第3話 群がるヘビ男たち
「や、あれは?」
何かに気づいた先生が、窓を開けてベランダに出た。明たちも後に続いた。
プールの向こう側にある焼却炉の周囲に、今見たばかりのヘビ男たちが集まっていた。ざっと見て三十人以上はいる。
ヘビ男たちは、手に持った膨れ上がった袋を次々と炎のなかに投げ込んでいる。その度に、立ち昇る黒い煙に青白い火花が走った。袋を燃やした男たちは、黒い
焼却炉から五メートルと離れていない所には、用務員の金子さんが地べたに座り込んでいた。空を眺めながら煙草を吸っている。目の前を異様な姿の者たちがぞろぞろと歩いているのに、気にしている様子は全くない。
「金子さんにはヘビ男たちが見えていないか、気にならないんだ。それにおかしい。学校の敷地では、校庭であっても禁煙という決まりだ。真面目な金子さんが規則を破るなんて」
先生は唇を噛んだ。
「さっき二年生が、用務員室から出てきた金子さんに絵馬をあげていたわ。きっと金子さん、願い事をして余計な事を考えなくなってしまったのよ」
「だけど、ヘビ男達が持っているあの袋には何が入っているのだろう。僕らの時も、目の前で袋を広げてきたけど」
明は首を傾げた。
「きっと私たちの心から消えていったもの、悩ましさとか不安の気持ちだわ。私、あの恐ろしい顔をした男を見て、悩ましいような不安な気持ちを持ったら、その度にあの袋は膨れていたようだもの」
「確かにそうだ。ちょっとでも疑問を感じたら、あの袋は膨れていた。代わりにハッピーな気持ちになって。それはいいことなんだけど、ずっとそうなったら、面倒なことは考えなくなってしまう。それじゃ、世の中は滅茶苦茶になってしまう。でしょう?」
明が横を向くと、先生は、金子さんに向かって手を振っていた。
「まずいよ。ヘビ男たちに見られてしまう」
「金子さんは、僕が中学の時にも、この学校にいたんだ。それで、担任の先生には話せないグチとかいろいろ聞いてくれた。成績のよくなかったテストを、こっそり焼却炉に入れても見なかった振りをしてくれた。そんな優しい人なのに、変な化け物に心を吸い取られるなんて悲しすぎる。金子さん、こっちを見て、正気に戻ってくれ」
と、焼却炉に袋を投げこんだばかりのヘビ男が振り返った。後ろに並んでいた連中もだ。探し物をしているように首を動かしている。
やがて、一人がこちらをまっすぐに見上げた。他の顔も一斉にこちらに向けられた。そのまま、袋を投げ込んだ順に、一列に並んで歩きはじめた。
「いけない、こっちにくる。彼らが気づいたのは、先生の願い事が原因だわ。絵馬を持っていなくても、姿を現しているヘビ男は、願い事をすればやってくるのだわ」
和子が言った。
しかし、願い事をしないなど、この場面では不可能だった。明も和子も心で叫んでいた。
『お願い、こっちにこないで』と。
「とにかく逃げよう」
明は言った。
「でも、どこに」
「あいつら、体育館がある西側の玄関に向かっている。だから東の階段から逃げるんだ。行くよっ、先生!」
言いながら、ぼうっとしている山田先生の尻をひっぱたいた。
教室から廊下に走り出た三人は東側に向かった。階段に差しかかった所で振り返ると、早くも西側の階段の降り口に、ヘビ男の黒い影が見えていた。歩いているようだが、実際は宙に浮いていて、床を滑るようにやってくる。
「急げ、和ちゃん、先生!」
明は、いつもは禁止されていること、階段の手摺りを滑り台のように降りた。和子も後に続いた。山田先生だけは一段ずつちょこまかと降りてくる。
「はやく!」
遅れをとる先生に怒鳴った。ほんの短い距離なのに喘ぎ始めた先生を後ろに玄関に向かった。だが、二人はつんのめるように止まった。
「こっちにもいる」
ヘビ男たちは東側からもやってきていたのだ。閉じられているドアガラスを突き抜けて入ってくる。三人は、今は黒い影の見えない廊下を西に走り、行きついた先のドアを強く押した。だが開かなかった。ドアには鍵がかかっていたのだ。
「ちくしょう、こんな時に」
金あみの入ったガラスドアは、内側からも外側からも鍵なしでは開かないようになっていた。西側の階段を登っていったヘビ男たちは、先ほど見たように、ドアを突き抜けて入ってきたのだ。廊下の向こうからは、二手からやってきたヘビ男たちが合流してやってくる。
