雨と礼賛
真白涙
雨と礼賛
とあるところに村人は全員合わせても百にも満たない小さな村があった。小さいながらも村人たちは力を合わせて自然と共存して生きてきた村だった。
その山村はひどく廃れていた。村にあった緑は全て枯れ、ひび割れた大地が遠くからでもよく見えた。
前回の冬はなんとか持ち越したが次の冬は越せそうにない。このままでは村人全員が死んでしまう。
誰も口に出さないが誰しもその危機感を持っていた。
ある時、ついに食料を巡って村人同士で争いが起きた。どちらも命に別状はなかったが、仲が良かった村だけに争いが起きた衝撃は大きかった。
誰かが言った。
「このままじゃ村はお終いだ。雨だ、今雨が降れば秋の収穫には間に合う」
「そんなのわかっている。けれどもう神様に捧げるものがないだろう」
山頂には長年の雨風に晒されて崩れかけた神社ある。崇拝され、それ以上に恐れられている神様がいた。
強大な力を持つ神様が村人から恐れられる理由。それは偉大過ぎて恐ろしく、醜い顔を隠すように包帯を巻きつけた風貌からだった。
神様にお願い事をするのならばその対価を差し出さなければいけない。
村人全員が冬を越せるくらいの作物を願うのなら其れ相応の対価が必要だ。上等な酒や絹織物でも釣り合わない。何より神様に捧げられるような代物なんて村に残っちゃいない。
誰も生贄なんてなりたくない。家族を差し出したくないのは分かりきっていることだった。
ただでさえ生贄になるのは嫌なのにあの恐ろしい神様の生贄なんてもっての外だ。村人全員がそう思っているのは明白だった。
囲炉裏の中で炭が小さく爆ぜる。隙間風がひゅっと吹き抜けて炎が揺れた。
ふと、頬が痩けた村人が呟いた。
「あいつがいるじゃねぇか」
他の村人がそろりと顔を上げる。
「モクのやつがいるじゃねぇか」
その言葉に隣の村人が身を乗り出す。
「そうだ、あいつには家族がいねぇ。それに眼の病気があるどうせ長くは生きられねぇ」
「これまで身寄りのないあいつの面倒を村みんなで見てきてやったじゃねぇか」
「そうだ、その恩を返してもらって当然だよな」
それまで無口だったのが嘘のようにそうだそうだと口を開く。
生贄に捧げるのはモクにしよう。その結論に異論を唱える村人は誰一人としていなかった。
その死刑宣告は泣きたくなるほど鮮やかな青空の下で行われた。
「というわけだ、モク。村のために生贄になってくれないか?」
モクは生まれつき目が悪い。加えて体も細い。畑仕事も読み書きもできない彼は幾度となく練習して感覚的に覚えた草履編みでなんとか仕事にありついて村の一員として認められている状態だった。
モクは父も母も他界している。兄弟もいない。正真正銘天涯孤独の身だった。
「雨が降らないとこの村はおしまいだ。どれだけ祈っても雲が掛かる気配すらない。そこで神に生贄を捧げることになったんだ」
モクと呼ばれた少年は静かに目を開いた。白く透き通った瞳が薄い瞼から姿を表す。その視線は長老らに向けられる。
白いのは瞳だけではない。髪も肌も透き通るような白さをしている。長年のひどい日照りのせいでこの村の誰しもが浅黒い肌をしているというのにモクだけはいつまでも真っ白だった。
それがより一層、モクから村人を遠ざけた。
「これまで目の見えない僕を育ててくれたこと、感謝しています」
モクはペコリと頭を下げた。ざっくばらんに結んだ髪揺れる。
「誰かが生贄にならねばならんのだ」
「はい、わかっています」
モクは淡々と答える。焦点の見えない透明な瞳に村人は立ち竦んでいた。何も見えてないはずなのに全てを見透かされる気持ちになるからだ。
「これでやっと皆さんに恩を返すことができますね」
そう言ったモクは柔らかな笑みを浮かべた。モクの笑みを見た村人たちは安堵のため息を漏らした。
「ありがとうモク」
