第5話 おじいちゃん先生
顔が熱い。
火照ってて赤くなってるのが自分でも分かる。
ぺったんぺったん鳴っているスリッパの音が乱れるとドキッと心臓が跳ねる。
大人用スリッパは、わたしには大きくて、でも子供用を履くのは屈辱。
そのせいで、ちょっと転びやすくても。
(今日は良くない日だ)
心の中で呟きながら検査着の胸元をぎゅっと握る。大人用の、しかも男性用――袷が違う――でLサイズの検査着なんて着てるから普通に歩いたら上から身体が丸見えになっちゃう。
レントゲンは、制服だと胸当ての留め具の金属が写るから脱がなきゃいけなくて下のスリップは大丈夫。
でも最後の触診で全部脱がなきゃいけないから、いつも全部脱いでロッカーにしまって検査着を着る。
なのに今日に限って初等部の身体測定や企業の健診とかで数が足りないとか。
それでも! わたしに大人用で男性用を着せようなんて何を考えているんだろう。
丈はいいの。十分あるから。でもズボンは、わたしが二人入れるようなものをどうしろと?
確かに普段もサイズが合わないから履かないけどさー。
係の人も出払っていて、どうにもならなくて男性用の検査着を着たままわたしは色々な検査をするっと回って最後の診察に向かうところ。
恥ずかしい。
恥ずかしいはー
くぅ…どうして痴女のようなかっこで恥辱にまみれなければならないのだ――とか言葉遊びをするくらいに余裕はあったりするけど。
転ばないように裾が広がらないように、胸元から手を離さないようにゆっくりめで歩いていると少し先の診察室からリンダさんが顔を出した。
胸元を押さえていない方のクリアファイルごと手を振るとリンダさんは血相を変えて、それでも一度診察室に戻ってからこっちに走って来た。
病院ってお医者さんや看護師さんが走ると緊急事態って思われるから走っちゃいけないんじゃなかったっけ?
「なんて格好しているの?!」
わたしが口を開く前にリンダさんは持って来たバスタオルを広げて、一周巻いて肩のところで留めてくれる。
「更衣室にこれしかなくて係の人もいなかったから」
「だからって…そんな恰好でまわって来たの?」
「どうせ沼田先生のところに行ったら全部脱ぐでしょ。他の検査で制服が汚れたらいやだし脱ぐのも着るのも大変だからもういいやって」
「そういう時は、ちゃんと大人を頼りなさいな。私を呼び出したって良いんだから」
採血室の時みたいにリンダさんがぽんと背中を叩く。
「うん…今度はそうする」
「じゃあ、本日最後のメニュー。おじいちゃん先生の診察よ。今月も首を長ーくして待ってるわ」
「一ヶ月くらいじゃ何も変わらないのになぁ」
これから始まる触診と問診を想像してわたしは呟く。一か月前と同じ内容のはずだから答えも変わらないのに。
診察室の扉をこんこんとノック。返事を待たずに扉を開ける。
「沼田先生、こんにちは」
カーテンからひょいっと診察室を覗き込むとそこには、沼田先生――サンタクロースのような髭を生やして頭つるつるの痩せてシワシワの丸メガネのご老人――が座って待ってる。
わたしの声に沼田先生はカルテから視線をこっちに向けてニッと笑う。
「おう。来たか、チビ助」
努めて明るい声を出して、それからちゃんと沼田先生って呼んだのにまたチビ助って呼ばれた。
「わたし、チビ助じゃない」
平均よりちょっと……ずっと小さいけど。
「儂よりも小さいんじゃからチビ助で十分じゃよ」
「じゃあ、大きくなったら? 中学校を卒業する頃にはおじいちゃん先生より、ずーっとおっきくなってるかもしれないよ」
沼田先生って呼ぶのをやめて、いつもの呼び方をするとカカっと笑う。
「そしたらデカ助って呼ぶわい」
「うんもー! このおじいちゃん先生め!」
「なんじゃい、チビ助が」
「ほらほら、二人とも。早く定期検診を始めましょう。ちび…んんっ。帰りが遅くなるわよ」
おじいちゃん先生と睨みあっていたわたしは汚れないようにタオルの敷かれた丸椅子に近づいてから検査着の紐に手をかけた。
(子供の頃はぽぽーんと脱いだけど…やっぱりおじいちゃん先生でも裸は恥ずかしいなぁ…)
「どうした、チビ助。また色々考えとるのか? 考えすぎるのは悪い癖じゃぞ」
肩越しにおじいちゃん先生を見ると優しくて温かい目をしてわたしを見つめている。
ふざけたりもするけど、誰よりもわたしの身体の事を考えてくれてる人なのはほんとなんだよ。