「もう、逃げ場がないわ」
三人は、校舎の北側につきだした図書室にとびこんだ。
「ああっ」
再び三人は愕然とした。図書室は、入り口の他は、全て壁が本棚に埋まっていたのだ。窓といえば、天井にある半球状の明かりとりだけ。開閉はできそうもない。
「こっちだ!」
肩で息をしながら先生が叫んだ。山積みされている本を避けながら、図書カウンターの内側に回った。先生はカウンターの下の床を引き上げた。
「配管工事用の地下だ。外には出られないが、せめて隠れることはできる」
折り重なるように狭い空間に潜り込み、最後に先生がフタを閉めた。大小の配管がぐるりと周囲をおおっている。三人は身を寄せ合って座った。
「先生、明くん、姿は見えなくても、願い事をしちゃだめよ」
「けど、どうすればいい」
「羊だ。眠れない時みたいに羊を数えるんだ」
先生が言った。実際に眠れない時には、あまり役に立たない羊数えだが、今はそれぐらいしか方法はなかった。
三人は息を潜めた。
ドライアイスの煙のような冷気が、頭上から降りてきた。ヘビ男たちは図書室に入ってきたのだ。
…いない…
…いない…
…願いをもった人間は…
…この部屋に入ったはずだ…
ウシガエルのような低い声がビリビリと頭上の床を震わせた。
明は目をつぶりながら羊を数えた。が、どうしてもヘビ男の顔が浮かんでしまう。『どうせなら』と、奇怪なヘビ男の顔をした羊たちを数えていった。
『ヘビ男羊が、三十匹、三一匹、三二匹…』
床から響いてくるヘビ男たちの声が聞こえなくなった。薄目を開けると太い配管の曲がった所に、床を突き抜けて逆さまに出ているヘビ男の頭が見えた。
『お願いだ、こっちを見るな』
ああ、やってしまった。明の心の声が聞こえたとばかりに、ヘビ男の頭がゆっくりと回った。
…いた…
声と同時に、そこらじゅうの床下に逆さまに奇怪な顔が突き出てきた。
…願いを吐き出せ。考え事などするな。楽しい気持ちにひたれ…
近くにいたヘビ男が、赤い唇をひきつらせながら言い、床下に伸ばした灰色の袋の口を広げた。
「体は上だな。よし!」
決死の表情を浮かべた山田先生が、床のフタを開けて飛び出していった。すぐにも何かに衝突したらしく、激しい物音が続いた。
と、急に床下に突き出していた顔が消えていき、辺りは静まり返った。やがてフタの上から先生の声が聞こえた。
「お二人さん、もう大丈夫だ」
明たちは息をつきながら外に出ていった。図書の貸し出しカウンターの横で、先生が頭をさすりながらニタついていた。
「ヘビ男たちは?」
額に浮かんだ脂汗を拭いながら明は聞いた。
「よくわからないんだ。ヘビ男に頭突きをくらわそうと突っ込んでいったら、体を突き抜けて図書ケースに衝突さ。でもその途端、この近くにいた奴らが消えて残りは逃げていった。君たちを救いたいという僕の熱い心が、奴らを消し去ったんじゃないかな?」
先生は眉毛をつり上げて得意そうに言ったが、すぐに和子が首を振った。
「違うと思う。熱意なんてもので消える連中かしら」
「じゃあ、僕に聖なる力が宿ったとでもいうのかい」
明と和子は複雑な顔をしている先生を無視して、辺りを探った。
先生の力ではない。もちろん、二人が何かをしたわけではない。ヘビ男たちを消したものが図書室にあるのだ。あるいは理解不能な他の要因があるのか。
明は、図書室のドアを少し開けて外をのぞいた。廊下の窓のずっと先に焼却炉が見えている。ヘビ男たちはずいぶん数を減らしていた。
貸し出しカウンターに戻ったところで、和子が図書ケースの下を指さした。
「先生がやったことといったら、頭突きの反動で、この引き出しを開けたぐらいだわ」
「ひらたく言うと、そうなるね」
「ひらたく言うな」
先生がぼやいた。
明と和子は十冊ほどの本が入っている図書ケースをのぞきこんだ。護符みたいなものがあるかと思っていたが、本の他には何もなかった。本を手に取ってめくってみたが、それらしいものは挟まっていなかった。
「ということは、ここにある本そのものを考えてみなくては」
「悪魔を祓う時に、聖書を突きつける映画があった。そんな感じだね」
それらしい本を探した。