「モク、ありがとうな」
「これでやっと雨が降る。モクのおかげだ」
村人は矢継ぎ早に感謝の言葉を紡ぐが、その表情には憐憫と侮蔑の色が浮かんでいる。
誰もその色を隠すことはしない。どうせモクには見えていないのだから。村人の顔にはそう書かれている。
「生贄の儀式は明後日の明朝だ。明日の晩はモクの英気を養うためにも豪勢な宴を開くぞ」
長老は声高らかにそう宣言した。村人たちは準備に取り掛かるべく颯爽とその場を去って行く。
ただ一人残されたモクは瞼を閉じてぽつりと呟いた。
「全部聴こえてるんだよ」
真っ白な衣服、死装束にも見えるそれを纏ったモクは今にも消えてしまいそうなほどの儚い見目となっていた。
あまりにも白いものだから目尻に施された紅の化粧、生贄の証だけがぽっかりと浮かんでいるように見える。
屋根も壁もないただ板に棒切れを打ち付けただけの神輿の上でモクは静かに鎮座していた。
五合辺りまで来たら一休みして、モクは白い握り飯を食べた。
生贄として捧げられるのだからと昨日の晩の宴からこれまで食べた事のないような豪勢な食事ばかりでモクはすっかり胃を重たくしていた。
最後だからと気を遣われているのか。それとも同情することで罪の意識から逃れたいのか。村人の本音を噛み砕くようにモクは握り飯を口に押し込んだ。
程なくして一同は山頂目指して出発した。居心地の悪い神輿の上でモクは静かに目を瞑る。
これからこの山を司る神様に捧げられる。あと二刻ほどで神社に着いて儀式の後、一人取り残される。
三日ほど神社の中で生活する。あの恐ろしい神様と共に。神域で生活することで地上の穢れを祓うのだ。
そして満月の夜、神社の裏にある井戸に身を投げる。それが生贄の儀式の手順だった。
叶うのなら神社に着いたらすぐにでも身を投げてしまいたい。恐ろしい神様の話はモクも聞かされていた。
まず背が高い。形こそは人の形をしているが頭に二本の捻れた角がある。左目の周りが爛れていてそれを隠すように包帯が巻かれているらしい。
気性は荒く、粗暴な性格で昔は村に降りてきて人に危害を加えたという話まであるほどだ。
「着いたぞ」
木の根で歪んだ石畳みの階段を登った先に神社があった。鳥居の丹塗りも、神殿の瓦も剥げて廃れ切っている。手水舎の水は枯れ、枯葉や枝の溜まり場になっている。
日が暮れはじめていた。村人たちは傾いた石灯籠に火をつけて早速儀式を始めた。
申し訳程度の舞と音楽。モクは参道の中央で静かに鎮座していた。
怖い。あの恐ろしい神様と満月の晩まで暮らさなければならないことが何よりも怖かった。
生贄にされたことへの怒りなど忘れるくらい恐怖が勝っていた。
やがて笛の音が止み、奉納の舞は終演した。村人たちは山を降りて行く。誰もモクに声をかける者はいなかった。
ああ、自分は本当に生贄になったのだ。モクは心が握りつぶされるような苦しさに喘いだ。
天涯孤独で目が見えない。奇天烈な髪色のせいでどこへ行っても邪険に扱われた。誰からも愛されることのない人生だった。
どうせ死ぬなら恐れを抱くことなく安らかに死にたいというものだ。
けれどもこの山頂からでは一人で降りることなどできそうにない。それに生贄から逃げ出せば村に雨は降らず、帰ったところでこれまで以上の冷遇が待っていることは明白だった。
生贄になるしかない。せめて神様の怒りに触れることのないよう、満月の晩まで慎ましく過ごして死ぬ。
「失礼いたします」
モクは賽銭箱の奥、本殿の御扉に手を掛けた。中に入ると灯籠にぽっと炎が灯ってモクは瞼の向こう側が明るくなったのを感じた。まさか人がいるのか。モクは注意深く気配を探る。
「こちらだ。正面だ」
御扉の正面から声がした。その声と気配にモクは当惑していた。人ならざる者の気配。神様だ。
