第4話 家族の戦略

「今日はお疲れさまでした。送って頂きありがとうございます」

丁寧にお礼を言い、先に和子が車から降りた。

「大丈夫か?中まで送ろうか?」

先生が車の窓を開けて声をかけた。口には出さなかったが、和子の家にもヘビ男がいるのではと心配していたのだ。

「平気、これがあるもの」

和子は本を片手に微笑みながら頷き、門を開けて家に入っていった。


先生のアパートから送ってもらう道中で、スサノオの登場する本に効果があることははっきりした。三冊あったため、効果が強まって、近寄ろうとするヘビ男が消え去る距離が遠くなっていたのだ。


「和子、本当は不安だったんだろうな。まあ、あいつらに心を吸い取られとしても、人は悪魔になるわけじゃない」

先生がぼそりと言った。

「うん」

明は、一人で家に入っていった和子の気持ちがわかったような気がしていた。

『町の人のだらしなさ、快楽をむさぶるような行動…もし自分の家族が、あんな風になっていたら…きっと他の人には見てほしくなかったんだ』


車はすぐに明の家の前に着いた。先生に聞かれる前から、大丈夫!とばかりに勢いよく車を降りた。

「じゃあ先生、あした学校で。今日はありがとう」

「おう、礼を言うのはこっちの方だ」

激しくエンジンを唸らせながら、車は走っていった。


暗がりの中で、明は家の周囲を見まわした。街灯に照らされた所に、黒くうごめくものが見えた。

ヘビ男たちは、大通りだけでなく住宅街にも出没しているのだ。はっとおかしなことに気がついた。

『生徒会が本を集めて絵馬を配ったのは住宅街のはず。なのにヘビ男たちは、大通りや商店街にたくさんいた。ということは、絵馬の出所でどころは、生徒会から配られただけではなく、もっと多いってこと?』

疑問を高ぶらせながら、家のチャイムを押した。


明かりはついているのに母さんは出てこなかった。

『帰りが遅くなったから怒ってるのだろうか』

ありきたりのことを考えて、胸の奥から湧き起こる不安をおさえた。

そっとドアのノブを回すと、鍵は開いていた。

『おかしい。用心深い母さんが、鍵を開けておくなんて…間違いない、母さんはヘビ男に会ったんだ』

そう考えるしかなかった。


「おかえり、明」

玄関から廊下に上がった所で、陽気な声がかけられた。洗面所の鏡の前で、よそ行きの服を着た母さんが髪の毛をとかしていた。

振り向いた顔は厚化粧をして、鼻歌混じりに微笑んでいた。

「どこかに行くの?」

ごく普通に質問をした。

「どこにも行かないわ。ただ綺麗な格好をしたいと思っただけ。でも聞かれたら、面倒臭くさくなってきたわ」

母さんはクシを投げ出して台所にいった。


居間に入ると、父さんが寝そべりながら、ビール缶を片手にテレビを観ていた。いつも帰宅は八時を過ぎていたのに。

「父さん、仕事、早く終わったの?」

明は、必死に日常を保とうとしていた。

「おう。今日は会社の皆でな、仕事なんていいから早く帰ろうって話になったんだ」

父さんは全くの上機嫌だった。その隣に冷蔵庫から缶ジュースを取り出してきた母さんが座り、喉を鳴らしながらジュースを飲みはじめた。


『二人とも情けないよ。こんなに、やすやすとヘビ男にやられてしまうなんて』

明は溢れそうになる涙をこらえて顔を上げた。その視線の先、長押なげしの上に黒い絵馬が二つ飾ってあった。二人の物事を考えようとする心は、ヘビ男の袋に吸われてしまっている。


『結果はどうなるかわからない。でも、何かやらなければ!』


「父さん、母さん、これを見るんだ!」

明は怒鳴りながら制服のポケットに入れておいた本を、二人の前に突き出した。あらかじめ開いていたページ。全く地味で文字しか書かれていない。二人のへらへらとした視線が本に注がれた。


「そいつは古事記の中の、どーの神様かな」

ふざけるように言った父さんの目が、探し物をするように左右に揺れた。母さんも同じだ。

「おい、明。おまえ何をした。せっかくの素敵な音楽と光がなくなったじゃないか。それに何だ。この頭の中が空っぽになったおかしな感じは」

二人はそそくさと立ち上がり、長押の下で祈った。

「どうか、この妙な感じを消して下さい」


明はすぐにも絵馬を引き裂きたい衝動に襲われた。が、じっとこらえた。

スサノオの本には、甘く誘惑する音楽や、光をとめる作用もあるらしい。それにこの本の前では、絵馬に祈っても、袋を持ったヘビ男は現れないはずだ。じゃあ、その先は?