どの本の背表紙にも、番号の書かれたシールは張られていなかった。図書ケースに入っていたのは、購入したてで、まだ学校図書に登録されていない本だった。
動物や植物の図鑑が三冊あり、他はハードカバーの海外ファンタジーと日本の歴史の書かれた文庫本だった。
「もしかしたら、これかな」
明が目をつけたのはファンタジーの本だった。詳しくはわからないが、挿絵に
「これって全くの創作物よ。書いた人も、聖職者とかでないし」
和子が手に取ってみたが、どうもしっくりしないようだ。
「例えば、こんなのはどうかしら」
言葉を濁して和子が手に取ってみせたのは植物図鑑だった。さっと開いたページで指さしたのはショウブの草。それがどうしたのとばかりに、明は首を傾げた。
「五月五日に
先生が首を突っ込んできた。
「うん、確か幼稚園生の時、近くの銭湯に菖蒲湯に浸かりに行った」
「ショウブの葉には独特の香りがある。それで昔から魔を払う力があると言われてきたんだ。
「その話知ってるわ、喰わず女房。けちな男と結婚した食事をとらない女が、実は山姥だったっていう」
はっきりとは覚えてはいないが、明も聞いたことのある話だった。なるほど、説明されればヘビ男を追い払ったのは植物図鑑のように思えてきた。
「どうもその本っぽいね。もしかして、ヘビ男は山姥と関係してるのかな」
「そんなに答えを急がないで。一つの思いつきにすぎないわ。決め手になるものがないもの。もしかしたら、歴史の書かれた文庫本かもしれないし」
せっかく賛成したのに、和子の言葉はがっくりきた。やはり明はじっくりと物事を考えるのは苦手なようだ。
「和子、生徒会で集めたのは、どんな本でもよかったのかい。もともと図書集めは、絵馬を配った校長からの発案だ。何か手がかりになりそうなことはないかな」
先生はカウンターの横に山積みされている本を指さした。生徒会が各家庭から集めてきた不要になった本の山だ。
「それなんだけど、校長先生は特にどの種類がいいとは言わなかったわ。本といえるものなら何でもよ。でも、おかしいわ」
何かに気づいたらしく、和子は念入りに山積みの本を上から下までながめた。
「どうしたの」
「集めた本の中に日本神話の絵本があったの。それがなくなっているわ」
「日本神話か。ちょっと待てよ」
先生は西側の隅の本棚に行った。腰をかがめて幾つかの本を調べ始めた。和子はまだ日本神話の本があったはずと、本の山を念入りに探した。
明は図書ケースに残っていた日本の歴史の文庫本をペラペラとめくった。
「こっちに来てごらん」
先生が呼んだ。「日本の古典」とラベルの貼られた本棚の前にいる。その本棚の一部が隙間を空けていた。
「問題は、ここに何の本があったかだ」
明はふと、手に持っていた本を見つめた。開いたページには、大蛇と戦う神様の絵が描かれていた。胸の内でしっくりと感じるものがあった。
「この文庫本に、古事記と日本書紀の神話が紹介されてる。もしかしたら、神話の中でも、このスサノオという神様の書かれた部分が、あいつらを追い払ったんだんじゃないかな?」
「ほう、スサノオか。ちょっと待てよ、もう一回、確認するからな」
先生は頷きながら、またカウンターの前に戻り、図書の貸し出しカードを調べ始めた。
、
「ねえ、和ちゃん、スサノオって知ってる?」
「ええ、もちろん。スサノオノミコトという日本の有名な神様の一人よ。大変な暴れん坊で、姉のアマテラスが怒って、神の住む世界から地上に追放されてしまった。それで旅の途中、頭が八つもあるヤマタノオロチという大蛇を退治して、生贄にされそうになっていたお姫様を助けたんだわ。その後、大蛇の尾からは、美しい剣がでてきて、それをアメノムラクモの剣と名づけて、迷惑をかけたアマテラスに献上したのよ。その剣は、天皇家の三種の神器の一つになったとも言われているわ」
「和ちゃん、すごいや」
明は、背中を向けながら話す和子にお世辞でもなく言った。ヤマタノオロチの八つある頭に、それぞれ酒を飲ませて退治したことは知っていたが、その後のことは、よく知らなかった。
「たいしたことではないわ」
和子は振り返りながら言い、明のもった本をじっと見つめた。
「絵本だけでなく、日本神話がのっていそうな本もここにはないわ」
