマタノオロチは消えた。残ったのは、人間の心の闇によって作り上げられたこの体だ。

さあ、話は終わった。若造。次はおまえが答えよ。腹が減ったわしは、おまえのどこから食べたらよいのかを」


「まて!」

「ははあ、危機に瀕して浮かんだ妙案か。あるなら言え」

明はすぐには答えられなかった。

動物園にいけば大蛇に食物を提供してくれるだろう…ふと思ったが、そんな案を受け入れるはずがない。もちろん、どこから食べてくれ、などと言えるものでもなかった。

『何か方法はないのか』


「悩みを持つな、若造。ヤマタノオロチも手下に吸い取らせていただろう。悩みは、肉を不味まずくする」

ヘビ男が人の思考の力を奪っていたのは、そんな意味もあったのだ。明は一瞬、息を飲んだが、驚く間はなかった。一旦、後ろに引いた鎌首が、いきなりムチのように襲いかかってきたのだ。鋭い牙が足を掠め、ズボンの裾がざっくりと裂けた。


「君は、この社の見守りヘビなんだろう⁈」

明は体をよじりながら叫んだ。

「その通り、人間が己の心の闇を捨てる社のな」

既に大蛇は待つことを止めていた。息をつく間もなく襲いかかってくる。それを避ける度に明の服は裂けていった。体中にナイフで切られたように痛みが走った。血が滴り、服が手や足にまとわりついた。

『体が思ったように動かなくなってきている』

先ほどのヤマタノオロチとの戦いで、だいぶ体力を消耗していたのだ。息苦しさと胸の鼓動が高まっていった。

『もうダメなのか』明は思った。


「こっちよ!」

凜と声が響いた。いつの間にか移動していた和子が、板切れで大蛇の尾を殴りつけた。ぐらついた柱を背にしている。

「そう、うるわしの姫を忘れておったわ。姫よ、おまえの計略は見えているぞ」

大蛇は尾の先で和子の足をさらい、鎌首の横に転がした。尾が掠ったのか、柱はもろくも崩れ、屋根に残っていた瓦や石が轟音とともに落下した。和子は、それが大蛇の頭上に降り注ぐことを狙っていたのだ。

「こざかしいわ」鎌首がきしむように横を向いた。


『だめだ、和ちゃんを犠牲にすることだけは!』

明は大蛇の鎌首を蹴り上げながら、和子の前で膝をついた。その正面で何事もなかったかのように、赤い舌がピュルピュルと揺れていた。


「和ちゃんは逃げろ」

明は和子の前に立ちはだかって目をつぶった。

「あきらめてはだめ!」

温もりが明を包んだ。和子が前に回って抱きしめていた。


「はははー、では、二人ともにわが腹に」


明は目を見開いて、和子をかたく抱きしめた。最後の瞬間に、和子を突き飛ばすつもりだった。が、その時はやってこなかった。


目の前でゆったりと振られる大蛇の鎌首から、生臭い息が流れていた。これまでは感じなかった酸っぱいような臭いだ。何故か大蛇は躊躇していた。ひどく慎重になっている。


『怖れだ。こいつは何かを怖がっている』

よく見れば、大蛇は、和子が顔を向けている方、明の右側を避けているようだった。

視線を下げると、傷ついた明の右手の甲を、和子の涙が流れていた。指先からは自分の血が滴っている。

『血?いや、ちがう』

滴っていたのは、ただの赤い血ではなかった。明と和子が流した血と涙が混じりあい、輝く朱色のしずくとなっていたのだ。しかも、床に落ちた雫は散らばらずに伸び上がり、細い棒となっていた。その端は、今、まさに明の手に触れようとしている。


「ヴォー。若造と小娘が奇妙な剣を作りおった」

角笛のような声をあげた大蛇は、明の左側に鎌首をずらし、赤い口をがばっと開いた。

明は右手を振り上げ、床を蹴った。


ギャーー、すさまじい絶叫が響いた。

倒れ込んだ二人の横で、大蛇がのたうち始めた。見れば、フェンシングの剣のような朱色の切っ先が、赤い舌をアゴまで貫いていた。

間一髪の所で、明は不可思議な剣を握り、大蛇の口に突き立てたのだ。


大蛇は舌を貫く剣を取り除こうと、尾の先を口に入れた。まさぐる内に、鋭い牙が尾を噛んだ。もがくほどに、丸太のような尾が、赤い口の中に飲み込まれていく。

尾が、胴が…飲みこまれた体は、一瞬のうちに消化されるのか、消滅していくのかわからない。白い巨体は、宙に溶け込むように縮んでいった。やがて、首の皮がめくれるように鎌首が大きく膨れ上がり、突然に大蛇は姿を消した。

後には、三センチほどの白い玉と、朱色の剣が床に残っただけだった。


肩で息をしながら、明は立ち上がろうとしている和子に手を伸ばした。

「いなくなったんだよね」

「うん。私、ずっと信じてたよ、明君が守ってくれるって…」

和子は、大蛇の痕跡である白い玉を見つめながら小さく頷いた。


いつの間にか、二人の前に眩い輝きが広がっていた。床に突き刺さった朱色の剣の周辺に、光が滲み出ていた。床下から逞しい腕が突き出して、剣を掴んでいる。


<<成し遂げし、若き二人よ>>

聞き覚えがある声だった。ヤマタノオロチに心を乗っとられていた時に聞こえたものだ。


<<この朱色の剣は光の神殿に納めておく。我が姉に献上した宝剣とともに>>

静かに響く声とともに、剣は床下に沈み始め、輝きも同時に消えていった。


「あの声、きっとスサノオだわ。彼は本当にいたのよ」

和子が興奮して話した。

「うん」

明は頷きながらも、見つめる和子の黒い瞳が掠れていくように感じた。体中がひどく火照っていた。

「和ちゃん、ちょっと休ませて…」

明はそのまま床に倒れ込んだ。

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