雨乞いをするように腕を広げた二人の表情は、だんだんこわばっていった。やがて瞳は輝きをなくして、表情は止まり、ロウ人形のように立ちつくした。

「しっかりして」

明は必死に二人に呼びかけた。父さんの脇腹を強く叩いた。だが、反応はなかった。息も止まってしまっているようだ。

一度、ヘビ男に心を奪われたら、あの音楽と光がなければ、生きていけなくなるという事なのだろうか…


「くそっ!」

明は本を握りしめた。本の効果がなくなれば、きっと絵馬はこたえてくれるだろう。ヘビ男が現れて、麻薬のようなものを与えられ、両親は息を吹き返すかもしれない。心の大切な部分は空のままだが、死んでしまうよりは…


本を捨て去ろうと、居間から出ようとした時、視界の端に動きが見えた。振り返れば、二人は肩を上下させて息をしていた。その頭上からは、天井を通して淡い光のようなものが流れ落ちていた。それを必死に吸い込んでいる。


「痛たた」

淡い光が見えなくなった時、明に叩かれた脇腹をおさえて、父さんがうずくまった。

「どうしたの」

母さんが心配そうに、父さんの顔をのぞきこんだ。

どうなることかと思ったが、二人は燃やされて、どこか空の彼方に散っていた心を取り戻したのだ。

「なんだい。そんなきれいな格好して?」

うめきながら父さんが母さんに聞いた。

「そっちこそ、何うなっているのよ」

二人の会話に、ほっとした明は膝から力が抜けそうになった。涙がとめどもなく溢れてきた。


ふらつきながら、明は長押にジャンプして二枚の絵馬を手にとった。

「それね、今日、生徒会の子供たちからもらったのよ。父さんも会社でもらってきたの。すごく御利益があるみたいだから、大切に扱わなければだめよ」


「こんなもの、こうしてやるんだ!」

明は絵馬をビリビリに破いた。顔をひきつらせた母さんだったが、あまりにも真剣な明の表情に次の言葉が出なくなっていた。

「どうした、急に。それに泣きべそをかいているじゃないか?」

脇腹の痛みが遠のいた父さんが優しく聞いた。母さんも心配そうにのぞきこんでいる。いつもの二人に戻っただけなのに…、そんなことで、涙を流してしまった自分が悔しかった。その一方で、素直に喜べよ。と囁く自分に、ほんの少しばかり頷いた。


涙が止まった時、明は二人をおいといて和子に電話をした。

もしや、和子も同じ体験をして、耐えきれずに本を捨ててしまったかもしれないと思ったからだ。

電話口にでた和子は、たぶん、大泣きしたのだろう。鼻の詰まった声でくすくすと笑っていた。

「うち、幼稚園に通う妹がいるでしょう。家中がクレヨンで落書きされててすごかったの。でも、なんとかいつもの家族に戻ったわ」

「うちは母さんが、けばけばになっててさ…」

明の後ろでは、両親が聞き耳を立てていたので、込み入った話はできなかったが、何はともあれ安心した。

本がもたらす効果が同じだったことを確認し、互いに喜び合って受話器を置いた。


「なに今の話。よそさまに、母さんのことを言ったりして」

「それにおまえ、和子ちゃんと電話で話をするほど仲がよかったのか」

「何言ってんだよ、二人とも」


変な妄想を膨らませ始めた両親に、明は憤慨しながら今日の出来事を話した。さすがに、へのへのもへじのくだりは、放課後に残って書いていた数学の図形がしゃべり始めたことにした。

信じてくれるかと不安だったが、会社からの意味のない早退といい、目的のない派手な化粧といい、自分たちの行動が何よりの証拠になっていたので、父母ともにあっさりと信じてくれた。