けれどモクが当惑したのは向こう側にいるのが神様だったからだけではない。恐ろしい。おどろおどろしい。粗暴で冷徹。そう聞いていたのにそんな気配が全くなかったからだ。
「怯えないんだな」
雪になる直前の雨のように冷たく芯のある声は美しさすら覚える声音だった。
「私を見た者は腰を抜かすか悲鳴を上げるかする者なのにお前は驚くことすらしないのだな」
「目が見えていませんので」
モクは迷ったが事実を伝える事にした。目の見えない生贄など寄越すなと罵られるだろうか。
「なに?」
「生まれつき目が悪く神様の御顔を拝見することができないのです。申し訳ございません」
モクは額は床に付くほど深く頭を下げた。声が震えないようにするのに必死だった。
生贄として身を投げる前にとって喰われやしないだろうか。気を抜くと奥歯がガチガチと鳴りそうだった。
「……そうか、そういうことか。どうしてお前はここに来た?」
神様は状況を一つずつ噛み砕くようにゆっくりと話す。
「どうしてって、生贄としてでございます。村であまりに雨が降らないもので、雨乞いの供物として捧げられた次第でございます」
「捧げられた?」
誰が自らの意思で生贄なんかになるか。そんなこと口が裂けても言えるわけがない。それこそ逆鱗に触れて丸呑みされてしまうかもしれない。
「なるほど、生贄という名の口減らしか」
余り物を寄越されたとでも思っているのだろうか。帰れと言われたところで今のモクには帰る場所すらない。
この目と耳のせいでもうあの村に帰るのはうんざりだった。ここで死なさせてください。
モクがそう言うよりも早く神様が口を開いた。
「満月は三日後だったか?」
「はい、ですので三日間宜しくお願いします」
「わかった。案内するからついて来なさい」
「え?」
「この神社を案内する。目が見えないのなら一人で回って把握しろというのは難しいだろう」
「はい、ありがとうございます」
モクは急いで立ち上がる。緊張で脚が縺れたがなんとか転ばずに神様の元へ向かう。
不意に右手が温かいものに包まれた。それが神様の手だと気づくのにモクは五秒ほどの時間を要した。
「わからないことが有れば都度聞きなさい」
雑音のない透き通るような本音と繋いだ手のひらから流れ込んでくる感じたことのない体温にモクは戸惑いながらも弱い力で手を握り返した。
しまった、寝坊だ。モク飛び起きた。見えない目を開く。明るさからして昼前だろう。敷布団を畳んで部屋を飛び出した。
昨日、神社の構造はある程度覚えた。人間のそれとは全く違う神様の気配を伝ってモクは本殿へ向かう。
「おはようございます。すみません寝坊してしまって」
モクは気配のする方に深く頭を下げた。布団で眠れたのなんて久しぶりで寝こけてしまったなんて言い訳は通用しないだろう。
「おはよう。なんだ、まだ着替えていないのかい?」
「す、すみません。すぐに着替えます」
慌てるあまり失念していた。寝巻きのまま神様の前に姿を見せるだなんて不躾にも程があるだろう。モクは急いで部屋に戻り着替えた。
「お待たせしました」
モクはそこで温かな味噌の香りに気づいた。出汁の香りも混じっている。味噌汁だろう。
「ここには神様の他に誰かいるのですか?」
「いないよ。私以外の気配すらないだろう」
「そうですが。では食事の用意は誰が」
炊き立ての米の香りもすることから調理されて間もないことは明白だった。
「私意外に誰がいるんだ」
神様の呆れた声にモクは呆気に取られた。まさか神様自ら食事を用意してくれたとでもいうのか。
「早くしないと冷めるぞ」
モクは座布団の上に正座した。居心地の悪さを感じながらも腹の虫は空腹を訴えている。箸を取り手を合わせる。
「いただきます」
まずは温かな味噌汁を一口。味噌の風味と鰹出汁の香りが鼻腔を抜けていく。一息ついて沢庵を白米に乗せて頬張る。
沢庵の塩気と噛めば噛むほど滲む米の甘味にモクは感動していた。
