4月15日(月) 発現

4月15日(月) 天気…曇り/雨



 放課後になって、ホームルームを終えたクラスメイトたちが皆荷物をまとめて次々と教室を後にしてゆく。


 そんな中、僕は席についたまま、教室からある程度人気がけてしまうのを待っていた。


 ここでいつものようにすぐ教室を出れば、また玄関で紬希と鉢合わせしてしまう可能性がある。彼女と一緒になって帰ることにどうも気が引けてしまう僕は、下校のタイミングをずらして鉢合わせを回避しようと画策していた。


 ある程度時間が経ち、生徒のほとんどが教室から出て行ったのを確認してから、ちらと紬希の席をうかがう。


 席は空いていた。「今だ」と思い、僕は席を立ってそそくさと教室を抜け出し、玄関へ急いだ。


 ――しかし、時間をずらした成果も虚しく、紬希は玄関の靴箱の前でしっかりと僕を待ち構えていた。まるでカカシみたいに突っ立ったまま、あの幻想的な瞳でじっと僕の方を見つめて……


 そして何食わぬ顔で、「一緒に帰ろう」と誘ってくる。別に一緒に帰って話すことなんて何もないというのに。僕が先に家に帰り着き、「じゃあね」と彼女の方から別れの挨拶が切り出されるまで、終始無言で歩き続けるだけだというのに。一体何が面白くて、彼女は僕を待っていてくれるのだろう? 僕にはそれが不思議でならなかった。



 学校へ登下校する際、僕らはいつも北美斗世駅前のガード下を通り抜けてゆく。


 全長十五メートル程の薄暗いアンダーグラウンドの世界は、陽の光ではなく青白い蛍光灯の光だけが支配し、歩道の隅には何人もの浮浪者が、敷かれたビニールシートの上で死体のように寝転がっていた。


 私鉄冥華線が頭上を頻繁に通過するこのガード下は、いつもレールの軋む音が天井から伸し掛かり、車道を行き交う車の騒音はうるさく、こもった排気ガスの臭いがつんと鼻を突く。


 こんな薄気味悪い場所に長居は無用だ。そう僕の心が騒いで、登下校でここを通過する時は、知らぬうちにいつも足を早めてしまうのが癖になっていた。今日もまた、僕はせかせかと早足で紬希の前を歩いてゆく。


 ――しかしその時、まるで通路の隅に溜まった暗闇からき出るようにして、何人もの人影がぬっと現れた。その人影の群れは、早くここから出たいとはやる僕の前を塞ぐように、僕らの前に立ちはだかる。


 


 僕と紬希の前に立ち塞がったその人影は、薄汚い格好をした浮浪者たちとは異なり、僕と同じ美斗世市第一高の制服を身に着けていた。着てから日の浅い新品のものであるところからして、僕らと同じ新入したての一年生だと分かる。そして、彼らのうち数人の顔には、赤黒い血の塊が、まるで乾いた鼻水のように鼻周りにこびり付いていた。


 それを見た僕は、数日前、研修合宿の時に自分をトイレに連れ込んで暴力を振おうとし、紬希にえ無く返り討ちにされた、あの哀れな不良たちであることを見抜いた。


 あのとき散々な目に遭わされていたというのに、まだ性懲しょうこりもなく僕らを付け狙っていたらしい。しかも今度は三人ではなく、倍以上の七人に増えている。


 普通、これだけの人数が集まっていれば、すれ違う時点で気付いていたはずなのだが、暗いガード下で、おまけに脇で座り込む浮浪者たちの中に混じっていたせいで、ぎりぎりに近付くまで気付けなかったのである。


「……オイてめぇら、覚悟はできているよな?」


 不良の一人が声を上げる。周りから聞こえてくるのは、嘲笑う声、指の関節が鳴らされる音、そして金属が地面を擦る音。おそらく何人かはこん棒のような武器を持っている。情けなど微塵も持ち合わせていない奴らに交渉を持ち掛けられるはずもなく、まだろくな覚悟も決められていない僕に向かって、問答無用とばかりに一人の不良が拳を振り上げてきた。


 僕は咄嗟にその場で身構えるが、拳のぶつかる衝撃はやって来ない。


 僕を打ちのめすはずだった不良の拳は、割り込んできた紬希の細い腕によって、またしても呆気なく阻まれてしまっていた。


「畜生、またアイツだ!」


 不良は掴まれた手を振り解こうとするが、紬希はそんな抵抗をものともせず、軽々とその腕を捻り上げる。不良はデカい図体に似合わぬ黄色い悲鳴を上げた。


「何もしてない人に暴力を振るうなんて、許せない。――だから、お仕置き第二弾」


 そのまま捻った腕を引き込んで軽々とかつぎ上げたかと思えば、次の瞬間には不良の巨体はふわりと宙に浮き、しゃがんだ僕の頭上を超えて、その先の地面にどさりと落ちた。


 すかさずもう一人の不良が紬希に掴みかかろうと突進してきたが、彼女はその腕を瞬時に振り払い、無防備な鳩尾みぞおちに一発、そして下顎したあごから突き上げるようにしてもう一発、拳を見舞った。


 相手は、まるで糸を切られた操り人形のようにその場に崩れ落ちる。


 続いて、背後の死角から金属バットを振りかざしてきた三人目に対しても、紬希は素早く反応した。即座にその場でかがみ込んで攻撃をかわす。振りかぶったバットの先は、本来打ちのめすはずだった紬希の頭上をすり抜け、傍に居る四人目の不良の腹に直撃した。


 紬希は身を伏せたままきゅっと身を捻らせ、相手の足元に蹴りを入れる。不意を突かれて足元をすくわれた三人目は、その場でひっくり返り、頭を地面に激しく強打してノックアウト。