「なぁんにも考えてませんよー」
わたしは検査着を脱いで生まれたまんまの姿になると、いつもの通りにおじいちゃん先生の前でゆっくり一回転して、それから丸椅子に座った。
目視による変化の確認だとおじいちゃん先生は言う。機械は信用できないからって。
「ひょっ」
無言で冷たい聴診器を当てられてわたしは変な声を出してしまう。
ぐぐっ、やられた。いつもなら聴診器を握って温めておいてくれてるのに。
横でリンダさんが笑いを堪えてるのが分かってよけいに恥ずかしい。
「吸って…吐いて…大きく吸って…止めて。うん、問題無しじゃな。ほい、背中」
スリッパはそのままに、裸足でぺたぺた足を動かして背中を向けるとぴとっと聴診器が当てられる。もう冷たくない。
「吸って…吐いて…大きく吸って…止めて。こっちも良し。そのまま」
温かいけど骨ばった指が二本当てられてトントンと振動が身体に響く。
打診っていう診察方法で体内の音の響きの違いで悪いところを見つけるんだって。
普段の音を知らないと異常が分からないから難しいとかなんとかかんとか。
「ほい、こっち向く」
またぺたぺた足を動かして元の位置に戻ってスリッパを履く。
何がおかしかったのかリンダさんがクスクス笑ってる。
静かな診察室におじいちゃん先生が打診する微かなトントンと言う音だけが響く。
その静寂を破ったのはノック無しに診察室の扉を開ける音だった。
なんで? 診察中は誰も入れないはずじゃ……じゃなくって検査着ないと裸見られちゃう。
わたわたと検査着に手を伸ばしたのに慌てているせいで脱衣篭をひっくり返して勢いでわたしもひっくり返る。
「沼田先生、今日は実験体が来てるんですよね。是非とも僕に見学させて下さい」
「入らないで下さい! 診察中です!!」
素早く移動したカーテンの向こうでリンダさんが怒鳴ってる。
どうしよう。
冷たい床に座ったまま身動きできずに困っているわたしの頭の上から何かが振って来た……白衣だ。
おじいちゃん先生が着ていた白衣をかけてくれたんだ。ちょっとタバコ臭い。
「お前、見かけん顔じゃな」
白衣で身体を隠しながら覗き見るとリンダさんを押しのけてカーテンを開けたその人の前におじいちゃん先生が立ちはだかってる。
「ああ、研修でこちらに来ています。せっかくですから沼田先生にお会いしようと医局で聞いたところ実験体がいるって言うじゃないですか。これは是非とも見学させてもらわなければと思いまして」
あんまりおっきくないおじいちゃん先生の肩越しにわたしを見る白衣の人は――あー、あっちの人だ。
いやな目つきで白衣からこぼれたわたしの太ももを見てる。
お医者さんだって人間だし、ヒポクラテスの誓いを宣誓したって聖人君子じゃないことはわたしにだって分かってる。
でも、中にはあっちの人がいる。子供の頃は分からなかったからお腹の傷を見ているだけだと思っていた。けどある程度の年齢になると実は違うところを見つめている人がいることに気付いてしまった。起伏の無い胸だったり、おへそのもっとの下の方とか……
それは男女を問わずにいて他の人達と目つきが違いすぎて、いつしかわたし側にいない人だからあっちの人と呼ぶようになった。
おじいちゃん先生はわたしの変化に敏感で、すぐに必要以外は傷はもちろんのこと裸も見せないように気遣ってくれてる。
だからこんな風に人が入ってくるなんて予想外。
他の場所が出ないように太ももを隠そうとすると
「おおっ、その子が実験体ですね。診察中ですか? ぜひとも……」
わたしを見ようとして身を乗り出して………瞬きする間におじいちゃん先生の足元に組み伏せられた。
「お前には資格無しじゃ。林田君、警備員を呼んでくれるかの」
「そんな! 僕は見学に来ただけなのに」
「何が見学じゃ。診察室であれ無断で入れば不法侵入じゃわい。お前には二度と儂の患者には近寄らせんわ。チビ助」
あっけにとられて動けないわたしの方を向いておじいちゃん先生が言う。
「こいつはご覧の通り動けん。そっちは見えんから奥の診察台でカーテン閉めて待っとれ」
「あーはい」
向こう側を向いているから見えないと思うけど露出に気を付けて目を逸らさないように立って……後ずさって診察台に座りながらカーテンを閉める。
あーびっくりした。
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