「じゃあ、悪いのは校長先生ね。嘘をついて本を集めさせて、おまけに悪魔の使いのような絵馬をくれるなんて、絶対に許せない。教育委員会に訴えてやる」

母さんが息まいた。いつもの通りの短気さだった。うんざりする一方で、やたら嬉しかった。


「待てよ、母さん。僕の会社には、生徒会の子供たちは来ていないよ。今日、来たお客さんといえば、駅前商店街の会長ぐらいだった。会長が帰ったあと、所長が、あの絵馬を皆に配ったんだ」

父さんの話に、明は「やはり」と頷いた。

ヘビ男たちの仲間になっていたのは校長だけではなかった。そして絵馬は、古い本と引き換えるだけではなく、もっと広く配られていたのだ。

父さんは続けた。

「それにだ。この事件が、明の話そのものだとすると、誰が悪いのなんのなんて言ってる場合じゃない。僕ら人間の力の及ばない問題みたいだ。

しかし、解決方法はある。明がそれをやってみせてくれた。さあ、本屋さんが閉まってしまう前に、僕らを守ってくれる本を買いに行こう。母さんと僕の分、少なくともあと二冊は必要だ。心を奪われて、かわいい息子を泣かしてはいけない」


さっそく父さんの運転する車で、夜の町にくりだした。


「こいつはどうなってる」

商店街の通りに出た時、両親は息を飲んだ。

店という店が明かりを消してしまっていたのだ。本屋も例外ではなかった。

なかば予想はしていたが、明も驚いた。

元旦に、しめ縄をして店が閉まっているのとはわけが違う。


「町が死んでいる」明は小さくつぶやいた。                


「明、さっき話してくれたヘビ男は見えるかい?僕には全然見えないんだが」

父さんが聞いた時、車はちょうど駅の前を走っていた。

「いるよ、改札をでた所に。山のように」

「嫌。それじゃ、町の外から帰ってくる人を狙ってるってわけ?」

「きっとそうだ。絵馬で呼ばれたヘビ男たちは、町の人たちから吸い取るものがなくなって、ここに集まってきたんだろう」

ハンドルを握る父さんの横で、母さんはドアガラスに顔を押しつけ、見えないはずの化け物を探していた。


車は人気のない町境の橋を渡り、隣町に入った。それから随分と走り、ようやく道路脇に、店々の明かりが見えはじめた。一件のこぢんまりとした本屋に入ろうとした時、入れ違いに一組の家族が出てきた。

「あっ」

和子の家族だった。両親と妹の礼子がいる。親たちは、それぞれの子供に世話になったとばかり、丁寧にお辞儀をしあった。


「やっぱり、本を買いに?」

明が聞くと、和子は頷きながらも首を振った。

「うん。でもだめだった。神話の本、二、三日前まではあったらしいけど、私たちの町の教育委員会の人が来て、全部買っていったらしいわ」

明の父さんが首を突っ込んだ。

「教育委員会だって?この事件に関係している人はそこまで広がっているというわけか。

どうりで町を外れても、たくさんの店が閉まっていたわけだ。なーるほど」

「あなた、納得してどうするの。他の店を探すのよ」

母さんがイライラしたように言った。

「探すって言ってもな。校長先生、商店街の会長、それに教育委員会の人まで関係しているんだぞ。きっとかなり広い範囲で本は買われてしまっている。そりゃ、ずっと遠くまでいったら、あるかもしれないが、もう時間も遅い。到着する頃には本屋も閉まっているだろう」

