第2話 話す-へのへのもへじ-
『なんだか、のんびり…』
三階の窓からのぞく雲一つない青空が、やたらに眩しい。夕べ遅くまでしていたゲームが、だいぶ
どこからか鳥たちのさえずりが聞こえ、風がそよそよと頬をなでている。前で話している先生の声は、意味のない平仮名が飛び交っているようで全く頭に入ってこない。黒板の上の時計はじれったいほどゆっくり進んでいる。
今、南川中学の三年A組の教室では、六時間目の数学の授業のまっ最中だった。担任の若い男の山田先生が大きな定規をもって、関数の曲線を黒板に書いている。ひょろりと痩せた体は、薄緑色のジャージを着ていて、まるで柳の木が奇妙なダンスをしているようだ。
先週、体育祭が終わり、高校受験に向けての仕上げの授業が始まっていた。
夏の陸上大会で県大会入賞をはたした明は、徒競走や学級対抗リレーやらで校内のヒーローのように大活躍した。でも、その後は自分を発揮する場所をなくして腑抜け状態になっていた。まるで中学三年分の気力と体力を使い果たしてしまったようだ。
本格的な勉強が始まる前に、少しは休み期間があってもよいようなものだが、学校はそんなことにはお構いなしだ。
『なんで、そんなに切りかえが早いの』
窓際から教室を見渡せば、皆カリカリと板書をしている。一ヶ月後に進路の決定に影響する学力試験があるのだから、わからないでもないが、結局は受かる所にしか受からないのにと、明には全く実感が沸かなかった。
『
一列とばした斜め前の
身長一六八センチの明より、ずっと小柄な和子だが、背筋を伸ばして黒板を見つめる姿は、いつも
和子を見ていると、ぼんやりした気持ちも何処かにすっ飛んでいきそうだ。いや、かえってぼんやりしてしまうのかもしれないが…
『どこの高校に行くんだろう。僕とは違うんだろうな…』
少し寂しい思いが横切った。
『ちがうよ、ちがう!』
慌てて前を向いた。明が軽い溜息をついた時に、和子がちらりと振り返ったのだ。眉毛をぴくりと上げて首を傾げ、また黒板を見た。
『別に和ちゃんを見ていたわけじゃないよ。壁の掲示板を見ていただけさ』
誰かに指摘されたわけではないが、心の中で言い訳が繰り返された。
明は目を閉じて大きく息を吸った。
『大したことじゃない。意識しすぎってやつだ』
頭はすっきりと冴えたが、居心地が悪かった。
『こんな時には、そうだ』
明は目を見開いて机の上の三角定規を手に取った。授業に耳を傾ける気にはならないが、何かしなければ落ちつかない。しっかり定規を押さえて線を引き始めた。目盛りを合わせて、ずいずいと線を引く。最後にコンパスをぐるりと回して、僅かに開いた隙間に短い線を二本いれた。
『うむ、我ながら、いい出来映え』
気を散らすように一人悦に入って、完成した作品を眺めた。と、隣に人の気配がした。慌てて閉じようとしたノートに「待った」とばかりに手が置かれた。
「明、今日の授業はコンパスは使っていないが…」
山田先生だった。慌ててノートに両手を置いたが、あっさり引っ張り出されてしまった。
「ほう、いい出来じゃないか。こんなにすっぱりしたのは見たことがない!」
皆に見せるようにノートを高く掲げた。
明が描いていたのは、誰もが知っている顔[へのへのもへじ]だった。ぶぶっと吹きだす声が教室のあちこちから聞こえた。
『三年のこの時期に、しょうもないことに熱心に取り組んでいた僕…』
明は、我ながら自分が情けなくなった。
「さてと」
先生の声に、ざわついていた教室が静まり返った。三〇人あまりの視線が先生に注がれている。
山田先生は、余計なことをしでかした生徒には、居残りをさせて何かをさせる。つい一週間前は、廊下の壁にサッカーボールを蹴り当てているのが見つかり、放課後、一、二年のサッカー部員と一時間もシュートの練習をさせられた。
自由に遊んでいる時と違い、無理にやらされるのは疲れるばかりだ。おまけに、校庭にいる後輩たちからは奇妙な目で見られるし…シュートのコツは少し掴んだが、二度と廊下でボール蹴りをしようとは思わなくなった。
「明、放課後に、これと全く同じものを五〇回描きなさい!」
えらく丁寧にノートを返しながら先生は言った。祝福の拍手が教室に溢れた。
『ああー、和ちゃんまで喜んでいる』
明の長い溜息とともに、時計が急にとっとこ動きだした。チャイムが鳴って、短い終礼をして皆は家に帰っていった。