図書カードを調べ終わった山田先生は、どこかの棚に間違って入ってはいないかと探していたが、首を振りながら戻ってきた。
「スサノオが関係する本はどこにもない。カードを見た限り、貸し出しされているわけではない。それに世界の英雄伝説とか、違う視点から絞り込んでみたが、そのどれもがなかった。国づくりと動物に関する神話はあったから、イザナギとイザナミ、オオクニヌシの登場する本が関係しているわけではない」
「やはり、あいつらを追い払ったのは、スサノオについて書かれたこの本。じゃあ、集めた本から、スサノオの登場する本を抜き取ったのは校長?」
「疑いたくはないがな。和子たちが、生徒会の部屋で休んでいる頃、校長は用があるといって会議を抜け出して、そのまま帰ってこなかった。多分ここで本を抜き取っていたんだ」
「ひどいわ、そんなことのために生徒会を利用したなんて」
和子は怒るというより、悲しそうに肩を落とした。
明もショックだった。
校長は、生徒たち皆に平等で、いろいろと気を遣ってくれていたのだ。先日の恥ずかしいシュート練習の時も、わざわざ校庭まで出てきてキーパー役をしてくれたりした。廊下ですれ違えば、気軽に声をかけてくれていた。なのに、あのヘビ男たちの仲間だなんて…
山田先生も肩を落とした。
少しして先生がぼそりと言った。
「しかし何故だろう。なぜ、ヘビ男たちはスサノオの本で消えたんだ…」
和子が顔を上げた。
「間に吹く風は言っていたわ。闇の世界から、こちらに入りこんできた者が大きくなっている。その
「じゃあ、特別な闇の者というのは、ヤマタノオロチってこと?」
自分で言いながら明は首を傾げた。
スサノオという人物は、遥か昔に実在していたかもしれない。だが、八つの頭をもつ怪物を退治したなんて話は、到底信じられることではない。
『でも…間に吹く風がしゃべってから、これまでのことはどうだ。ありえないことが、次々と起こっている。では、ヘビ男たちに協力している校長は?スサノオの登場する本に触れても平気なんて。ただ利用されているだけなのか…』
頭が混乱した。和子も同様、黒い瞳で遠い所を見つめている。
「確かに、
二人の気持ちを察したように先生が言った。
「しかし世の中には、天使とか霊とかが見えるという人もいる。科学者は否定するが、問題が起こったら、それらと語ったり戦ったりもする。
まだはっきりとは言えないが、僕らは間を吹く風の声を聞き、おかしなものが見えるようになってしまった。他の人には見えなくても、僕らの前ではヤマタノオロチが実在してもおかしくない」
先生の言葉は力に満ちていた。いつも頼りなく見えていた先生が、このときばかりは、生徒を導く本物の大人のように見えた。
「平安時代の
和子は大きく頷きながら言った。
明も納得できた気がした。
「うん、だけどだよ、実際にヤマタノオロチが登場したら…」
闇から来たものを追い払う方法は二つ…そのものに当たるこちらの世界の風を強めること。または、滅びゆく命を、その身に植え付けること…間に吹く風は言っていた。
「ヤマタノオロチを追い払う方法は、退治されたというこちらの世界の出来事を突き付けるという事なのかも知れない。その出来事をなかった事にする為に、ヤマタノオロチは本を集めて捨て去ろうとしているのかも知れない。さて、どうだろう」
先生は自信なさそうに言った。明も和子も曖昧に頷いた。
いつの間にか、天井の明かり取りから射し込む光は弱まっていた。壁の時計はすでに五時をまわっていた。
「先生、これからどうしたらいい?ここに居続けるけにはいかないよ」
明は聞いた。
「そうだな。もう、君たちは家に帰らなくては。とりあえず、あのヘビ男から守ってくれる本は一冊あるし、それを持って僕のアパートまで行こう。確かスサノオの登場する本が、二冊ぐらいはあったと思うんだ。君たちの家にもあるなら別に必要はないが」
二人は首を振った。先生が胸を叩いた。
「じゃあ決まりだ。僕の愛車に乗せてもらえるなんて、君たちは幸せ者だよ」
「え、あのポンコツで?」
「こら、マイ・スペシャル・カーに、失礼なことを言うな」
先生が明の頭を小突き、和子がかわいらしく笑った。
本を持った先生を先頭に、三人は図書室を出た。先ほど見たとおり窓の向こうに広がる校庭には、ヘビ男はちらほらとしかいなかった。途中、用務員室に立ち寄ったが、もう帰宅したのか、金子さんの姿はなかった。