「随分腹が減っていたんだね」
「す、すみません」
はしたなかっただろうか。モクは居た堪れなくなって箸を置く。
「謝る必要はない。まぁ畑があの様子ではそうだろうな」
神様は遠い目をして村の方を見ている。モクの目は見えていないけれど神様がどのような表情をしているかありありと想像ができた。
「あの、食べないんですか?」
「何をだ?」
「ご飯、食べないのですか?」
モクはいざ箸を置くと神様に穴が開くほど見つめられているであろうことに気がついた。
「神に人間の食事が必要だとでも?」
じゃあこの食事は自分の為だけに用意されたものなのか。そう考えるとモクは呼吸が苦しくなった。味噌汁の温かさとは違う熱が込み上げる。
こんなにも大切のされたのは生まれて初めてだった。モクの心は慣れない感覚への居心地の悪さとため息が漏れるほどの安心感に揺れていた。
「一つ聞くがどれほど見えていないんだ?」
モクが口を開くよりも早く神様は「答えたくなければ答えなくていいが」と前置きをした。
「ぼんやりとは見えています。この御膳ですとご飯と汁物、漬物の判別はつきますが汁物の具や米粒までは見えていません」
「生まれつきか?」
「鮮明に物を見た記憶がないので恐らく」
「そうか」
その三文字には憐憫も同情もなくただ無色透明の淡々とした納得だった。モクにはそれが何よりも嬉しかった。
朝食を終え、モクは神様に連れられ神社の周りを少し散歩した。昼を過ぎるとどういうわけかすごく眠くなり一眠りした。
夕方、首元を撫ぜる柔らかな風でモクは目を覚ました。湯汲みをし、晩ご飯を食べて床に着いた。
翌朝、モクは日が昇るのと同時に起床した。昨晩は湯汲みをしているうちに神様がご飯の支度をしてくれていた。自分は食事をしないというのに。
生贄の身でありながらもてなされていることに違和感を覚えながらも、これまでの人生でこんなにも大切にされた一日は初めてだった。
けれど自分の食事くらいは自分で用意しなければ、とモクは早起きをした。台所へ行くと神様が竈門を覗き込んでいた。
神様の長い人差し指が宙を舞う。くるりと円を描くと細い枝にポッと火が灯った。
モクのぼやけた視界の中で一部だけが赤く煌めく。
「今日は早いな、おはよう」
「おはようございます。神様、今のは」
丸一日この神社で神様と過ごし、モクの中から恐怖という感情は消え去っていた。
「大丈夫だよ、無闇矢鱈に火を飛ばしたりはしないから」
神様の声はどこか寂しそうな色をしていてモクは咄嗟に口を開いた。
「すごいです、神様の力ってやつなのですか?」
「え?あぁ、そうだよ」
「一瞬で炎を生み出せるなんてすごいです」
「すごい、かな」
「すごいことですよ!火起こしはとても難しいですから」
小さな火花を見極めて枯れ草に移すなんて繊細な作業はモクが大の苦手とすることだった。
「君は怖がらないんだな」
「怖がるなんて、どうしてですか?神様はこんなにすごいのに」
驚きはしたものの怖がるなんてとんでもない。モクの中で畏怖の念は霞よりも希薄なものになっていた。
力そのものは怖いと思う。あの火の玉を民家に飛ばせば忽ち町は炎に飲まれるだろう。けれどこの神様がそんなことをするなんて到底想像できなかった。
「神様はどうしてここで暮らしてらっしゃるんですか?」
朝食を食べ終え、熱い緑茶を冷ましながらモクは気がかりだったことを口にした。簡単に炎を生み出すことができるのならどうしてこんな不便なところで暮らしているのか。
「それを飲み終えたら神社の奥に行こうか」
お茶を飲み干し食器を片してからモクは神様と神社の裏に回った。麓の村どころか遥か地平線の向こうまで見えるほどの場所にそれはあった。
「御神木、ですか?」
「そう。これが私の核のようなものだね」
枯れ果てた山で一本だけ青々しい葉を実らせた樹が空高くそびえ立っていた。