というわけで、明は教室に一人残っていた。
校庭からは下級生たちの部活の掛け声は聞こえてこない。今日は放課後に先生たちの会議がある木曜日、ノー・クラブディだった。
顔を上げれば、先生の机にぶら下がったイルカのモビールが揺れている。黒板の上で時計の秒針が音もなく回っている。後ろの壁では、書道の授業で書いた「希望」という文字が、カサカサと風になびいている。
明を除いて動いているものは、それくらいだった。
人気がない所で興味のないことに集中するのは難しい。やり遂げたところで何の意味もない場合には尚更だ。油断をすると、手が止まって瞼が自然に閉じていってしまう。
「普通、中学生にこんなことやらすかよ」
ぼやきながらも、妙な課題を拒めなかった自分が悔しかった。教育者らしい威厳はないけど、憎めない性格の山田先生、それに拍手をした皆の手前もあった。
『まあ、しょうもないことをやり遂げるというのは話のネタになる。レベルは小学生の時に砂を食べて自慢していたのと同じだけど…』
こめかみに両手の親指をぐりぐりとねじ込んで気合いを入れた。
それにしても、線をきっちり引くのは大変だった。定規はよしとしてもコンパスはやっかいだ。力加減を間違えると、すぐに開いてしまう。おまけに金属の角にあたる皮ふが、ひりひりと痛んでくる。
『けど、設計事務所で働いている父さんは、毎日、こんなことをやってるんだよな』
帰宅して、一気にビールを飲み干す気持ちも、わからなくはなかった。
「あと十五回、ようし!」
何とか終わりが見えてきた。もうひと踏んばりという所で、がやがやと声が聞こえた。外を見れば、野球フェンスの後ろから、五、六人の生徒が学校に戻ってくるところだった。本が山積みになったリアカーを引いている。
生徒会の役員たちだ。学校新聞に書いてあった。校長の提案で、図書館のない町に本を寄付することになり、役員が町を回り、読まなくなった本を集めにいったのだ。中には、和子の姿もあった。
『和ちゃん、生徒会の書記をしていたんだっけ。でも、三年なのに参加するなんてすごいや』
振り返れば、荷物置き場には自分のと、もう一つ通学かばんがあった。和子はやがて教室に戻ってくる。ついでに、一緒に教室を出ることになるかもしれない。そしたら何を話そう…。
「いかん!また、よけいなことを」
明は頬を叩いて雑念を払い、作業を再開した。それから二〇分ほどかかって、やっと五〇回書き終えた。
「ひいー、やれやれと」
こわばった指を引っ張って回した。
それにしても、たくさん書いたものだ。買い替えたばかりのノートが残り僅かとなってしまった。すぐにも新しいノートを買わなくてはならないが、古いのは親には見せられない。なけなしの小遣いが、また減ってしまう羽目になった。明は唇を尖らせてページをめくった。
『おっ。これって!』
ちょっとした感動ものだった。
皆、同じに書いたつもりだが、へのへのもへじの顔は少しずつ違っていた。指の腹に引っかけてパラパラめくれば、アニメーションのように顔が動いて見える。口のへの字も、なにかしゃべりたそうにムズムズ動いている。
「やあ、こんにちは」
誰もいないのをよいことに、明はへのへのもへじに話しかけた。
…わしは…かぜ…
息が漏れるような声がした。ノートを閉じて教室を見回したが誰もいない。
『まさか、こいつが?』
首を捻りながら今度はゆっくりとめくった。
…わしは間に吹く風…
一音ずつ区切ったような声だったが、はっきりと聞こえた。さらにもう一度、
…問いがあるなら、答えよう…
へのへのもへじの書かれた紙切れ、一枚一枚が、細かく震え、声となって聞こえていた。
「な、なんなんだよ!」
よくファンタジー映画で壁にかかった肖像画がしゃべる場面がある。それはそれで面白いが、実際、そんなものを目の当たりにしたら面白いどころではない。全身に鳥肌が立った。
ノートを机の上に投げ出して、席を立った。
丁度その時、教室のドアが開いた。明の様子を見にきた山田先生と、生徒会の仕事を終えた和子だった。ぎょっとした表情でたたずむ明に、二人とも戸惑っている様子だ。
「どうしたの?お化けでも見たみたい」
緊張をほぐそうと、和子が明るく聞いた。
「これ…」
なんて説明していいかわからなかった。明は机の上のノートを突き刺すように指さした。
