第7話 闇の世界から来たもの
7、闇の世界からきたもの
…何をしている。偽り事を燃やせ。
「もちろん、仰せの通りに」
神からの
「邪悪な本よ、燃えるがいい」
火の粉を巻き上げて灰となっていく本を見つめながら、明は高らかに笑った。周囲には黒い霧を身にまとった同胞たちが、溢れんばかりに集まってきた。
…よくやった。少年よ。そして皆の者よ…
低い声とともに、社の床が揺れはじめた。
「さあ、いよいよ、神が御姿を現さられる。外に出て
校長が話し、明たちはぞろぞろと外に出た。同時に、室内からの激しい風圧に曝されたように社の屋根の一部が吹きとんだ。
立ち昇っていた煙に、同胞たちが溶けて混じり込んでいっている。あたかも漆黒の巨木が、空に伸びていくように見える。
枝のように八つに分かれた先が、はっきりと輪郭を現した。それらは天から降臨したような美しいヘビの顔だった。皮膚は、黒曜石のごとく煌めいている。太い柱のような煙は、より太く広がり、逞しい体と尾が見え始めた。
「我らが神よ!」
明も、大人たちも、乞い願った神の
瞳の端には、今も宙に舞い上がり、神の体に吸収されていく同胞たちが見えている。
彼らは十分な役割を果たしたのだ。人々の心より、悩みを洗い流し、十分な信者の数を確保した。そして今、この時にも、神の体を確固たるものにするために働いている。
「僕は何て愚かなことを」
明は、同胞たちの神聖な仕事を邪魔していた自分を恥ずかしく思った。
…この世の我が
厳かな声とともに神の八つの口々が大きく開かれた。
「ああ、光明の世界への扉…」
明はすぐにも、その中に飛び込みたい衝動に駆られた。他の人達も同じだろう。神が、町の人々の前に姿を現せば、皆、一目散に駆け込むに違いない。
『もう少しの辛抱だ。和ちゃんが神の魂の力となってからだ』
明は自分にいい聞かせ、はやる気持ちを抑えた。
社の中で、和子は白い布を掛けられて横になっている。じきに神は地上に降り、八つの頭のいずれかで彼女を召すことだろう。
『ああ、なんたる聖なる行為。これまで共に行動してきた女性がそれを受けるんだ』
光栄であると同時に、わずかに嫉妬する心があった。
「・・」
明の口の中で、ヒリヒリと舌が痛んだ。先ほど先生に意味のない抵抗をした時に、舌を噛んでしまったのだ。
『しかし、僕は何に抵抗しようとしていたのだろう』
記憶にぽっかりと穴が開いていた。
『間に吹く風…そうだ、あの得体の知れない者の声を聞いてから、おかしくなってしまった。今でも、どこか、違う目や耳が開いているような気がしてならない。だから、和ちゃんが神の栄光を受ける事を百パーセント喜べないんだ。
神よ、僕は嫉妬心を抱いてしまっています。このような僕でも、あなたは受け入れて下さいますか』
明は平伏しながら問いかけた。
…嫉妬心は信じる心の厚さゆえ。自分を責める必要はない…
神の声が降り注いだ。しかし、しっくりこなかった。違和感が高まってきた。
<<それは、嫉妬心ではない。為すべき事を忘れた自分への怒り>>
信じる神とは別の者の声が聞こえたようだった。胸の内で、やにわに不安が高まった。自分は知ってはいけない事に気付こうとしている。
ー ー ー
『明君、遅いわ』
一人、教室に寂しそうに座る和子が顔を上げた。
ー ー ー
突然、過去の映像が蘇った。つい最近の事だったようだがはっきりしない。
鼓動が強く打ち始めた。体がその時の気持ちを再現していた。ひどく苦しい。なぜ過去の事を思い出しただけで、こんなに動揺するのだ。
『あのとき、彼女は?』
してはならないと思いながらも、問いかけが止まらなくなった。
『彼女は、僕を待っていてくれた。それは今でも?』
『そう、神の口に入ろうとする今でさえも、僕を待っていてくれている』
<<大切なものを守れ!>>
最後に、神以外の者が言った。その言葉はしっくりと胸に響いた。抑え切れない胸の内の叫びと重なり合っている。
『僕は、大切なものを守る!』
カチリッ!