父さんは腕時計をちらりと見ながら言った。時間は九時を過ぎていた。

「あなた、あきらめてどうするの、本が見つかるまで、どこまでも突っ走るのよ」 

高い声で母さんが言った。

「無茶を言うなよ」

父さんは肩をすぼめた。和子の家族は困ったような顔をして笑っている。

「家の恥だ」

明はよそを向いてぼそりと言った。


「ねえ、本って、お姉ちゃんの持っているのと同じのでいいの?」

和子にぴったり寄り添っていた妹の礼子が聞いた。姉に似た大きな目を、眠そうにショボつかせている。

「もちろんそうよ」

和子の返事に、礼子はにっこりと笑った。

「それなら自分で作ったらいいのよ。このあいだ、礼子も、幼稚園で自分の好きな紙芝居を画用紙に書いて作ったわ」


居合わせた皆が、はっと気づいたように顔を上げた。

「なんで、そんな簡単なことに気づかなかったんだ」

和子の父さんが額を小突いた。


「本をコピーすればいいんだ」

「そうよ、どの本だって特別に祈祷されているわけではない」

明と和子が息を吐いた。父さんが頷いて礼子の鼻の先をちょこっとなでた。

「それならどこでもできるぞ。ありがとう、かわいいお嬢ちゃん」

礼子は嬉しそうな顔をして、和子の顔を見上げたが、

「もう今日、お風呂入らなくていいよね」

そう言って和子に寄りかかって眠ってしまった。

「あらあら、しかたないわね」

和子の母さんが小さな体を抱き上げた。皆の顔に微笑みが広がった。


「さあ帰ろう。本はこの町のコンビニに寄ってコピーしよう」

和子の家族に別れを告げて、明たちは車に乗り込んだ。


車の後ろのルームランプをつけ、明はズボンのポケットに入れていた本を取り出して読み始めた。

『む、ムズイ』

難しい漢字のオンパレードで、読書嫌いな明にとっては、全く縁がない本だった。一つの漢字に引っかかると、それまで読んでいた内容がこぼれ落ちていく。

『けど、あの山田先生だって読んだんだ』

奇妙なライバル心を駆り立て、なんとか読み終えた。漢字は難しいが内容は意外に単純で、まあ、よくできたファンタジーといったものだった。むしろ、後書きの解説の方が興味をそそられた。

つまり、スサノオの話は、ある地方のリーダーの活躍を、民衆にわかりやすく説くためのものだったという。

ヤマタノオロチは幾度となく洪水を起こしていた暴れ川のこと。人身御供になっていたお姫様は農作物のこと。スナノオノミコトは、暴れ川を治水し、農業の発展に貢献したのだという。加えて、その暴れ川は鉄の鉱脈から流れていて、川底に豊富にあった砂鉄を利用して、剣や農機具などの鉄製品を作っていた。ヤマタノオロチの体から剣が出てきたという話は、そのことを現しているという。


現実的で説得力のある解説だった。

『でもそれじゃあ、今起こっていることはどう解説する?スサノオの物語が大嫌いな人がいて、町の人たちに集団催眠をかけ、何かやらかそうとしているとでもいうのか…確かにヘビ男たちが見えない人からいえば、そんな風になるのかもしれないけど』


あれこれ考えていると、父さんが機嫌よく話し始めた。

「僕はスサノオの話が大好きなんだ。子供の頃に絵本で読んだけど、スサノオがヤマタノオロチと戦うところなんて、胸がドキドキしたよ。それに死者の国に母親を訪ねていく話もジーンときたな。歳をとって娘を嫁に出す時には、英雄らしくなく嫉妬したりして人間臭くてよかったなぁ」


「父さんは、ヤマタノオロチの話は本当にあったことだと思うかい?」

「難しい質問だな。でも少なくとも、心の中では本当にあったこととして息づいているよ」

笑いながら答えた父さんは、ひと呼吸おいてから続けた。

「まあ、それはそれでよしとして、スサノオの話は、他の英雄の物語と混じり合って、困難に立ち向かうために必要なものを教えてくれたんだ。つまり、知恵と勇気、それに自分が大切にしたいもの。その三つが大事ということを。だから、僕にとっては決して意味のない作り話なんかじゃないんだ」

「ねえ、あなたは大切にしたいものってあるの?」

緊張が抜けて微睡まどろみかけていた母さんが、父さんに聞いた。

「もちろんあるさ。だからこそ今も必死で車を走らせてる」

「何それ。はっきり言葉で言いなさい」

母さんはいたずらっぽく父さんの脇腹を小突いた。まったくご機嫌な時でも、母さんはうるさいときてる。

「さあ、ついた」

暗い街道で鮮やかな光を放つコンビニの駐車場に父さんはハンドルを切った。

帰宅後、しばらくして和子から電話があった。和子は父親のスマホで、スサノオのヤマタノオロチ退治のページを検索して表示し、それが本の代わりになるかと試したらしい。

「私、父さんから少し離れて実験したの。確かに効果はあったわ。でも、スマホを操作しているちょっとした合間にヘビ男たちが近寄ってきて、すぐに本を持った私が駆け寄らなければならなかったの」との事だった。


わざわざ本を買わなくてもヘビ男を追い払える方法だったが、実際の場面では、やはり、本やコピーなどの印刷されたものを持っていないと、役には立ちそうになかった。



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