「毛虫か何か?」
「さては、何か企んでいるな」
ニタリと笑った先生が、いたずらの仕掛けでも隠してあるかとばかり、教室のあちこちに視線を走らせながら近づいてきた。和子は、明の表情を信じてくれたらしい。手に持っていた小さな紙袋を教壇に置いて、真面目な顔をしてやってきた。
「何もないじゃないか、明」
期待がはずれたことに、がっかりしたように先生が言った。
…ふたたび聞く。問いはないか…
またノートが話した。窓から吹き込んだ風に、ページがペラペラとめくれたのだ。
「ウワゥオーー!」
猿の鳴き声のような声を出して先生が後ろに転び、机が二つ倒れた。腰をさすりながら起き上がった先生は、顔を歪ませて明を睨みつけた。
「いたずらも、たいがいにしろよ。学校にスマホとか、持ち込んではいけないことになっているだろう」
やはり、いたずらだと思ったらしい。
「違うよ。ノートのページがめくれるとしゃべるんだ」
「そんなこと、あるわけないだろ」
「あるんだって…」
「確かめてみれば、わかることよ」
じれったいやり取りが和子を机に近づけた。まるで噛みついてくるものがあるかのように、さっと腕を伸ばし、ノートを手に取った。閉じたまま軽く振ってみたが声は出てこない。
「何も挟んでないみたいだけど。じゃ、めくってみるわね」
和子は肘をまっすぐに伸ばして、上に向けてパラパラとめくった。
…問いはないか。問いかける者がいないなら、ここを立ち去ろう…
声が飛び出した。ノートはバイブレータのように震えていたはずだが、和子は手放さなかった。まっすぐに明を見つめて頷いた。
「いたずらなんかじゃない。声は質問をしろって言っていたわ、先生?」
和子は、ノートに問いかけてくれとばかりに視線を投げたが、当の先生は、いやいやをするように首を振った。
「和子、そいつは、本物のこっくりさんみたいなやつかもしれないぞ。質問したら、帰ってくれなくなってしまうかもしれない」
「本物なら、なおさら聞いてみなくては。チャンスは逃すなって、いつも先生言っているくせに。いいわ、私が聞く。明くんもいいわね」
男のプライドというものは置いといて、明は、どうぞとばかりに頷いた。先生も下唇を突き出しながら頷いた。
「えーと、へのへのもへじさんでいいのかしら。いつでもこうしたら、あなたとお話しできるの?」
さすがに、和子の声は緊張したように少しうわずっていた。
…わしは間に吹く風。名前はない。世界の【間】に風が吹く時、わしは口を開く。物事の【間】を介して話をする…
表情は硬いままだったが、和子は納得したように笑みを浮かべた。
「ものごとの間…。そうだわ、へのへのもへじって、文字と絵の間にあるものだものね。すごいわ。明くんもやってみたら」
明は、和子の行動に呆気に取られていたが、差し出されたノートをそろりと握った。
まったく奇妙なことだが、呪いだの心霊現象が関わるような、おどろおどろしい雰囲気ではない。暗くなりかけた教室に、夕方間近ののどかな風が吹いているぐらいだ。
それに和子が勧めてくれている。いつまでも、うじうじと怖がっているなどできない。
「がんばって!」
和子が黒い目をくりっと見開いた。
「全然、平気さ」
明は、再びぷつぷつと鳥肌が立ちそうになるのをこらえて、ノートをめくった。
「き、君は、世界の間に風が吹く時に話をするって言っていたけど。よくわからないよ。どういうこと?」
「いいわ、その調子」
隣で和子が囁いた。
…世界は三つ。一つは光に溢れた世界、一つはこの世界。一つは黒い闇の世界…
声が途切れかかるたびに、最初からページをめくりなおした。
…今、闇の世界に浮遊していたものが、この世界に入り込み、大きくなりつつある。それにより三つの世界の均衡が崩れた。そして世界の間に風が吹いた。風の強さが適度なほんのひと時、わしは言葉を発す。それより強く、あるいは弱くても、わしは話すことをやめる。ちょうど笛の調べと同じように…
ノートをめくるスピードが早いせいか、とびだす声も早口になっていた。
「闇の世界に浮遊していたもの?」
チンプンカンプンだった。明は首を傾げて手を止めた。
「明、続きだ、続き!」
先生がノートの横に顔を突っ込んできた。
「さっき、腰を抜かしていたくせに」
ぶつくさ言いながら、明はまたノートをペラペラとさせた。