大人三人が輪になっても幹を囲い込めそうにない程の立派な樹にはしめ縄と紙垂で雁字搦めにされている。
「この井戸ですね」
樹の石造の井戸がそこにあった。人の子などいとも簡単に飲み込んでしまうそうなほど大きな井戸。
井戸を覗き込めば平な水面が朝日で煌めいている。
「カビの匂いもありませんし思っていたより綺麗そうですね」
モクは両手のひらで井戸を撫でて大きさを確認する。これなら石に頭を打つことなく飛び込めそうだ。
「命が惜しくはないのか?」
「惜しいですよ」
神様の純然たる問いにモクは偽らずに答えた。
「でもこの目と耳でこれ以上生きていく気もないんです」
「目と耳?もしかして耳も悪かったのか?」
神様の声は春の雪解けのように心から相手をいたわり思いやるもので、モクは心臓がきゅっと捕まられる思いがした。
「いえ、耳はいいんです。良すぎるんです」
こんなにも親身になって話を聞いてくれる人がいる。こんなにも自分に心を砕いて、本心で話してくれる人がいる。
「目が悪くて人の表情は見えないのにどういうわけか何を考えているのかはっきり聞こえるんです。喉から出る声とは別の、心の声が」
人の本音が聴こえるのいつからだったか。モクは思い出す事ができない。
「大丈夫か?」の裏で聴こえる面倒くさい。
「休んでろ」の裏で聴こえる役立たず。
「生贄になってくれてありがとう」の裏で聞こえた本当にありがとう。
どれほど強く耳を塞いでも頭に響く本音から逃げる事を諦めて生きてきた。
誰にも言えないと思っていた。相談したところで目の事は信じてもらえても耳のことなど立証する術がない。余計気持ち悪がられて村での立場が危うくなるのは明白だった。
「ですが、ここに来てから耳の悩みは解消されました。村に戻って生きて行くくらいなら此処で死なせて下さい」
きっと死ぬまで見えない目と聞こえすぎる耳に苛まれて生きていく。そう思っていたのに此処での静かで穏やかな暮らしはモクの人生の中で最も心を満たした生活だった。
「そうか」
神様はぽつりと呟くとモクの手を取った。少し山の中を歩いてから神社に戻った。境内の中を掃除してから早めの夕食にした。
湯汲みに行く途中モクは濃い霧が立ち込める視界で空を見上げた。
雲一つない真っ黒な空に欠片が一つ足りない月が空に浮かんでいる。
目を瞑れば耳の内側で心臓がとくりとくりと鳴っている。明日の晩には止まる心臓の音に呼吸を合わせる。
十二刻後には身を投げなければいけないなどということはすっかり忘れるほどに穏やかな夜だった。
翌朝、モクは昨日と同じように朝食済ませて昨日と同じように穏やかな時間を過ごしていた。神様から何か言いたげな雰囲気を感じてはいたもののモクからその事に触れることはなかった。今夜、命が終わるというのにモクの心は春の海のように穏やかだった。
死が直前まで迫って来ると不思議と焦りは消えていた。ただそこにそれがあるのなら受け入れるしかない。
もう村での人の本音を聞かなくていいと考えれば清々しい気分ですらあった。
夕暮れ前に湯汲みに行くまで、神様はいつもに増してモクの隣を離れようとしなかった。
烏が鳴いて、燃えるような夕日が乾いた大地をオレンジ色に染め上げて沈んでいく。太陽を追いかけるように満月が昇る。
襟を左前にしてモクは神様と共に神社の裏手を歩く。御神木
「どれほど耳がよくっても農業どころか狩りもできない。家にいても料理もできない」
「穀潰しな僕を心の中じゃ誰もが邪魔者だと言ってました。でも神様だけは一度も僕を邪険にしないで下さった」
「それは君が私を恐れないでいてくれたからだ」
神様が声を荒げたのははじめてのことでモクは体が固まった。次の瞬間には濁流のように神様の心の声が流れ込んでくる。
「生贄なんて欲しくなかった」