校舎の裏の駐車場に、傷だらけであちこち凹んだセダンタイプの白い車が、ぽつんと停まっていた。先生が後ろのドアを開くと、トランクの蓋がカパカパと揺れた。明と和子は渋い顔を見合わせながら乗り込んだ。
「さあ、帰ろう」
エンジンをやたらふかしながら、車はがくがくと走りだした。
途中の道々で、三人は数え切れないほどの黒くぼやけるヘビ男を見かけた。袋を手に持って町中を滑るように歩いている。膨れた袋を持っている者は、何処か同じ方向に向かっている。
「袋を燃やす場所は、学校の焼却炉以外にもあるのね」
和子が言った。
「いったい、あいつらの目的は何なんだ?(知りたい)」
願いを含んだ明のつぶやきに気づいたのか、車の近くにヘビ男が近づいてきた。先生がダッシュボードに置かれた本を片手で掴んでぱらつかせると、野菜がしぼむ映像を早送りしたように、ヘビ男は縮んで消えていった。
「スサノオの登場する本はヘビ男を追い払う」
まだ百パーセントとは言えないが、やはり、三人が考えたことは正しかったようだ。
町の人たちの表情は皆明るかった。時折、難しそうな表情をしている人も見かけたが、ヘビ男が近づいて袋を向けると、にこやかな笑いを浮かべた。奇怪な男たちがうごめく街の中で、人々は悲しいほどに不釣り合いな笑顔を浮かべていた。
「皆、愉快な心に満ちているんだ。悩ましいことを忘れて」
「見て!」
和子が道沿いに建つ交番を指さした。
机の上に乗った警察官がスマホを片手に持って踊っていた。その隣の雑貨屋では、店員が店の前で座り込んでジュースを飲んでいた。
「町の人たちは働くことをやめてしまった。余計な事を考えなくなってしまったんだ」
先生がつぶやいた。救いといえば、急ぐ用はないとばかりに、行き交う車がのんびり走っていたことだ。信号無視が相次いでいたが、事故はまだ見かけていなかった。
広大な大学のキャンパスを過ぎて間もなく、金属をこすり合わせるようなブレーキ音をたてて車は止まった。今どき珍しい木造のアパートの前だった。
山田先生が振り返った。
「さあ、わが家だ。学生時代から住んでいるから一〇年ぐらいになるな。大学が近いだろう。安い食堂や店が近くにあって便利なんだ」
言いながら先生は一階の奧のドアを引いた。玄関をのぞき込んだ二人はうめいた。
「まあ!」
「僕の部屋もひどいけど、こいつは」
玄関からすぐにはじまるワンルームの部屋には、そこら中に紐がかけられ、よれよれの洗濯物がぶら下がっていた。ベッドの周りは、本やらゴミやら、得体の知れないもので一杯だ。
二人は靴も脱がずに立っていた。部屋に上がろうにも、どこを歩いてよいかわからなかったし、時々、壁の隅を走る黒い虫にも近寄りたくなかった。
「ここで見たことは絶対に内緒だぞ。なにせ僕はスマートな山田先生で通っているからね。上がりたくなかったら、そこで待っておいで」
二人は返事もせずに後ろを向いていた。ばさりと本が崩れる音、紙袋やビニールを踏み付ける音がしばらく続いて、やがて、
「ほれほれ、見つけたぞ」
楽しげな声とともに、先生が二人の肩を叩いた。
振り返れば、先生の手には二冊の本が乗っていた。一冊は分厚い辞書みたいな本、もう一冊は、図書館の本と同様、小さな文庫本だった。それぞれ[世界神話辞典]、[古事記・日本書紀]と題が書かれている。
「さあ、どっちがいい。大人向けの本だから難しいかもしれないけど、お守り代わりの本だから関係ないよな」
突き出された本に、二人は思わずのけぞった。別にどっちでもよいのだが、この部屋から掘り出されたのかと思うと、どちらも触りたくなかった。
「遠慮するなよ」
「私、図書室の本でいいわ」
まずいものを食べたように口を曲げた和子は、げた箱に置かれた本を手に取った。
「和ちゃん、ずるい」
しかたなく、明は、持ち運びに便利そうな文庫本に手を伸ばした。
「これで準備完了。家に送っていくとしよう」
「スサノオの登場するページを開いておいたほうがいいわね」
三人はまたポンコツ車に乗り込んだ。
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