…闇の世界に属する闇のもの、その種類は数知れない。この世界に常にいるのは小さなもの。力もなく、ただ漂うばかり。だがしかし、今、大きくなりつつあるものは特別なもの。かつてこの世界で、命の形をもち、闇の世界に追い払われたもの。
「その特別なものって何。何かをするの?」
…それはわからない。言えることは、この世界にとって、闇に追い払う必要があったもの…
ページをめくる明の手が止まりかけた。何かとてつもないことが起こっている。ノートの中の顔はそう言っているのだ。
「そのまま続けるんだ」
そう言った先生の顔は真剣だった。和子の笑顔も消えている。
「それで、僕らはどうしたらいいの?」
明は聞いた。
…わしの声を聞いた者には、その目と耳に風の穴が開いた。それにより、闇の世界と光の世界のものが見え、声が聞こえるようになった。どうすればよいかは、そちらが考えること。間を吹く風に、すべきことを伝える役割はない…
「信じられないことだが、これは夢ではない。そして僕らは大切な役割を担おうとしている。明、ノートを貸してくれ」
山田先生がむんずと手を伸ばした。発せられたメッセージに恐怖感は消し飛んでしまったようだ。
「えー、君が言った、この世界で大きくなっているものは、どうすれば再び闇の世界に追い払うことができるんだい」
…闇のものを闇に返す方法は二つ。そのものに当たるこの世界の風を強めること。または滅びゆく命をその身に植え付け、闇の吸引力を強めること…
「しかし、」
先生は口を開きかけ、そのまま黙ってしまった。具体的な手掛かりのない曖昧な答えに、次に何を聞いてよいものか思い付かなくなってしまったのだ。和子でさえも首を捻っている。
…他に問いはあるか、あるなら答えよう…
先生のページをめくる手だけが動いている。
そのスピードは変わらないが、声は徐々に高くなっていった。
説明された通り、笛と同じなのだ。へのへのもへじの描かれたノートは、世界を繋ぐ門になっている。世界の間に吹く風が強くなっていて声が高くなっているのだ。ということは、今も、闇の世界からきた特別なものが大きくなっているということ。しかし、何が起こっているのか…
ノートの声は、開いた窓に吹きこむ風の音のように掠れていき、やがて何も聞こえなくなった。
「でも、もしかしたら大丈夫かも」
和子がぼそりと言った。そして先ほど教壇においた紙袋をとってきた。
「私、生徒会の仕事で本を集めていたでしょう。それでね、本を出してくれた人に、お礼に、紙の絵馬を渡していたの。校長先生から預かったのだけど、それは本当に凄い力をもっているんだって。願い事をすると何でも叶うらしいわ。困ったときの神頼みというけど。こういう得体の知れない事には、ぴったりかも知れないわ」
言いながら、袋に手を入れて一枚の紙切れを取り出した。
「ほら、これよ」
それは、一五センチほどの大きさの家の形をした紙だった。黒い紙に赤い噴水が描かれている。裏には何も書かれていない。ただまっ黒である。
「なんだか薄気味悪いな」
明は絵馬をじろりと睨みつけた。普通は、表に十二支やらの絵が描いてあって、裏は願い事を書くために白く開けているはずだ。
「確かになあ。けど和子の言う通り、この件には、神頼みというものがぴったりくる気もする。何か物事が起こると、それに対応することが同時に起こるというが、そういうことなのかもしれない。だけど、校長が絵馬を勧めているなんて、初耳だ」
「校長先生は言っていたわ。何も書かなくていいんだって。ただ、赤い噴水に願いごとをすればいいのよ。いい、やってみるわよ」
和子は、黒い絵馬を高く掲げた。
「お願いします。大きくなってきている闇のものを、消し去って下さい」
すると、
…その願い、叶えてしんぜよう…
絵馬に描かれた赤い噴水が小さく揺れ、中から、風の唸りのような声が聞こえてきた。
「絵馬まで、話をするなんて!」
三人は息が止まるほどに驚いたが、すぐにも気持ちは落ち着いてきた。目の前に、明るい光がちらちらと走り、どこからか陽気な音楽が聞こえ始めたのだ。
「すばらしい絵馬だ」
先生が手を叩いた。
「ほらね、すごいでしょう」
和子も楽しそうに微笑んだ。明もそうだった。
「闇のものだって?そんなもの いるわけないさ。馬鹿らしい」