「ただ、一緒に同じ時を分かち合いたかった」「けれどこんな見目じゃ人から恐れられるのも仕方ない」
「炎を自在の操れる姿なんて人の子からすれば恐怖の対象だろう」
「だからこの山で一人で暮らすことにした」
「ずっとひとりで寂しかった」
「声をかけることすらできなかった」
「姿を見せるだけで怯えさせてしまう」
「枯れてゆく村を眺める事しかできないのが歯痒い」
「助けたい。けれど自分の力だけじゃ救えない」
「どうしようもなく寂しい」
それは神様の紛れもない本音だった。寂しい、さみしい。1人は嫌だ、孤独は辛い。
神様の本音はモクの心と重なった。モクが村での暮らしている間、ずっと抱えていた感情と同じものだった。
「本当に生贄になるつもりかい?」
神様の言葉は生贄になんてならなくていいという懇願だった。
「そんな事言わないでくださいよ。ここで死ななかったとして僕はどうやって生きていけばいいんですか?」
「私と二人で生きていこう。ここで。
「目が見えない、一人じゃ生きていけない僕はどれほど煙たがられたって村で生きていくしかない。帰れば絶対にこれ以上ない邪魔者扱いされる」
「でも僕が生贄にならないと神様は雨を降らせられないでしょう?」
「それは」
言い淀んだ神様にモクは愛情に近いものを感じていた。自分より圧倒時に格上の存在が狼狽えている。
ここに来た時に感じていた恐怖はもう跡形もなく無くなっていた。
「そっか神様は火の神様なんですね。水を操るなどの雨を降らす事はいくら神様でも畑違いの事だから難しい。だから生贄という力の源が必要。違いますか?」
モクはしっかりとした口調で説明する。今しがた、神様から聴こえてきた本音を繋げば何故生贄が必要かよくわかった。
「その通りだよ。本当に耳がいいんだね」
何かを諦めたような溜め息を吐いて神様は肯定した。
「見えない目を蔑まず、偽りのない言葉で語りかけてくれる存在がこの世にあった。僕はそれだけで十分です」
最後に神様の本音を聞くことができてモクは安心していた。神様だから人間の自分では本音を聞けないのか。
本当は心の底では邪魔者だと眉を顰めているのではないかと怯えていた。本音が聴けないことに安堵しつつも本音が分からないことは恐怖だった。
「さようなら。村の人のことは許せそうにないけど、あなたの生贄として暮らせたこの三日間は僕にとって最も幸せな時間でした」
それだけ言うとモクは井戸の縁から倒れ込むように背中から落ちていった。
神様はモクの身体が井戸の底に落ちて、泡が爆ぜる音が聞こえなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
最期にモクは綺麗に笑っていた。
神様がこれまで見た人の子の笑顔の中で最も澄んでいるいい笑顔だった。
引き留めたかった。一緒に生きて欲しかった。
神様は呆然と立ち尽くす。やがて満月が傾いて神様は足元から言い表し難い何かが這い上がってくるのを感じていた。
生贄から吸い上げた力の源。モクが生きて、死んでいった証。
これを無駄にしてしまったらモクが生きていた証拠が何一つなくなってしまう。
雨を降らせなくては。見えない目と、少し変わった風貌というだけで優しい子どもの心を潰し、挙句生贄とするような村に雨を降らせなくては。
神様は抑え込んでいた力を泪のように零しはじめた。
翌日、昇った朝日を隠すように鈍色の雲が空を覆いぽつりぽつりと雨が降り始めた。
やがて赤ん坊が泣きじゃくるような音を立てて降り出した雨は三日経っても、一週間経てども止むことはなく川は氾濫し、全ての田畑は水没ししまいには山の稜線を崩す程の土砂崩れが村全体を飲み込んだ。
雨と礼賛 真白涙 @rui_masiro
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