 仲間の持っていたバットで殴られ、その場で呻き声を上げる哀れな四人目に対しても、紬希は容赦なく渾身の回し蹴りを見舞った。


 ハラリと舞い上がるスカート。彼女の振りかざした足先は不良の頭を打ち抜き、ガタイの良い体は宙で一回転して、ポップな落書きにまみれる壁に背中を打ち付け、地面に沈み込んだまま動かなくなった。


 わずか数秒の間に七人中四人がダウンし、早くも形勢が危うくなる不良集団。しかしそれでも奴らは諦めが悪く、一人が歩道脇で寝ている浮浪者の側に転がっていた空の一升瓶を拾い上げ、思い切り紬希に投げ付けた。


 瓶は彼女の頭にヒットし、地面に落ちて粉々に砕け散る。そこへもう一人がすかさず背後から飛び蹴りを食らわせ、紬希は瓶の破片が散らばる地面に、勢い良くうつ伏せに倒れた。


 研修合宿の時は、一人で三人の不良を相手にし、目にものを見せてやった紬希。しかし今回は七人という頭数で対抗され、流石の紬希も一人で相手するには分が悪かった。


 それでも彼女は、たった一人で彼らに立ち向かい、四人もの相手を戦闘不能に陥らせたのだから、これだけでも大健闘であったと称えられてしかるべきだろう。


 しかし、卑怯にも数で押されて反撃を受けてしまった彼女は今、地面にうつ伏せに倒れたまま沈黙してしまっている。ガード下で繰り広げられた激しい戦いは、これで雌雄を決してしまった……ように見えた。


 ――地面に投げ出された紬希の指が、ぴくりと痙攣するまでは。


「なっ……」


 不良たちは恐怖のあまりその場で固まる。


 それはまるで、ゾンビ映画で死んだはずの者が再び動き出すワンシーンを見ているようだった。彼女はむくりとその場で体を起こし、地面に手を付いて、音もなく立ち上がる。


 ジャリ――


 地面に散らばったガラス片の踏まれる音が、薄暗い空間に響く。青白い蛍光灯の下に照らし出された彼女の顔を見た途端、僕は思わず息を呑んだ。


 彼女の白い肌が、顔が、首筋が、鮮やかな紅に染まっていた。倒れた際、地面に散らばったガラス瓶の破片が、彼女の頬や額に深く突き刺さり、溢れ出た血で真っ赤に濡れていたのだ。ガラス片の幾つかは頰を貫通しているらしく、口元からは血が滴り落ち、ポタポタと足下に小さな血溜まりを作っている。


「なっ、何だよこいつ……」


「ばっ……バケモノかよ…… おい! 逃げるぞ!」


 不良たちは、顔面血まみれの紬希を見て恐れ慄き、自分たちが加害者であることも忘れて一目散に逃げてゆく。


 どさくさに紛れて逃げようとした不良の一人が、足を引っ掛けてみっともなく転んだ。そいつは、勉強合宿の時に僕がボールを当てて指を怪我していた、あの不良の頭だった。


「ひっ……く、来るなっ……」


 彼は腰を抜かしてしまったらしく、よろよろと近付いてくる紬希を見て顔を真っ青にさせた。彼女は一切表情を変えず、怯える不良の胸ぐらをつかむと、血まみれの顔をぐいと近寄せる。


 そして彼の耳元で、ささやくように忠告した。


「――もう二度と、私たちに関わらないで」


 不良は涙目になって小刻みに震えながら何度も頭を縦に振った。怯える彼の股下辺りから、ショワワワと小さな水音が聞こえた。


 ……それから、紬希が掴んでいた手を離すと、不良の頭は一目散にその場から逃げていった。できれば僕も、奴らに紛れてこの場を逃れたかったのだが、脚が震えて言うことを聞いてくれない。


 僕と紬希、二人だけが取り残されたガード下。その場に立ち尽くしていた彼女は、まるで何事もなかったように制服に付いた汚れを払い、乱れたスカートの裾を整え、それから最後に、頬に刺さっていたガラスを、一片ずつ、丁寧に指で摘んで引き抜いていった。


 チャリン、チャリンと、血に濡れたガラス片が地面に落ち、最後の破片が頬から引き抜かれると、紬希はくるっと身をひるがえして僕の方に向き直る。


 ――その時、僕は目撃した。


 彼女の頬に深く刻まれていた傷、その周りから、まるでむしが湧くように無数の白い糸が生えてきて、開いた傷口を繋ぎ合わせてゆく。


 まるで布地の破れ目を縫うように、傷の端から端に糸が渡され、独りでに縫合されてゆく一部始終を、僕は見てしまったのだ。


 紬希が頬に付いた血を手の甲でぬぐうと、そこに負ったはずの傷は跡形もなく消え失せており、代わりに虫の這うような縫い跡のみが残されていた。


 彼女は放心状態のまま座り込んでいる僕の前にしゃがみ込むと、僕と目を合わせ、そして悪戯っぽく人差し指を薄い唇にそっと押し当てて、こうささやいた。


「……クラスのみんなには、内緒にしてね」


 僕は何も答えられなかった。


 彼女はすっと立ち上がると、制服のスカートの裾をひらりと翻して踵を返し、ゆっくりとその場を歩き去ってゆく。


 遠ざかる彼女の背中を、僕は呆然としたまま眺めていた。


 あの時の紬希の表情が忘れられない。あれほど酷い怪我をしていたというのに、彼女の顔には全く「苦痛」の色がにじみ出ていなかったのだ。


 ……やっぱりあいつ、普通じゃない。いや、もはや人間でもないのか? 訳が分からなくなって、頭の中がかき乱される。


 ――彼女は一体、何なのだ?

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