胸元で何かが割れる音がした。
明は目を見開いた。地面に二つに裂けた絵馬が落ちていた。
大人たちは地面に平伏している。今までの自分と同様、神と崇める者の栄光に憑りつかれている。
では、その神は、
「ヤ マ タ ノ オ ロ チ!」
空に向けた視線の先にうごめく巨体、それは、まさに化け物だった。
大型の給油車のような胴に、ドラム缶のような頭を八つ生やし、それぞれが洞穴のような口を開けている。鋭い牙の後ろには赤い舌が揺らめいている。
紙の絵馬…黒色の背景に描かれていた赤い噴水は、口を開いた大蛇の割れた舌だったのだ。人々はそんなものに願いを込め、自分はその中に駆け込みたい衝動に駆られていた。
明は吐き気をもよおしながらも、ヤマタノオロチの真下、社の中に飛び込んだ。
和子は気を失ったまま横になっている。幸い、崩れた屋根の破片は当たっていないようだ。
…小僧よ!…
和子を縛ったロープをほどいた明の頭に、風の唸りのような低い声が降ってきた。
見上げれば、ぽっかり開いた屋根に、ひしめくように八つの頭がはまりこんでいた。
…なぜ、娘を解放しようとする。おまえの順番はまだ先のこと。それとも、おまえ自身が一番に、我が魂の力となりたいのか…
その声には厳かさはなく、からかうような調子が含まれていた。明が正気に戻ったことを知っているのだ。
「大切な人を守りたいから守る。当たり前のことだ。それに、おまえらの口の中なんて、まっぴらごめんだ!」
明は怒鳴った。
…神たる我らを前にして、あまりにも不謹慎な言葉…
八つの首の一つがいきなり下がり、明の体を突き飛ばした。途方もない重みに、明の体はひとたまりもなく床を転がり、壁に激しく腰を打ちつけた。
…どうだ、痛いだろうが…
手前の頭が大口を開けて笑い、続けて他の七つの頭も笑った。
…わしの腹に入れば、喜びはないが痛みもない。そちらの選択もできるが。どうだ?…
「突き飛ばされれば痛いに決まっている」
明はうめきながら言った。
…ふふ、活力に満ちた若者の体は、乙女の体と同様に、我が霊力に強い力をもたらす…
一つのオロチの頭が赤い舌を伸ばしながら、また首を振った。
明は、横っ飛びに転がりながら避けた。振り子のように振られた頭は壁に衝突し、入り口の壁に穴を開けた。緩んだ戸がきしみながら外に倒れ、外にいた数人が挟まれて悲鳴をあげた。
…どこまでもつか…
オロチの口から冷気のような息が吐き出され、土間の中央にある灰の山が、煙のように立ちこめた。
明は、
『考えろ!こいつの弱点は?』
明は走り、跳びながら自問した。できれば、崩れ落ちる建物の破片が、和子にぶつからないように外に出たかったが、崩れた壁や梁が邪魔をしていてかなわなかった。おそらくヤマタノオロチが明の逃げ道を塞ぐために、建物の奥に追い込んだのだ。
「くそう!」
舞い上がる灰に激しくむせながらも、視界の端に映る和子の姿が明を突き動かしていた。
間に吹く風は言っていた。
…闇のものを闇に返す方法は二つ。そのものに当たるこちらの世界の風を強めること。または、滅びゆく命を、その身に植え付けること…
ヤマタノオロチは闇から来た。そのことに間違いはない。しかし、こんな土壇場でも、風の言葉の意味は見当もつかなかった。
「滅びゆく命だって。そんなもの、どこにあるっていうんだ」
明は叫ぶように言葉を吐いた。
が、突然、おかしなことに気がついた。天井の抜けた上方は、巨体に覆われているはずなのに、室内は明るかったのだ。
『なぜ⁈』
明は床に踊る影を見つめた。
『影は一本しかない』
「おまえたちは偽物だ!」
唐突に言葉がほとばしり出た。
…この期に及んで何を…
八つの首は、大口を開けて笑いあった
「嘘だと思うなら、僕を他の首で
…ふはは、ならば、望みどおりに…
化け物は一つの頭を引き上げ、ぞろりと残りの頭を垂らした。ついで、七つの頭が荒馬の一団のように一気に襲ってきた。
屋内に大きな気流の乱れはなかった。舞い上がった灰はゆっくり落ちている。
『きっと大丈夫だ』
明は自分を信じて微動だにしなかった。
恐怖の時は一瞬に過ぎた。巨大な七つの鎌首は、明の体を突き抜けたのだ。
…わしらはヤマタノオロチ。宿敵スサノオへの信仰の消えたこの社に復活した…
実体のない七つの首が、顔を見合わせて言った。
「でも、あんたらは、息まいているだけだ」
化け物は混乱し始めていた。明らかに勢いが落ちていた。
『そう、混乱だ!』
明はつかんだ。闇に返す方法かはわからないが、今、できることはそれしかなかった。
床に転がっていた屋根の角材を抱えて振り回した。無論、それは七つの頭をつき抜けただけだった。
だが、群れ動く頭には、実体のなさを突き付け、鋭い切っ先のような衝撃を与えたのだ。
…我が実体、それは我のもの…
七つの頭それぞれが視線を上に向け、天井に浮かぶ鎌首に登っていった。影を持つ一つの鎌首を飲みほさんばかりに。
明はその隙に和子の体を抱きかかえ、穴が開いた壁際に運んだ。和子が意識を取り戻せば、そこから自力で脱出できる。そう考えたのだ。
…我らは未だ不完全なだけだ。この世にて、あの若造の肉を喰らい完全体となろうぞ!…
影を持つ鎌首の一つが、こちらを見下ろして叫んだ。
…ならぬ。若造を喰らえるのはおぬしだけ。己のみが力を得るつもりか…
激しい怒りが上方に炸裂した。もはや複数の首の統制が全くとれていなかった、
巨体に吸収されていたヘビ男たちが、外に放出されはじめた。ヤマタノオロチの輪郭が、元のようにぼやけ始めている。
…いかん、
巨体は危機感をもったようだった。ヘビ男たちを戻そうと、激しい風を巻き起こして回転し始めた。ヘビ男たちが再び吸収されるとともに、ざわめく無数の落ち葉が宙に舞い上がり、巨体にめり込んでいった。
…エーイーー、いらん。滅びゆく命は無用のものじゃ!!…
低い叫びが空に響いた。同時に巨体が激しく体を震わせた。
辺りを暗がりが覆うほどに、数知れない落ち葉がまき散らされた。
それは、まるで大がかりなマジックショーを見ているようだった。巨体から放出された無数の落ち葉が、紙吹雪のように舞っている。黒い霧となったヘビ男達が空気中に拡散して消えていく。
そして落ち葉がすべて地面に落ち、黒い霧が消えた時、もはや上空には、黒い巨体は浮かんでいなかった。代わりに、一回り小さい塊が残っていた。
それは、空中でぐらりと揺れ、地響きをたてて社に落ちてきた。床板の半分が、ひしゃげて、地面に食い込んだ。
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