言いながら首をふった時、奇妙なものが見えた。
灰色の袋を持った人が、すぐ隣に立っていたのだ。もやもやとした黒い煙のようなものを身にまとったその人の顔は、緑色の
まるでヘビの化身のようだった。性別はわからないが、女性らしい柔らかさは感じられない。ヘビ男。そんな呼び方がふさわしい。
そのヘビ男は、三人に向けて灰色の袋の口を開いた。袋は何かを吸い込んで、少しずつ膨らんでいく。ヘビ男の真っ赤な唇は、にやにやと笑っている。
『変な気持ち…』
明は思った。
すごく奇怪なものを目の前に見ていて、心のどこかでは「用心しろ!」と叫んでいる。なのに、「そんなの放っておけばいい」という明るい気持ちに満ちていたのだ。
先生も和子も、ヘビ男に気づいているようだった。しかし、明と同様に微笑みを浮かべたまま動こうとしない。
ノートを丸めて握っていた先生の手が緩み、明の足元にバサリと落ちた。ほんの一瞬、心に流れていた陽気な音楽が消えた。
「だめだ!」
明は和子の手に飛びついた。絵馬を奪い取るなり、ビリビリと破った。途端、夢でも見ていたかのようにヘビ男は消えていた。
我に返った先生と和子は、あちこち探すように首を回している
「今のは何だったんだ。すごく楽しくなったと思ったら、隣にヘビの頭をした男がいた。違和感があるのに、嫌な感じはしなかった」
「私もよ」
「和ちゃん、絵馬ってまだある?」
明は聞いた。
「あるわよ。でもどうして。まさかもう一度?」
「うん」
今の幻覚は、奇妙な絵馬が引き起こしたものに違いない。だが、一度だけでは確証がなかった。
和子がノートに問いかけた時と違い、今度は明がやろうとしているからか、先生も「うん、いけ!」とばかりに頷いている。小気味いいほどに、気持ちがわかりやすい。
「そう。もう一回、願いごとをするんだ」
明の胸の内で、チャンネルが切り変わったようだった。
よく考えてから行動するのは苦手だが、「それだ!」と思ってからの明の行動は早かった。それは、先生や親からのお小言の種でもあるのだが、こんな場面では長所だった。
明は、和子のもつ袋に手を入れ、紙の絵馬を取り出した。
『お願いごとを聞いてください』
話す前に頭で考えてみた。
途端、また光と音楽を感じて、灰色の袋を構えたヘビ男がゆらゆらと現れた。愉快な気分が襲ってくる前に絵馬を破った。ヘビ男は消えた。
「まちがいない。声に出さなくても絵馬に願い事をすると、気持ちがおかしくなって、ヘビ男が現れるんだ」
「ちょっと待てよ」
破り捨てられた絵馬を拾った山田先生は、それをじっくりと見つめて、合わせたり鼻先に当てたりした。
「破った絵馬には願い事をしても何も起きない。デザインや臭いに幻覚を生みだす効果はなさそうだ。いったいこの絵馬は、どうやって僕らに催眠をかけているんだ」
「たとえ催眠であっても、三人が同じ幻覚を見るなんてことがあるかしら」
腕を組む山田先生に、和子が続いた。
「あのヘビ男は幻覚なんかじゃない。きっと闇のもので、絵馬に願い事をすると姿を現すんだ。間に吹く風は言っていた。あの声を聞いた者には、闇の世界のものが見えるって。あのヘビ男の姿が見えなかったら、違和感はなくて、ただ、楽しい気持ちに浸っていた」
明の言葉に、躊躇しながらも先生が続けた。
「おそらく、そうだ。しかし、絵馬を破いただけで消えてしまうなんて。今、見えたヘビ男は、元々、この世界にいるという小者ということか。ということは、闇の世界からやって来たボスキャラが何処かにいて、そいつから力を得て動き始めたということか…」
「私、」
頷き合う明と先生の横で、和子はしょげたように下を向いた。
「本の回収と引き換えに、五十人以上の人に絵馬を渡してしまったわ。家族の数だけ、サービスもしてしまった」
「和ちゃんが悪いわけではないよ。何も知らなかったのだから」
「しかし、あの絵馬は校長から預かったのだろう?」
先生が聞いた。
「ええ、そう。でも、校長先生は悪いことを考えているようには見えなかった。確かに熱が入りすぎている感じはあったけど」
和子の話を聞きながら、明は床に落ちたノートを拾ってペラペラとめくった。
絵馬のことやヘビ男のことを聞きたかったが、もはや声は出てこなかった。
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