4月16日(火) 縫いぐるみ少女
4月16日(火) 天気…晴れ
〇
朝、目が覚めた僕は、
不良集団に襲われたこと、七人もの屈強な男子生徒に囲まれながら、赤子の手を捻るようにいとも簡単に奴らをねじ伏せてしまった紬希の圧倒的な力。戦闘中に彼女の頬に刻まれた深い切り傷、そして、白い肌から芽吹くように生え出てきた白い糸。瞬く間に塞がれてしまった傷口……
どの光景も鮮明に覚えている。やはり昨日の出来事は夢なんかじゃない。ならばあの時、紬希の身に何が起こったというのだろう?
モヤモヤを抱えたまま家を出て学校へ登校してきた僕は、自分の教室の前に立ち、一人溜め息を漏らす。きっと教室では、紬希の頬に付いた傷跡のことで、クラスメイト達が大騒ぎしているだろう。そう思いながら、おそるおそる教室の扉を開けて中を覗いてみる。
――しかし、僕の予想は見事に外れ、教室内は至って平穏そのものだった。特に騒ぎが起きているわけでもなく、仲間同士でひそひそ紬希のことを噂したりする者はおろか、誰も彼女を見向きもしていない。
それもそのはず。席に付いていた紬希の頬に、傷跡など一つも付いていなかったのだから。
おかしい……僕はもう一度昨日の記憶を辿ってみた。確かにあの時、彼女は地面に倒れた拍子に、割れた瓶のガラス片で頬を深く切っていた。あれだけの怪我をしたというのに、たった一晩であんなふうに綺麗に治るものなのだろうか? それとも、昨日起きた出来事は全て僕の夢だったのか?
昨日の下校時に起きた襲撃事件がまるで嘘のように思われて、僕は混乱し、頭の中を疑問で一杯にしたまま、自分の席に着いた。
すると、教室に入ってきた僕に目が付いたのか、紬希が突然すっと席を立ち、足早に自分のところまでやって来た。思わず逃げ出したい思いに駆られたが、ここはじっと我慢する。
彼女は僕の席まで来ると、真っすぐな目をこちらに向けて「おはよう」と軽く挨拶を投げてきた。
「お、おはよう……」
僕は戸惑いながらも挨拶を返す。
「昨日はよく眠れた?」
「う、うん……」
明らかに僕の挙動がおかしいことに気付いたのか、紬希はかくっと首を傾げ、それから僕の耳元に顔を近付けて、静かにこうささやく。
「……ひょっとして、昨日のこと、気にしてる?」
僕は息を呑んだ。彼女の口から放たれたその一言が、昨日ガード下で起きたあの事件が夢などではなく、現実に起こった出来事であることを証明していた。
僕は固唾を飲み、こくりと小さく頷いてみせる。すると紬希は「そう……」と小さく声を漏らして、それから僕の耳元でこう言葉を続けた。
「なら、今日の放課後、校舎裏まで来て。……私の秘密、凪咲君にだけ教えてあげる」
突然そう告げられ、僕は混乱して何も言葉を返せなかった。
(秘密? 秘密って一体何のことだ? ……いや、それよりもまず、どうして僕だけなんだ?)
そう問いかけようとした時には、紬希は僕の視界から姿を消し、自分の席へ戻ってしまっていた。ホームルーム始まりのチャイムが鳴り、先生が教室に入ってきたせいで、話は一旦お預けとなってしまう。
紬希の抱える秘密が一体どんな内容なのかは分からないけれど、僕には決して開いてはならないパンドラの箱のように思えてならなかった。どうして彼女は、知られたくない秘密をあえて僕にだけ教えようとするのだろう? はっきり言って、僕は紬希の秘密なんて知りたくもなかった。彼女の秘密を知ってしまえば、自分の望む平凡な高校生活が、さらに遠退いてしまうような気がしたからだ。
○
――そして、放課後の時間は瞬く間にやって来る。
「行ってもどうせロクなことにならないぞ」と、僕の第六感がひたすら脳内で警告を発している。……にもかかわらず、何故か僕の脚は自然と校舎裏へと向かっていた。
他人の秘密を知ること、それは言い換えれば他人の抱える厄介事の片棒を担がされること。逃げることもできたのに、膨れ上がる好奇心に負けて、自分から面倒な事に首を突っ込もうとしている。
……僕は本当に、救いようのない馬鹿だった。
誰も居ない校舎裏の路地までやって来ると、そこにぽつんと紬希が立っていた。校舎の壁と壁の間、薄暗く狭い空間に吹き込む隙間風が、彼女の艶やかな黒髪とスカートの裾をふわりと揺らしている。
神秘と恐怖の入り乱れる張り詰めた空気の中、紬希はやって来た僕の姿を見るなり、「もっと近くに来て」と言った。
「あのさ、言っておくけど、僕は別にお前の秘密なんて知りたくなんか――」
そう言って近付く僕の前で、紬希は突然制服の左の袖をまくり上げ、白い腕をこちらに突き出してきた。
「あ、あの、紬希? 一体何を……」
――カチカチカチカチ
彼女が手を入れた制服のポケットから、マウスのクリック音に似た奇妙な音が連続して響く。
紬希は、ポケットからあるものを取り出した。まるでスマホかハンカチでも取り出すように、何気なく、あっさりと。
けれどそれはスマホでもハンカチでもない、女子高生が普段から持ち歩いているとは思えない代物だった。
彼女は、ポケットから取り出したそれ――持ち手の黄色い作業用カッターナイフを勢いよく振り上げ、その鋭い刃先で、突き出した自分の手首を切り裂いていた。
疑問で渦巻いていた僕の脳内は、一瞬にして深紅に染まる。
真っ赤な鮮血が、彼女の手首から噴き出した。勢い余って、そのうちの数滴が僕の頰にまで飛んだ。
――しかし、血が吹いたのはほんの一瞬だけのことだった。すぐに血は止まり、肌の表面から、あの時見たものと同じ、白く細い糸が何本も芽吹くように生えてきて、ぱっくりと開いた傷口に何度も糸を渡し、シュルシュルと音を立てながら綺麗に縫い合わせてゆく。
「凪咲君……私ね、死ねない身体になっちゃったの。何時からこうなったのかは分からない。どれだけ自分の体を傷付けても、体から生えてくる糸が私の傷を縫い合わせて、一日経てば綺麗さっぱり治っちゃうんだ」
紬希が最後の言葉を言い終わる頃には、手首の傷も全て塞がり、そこには虫の這ったような縫い痕のみが残されていた。
その告白は、女子高生の告白にしてはあまりに衝撃的で、あまりに残酷で、そして息を呑むほどに痛々しかった。僕は胸に手を当て、心臓の動悸を必死に抑え付けながら、言いたい言葉を喉から押し出す。
「ど、どうして……そんな秘密を、僕に……?」
「みんな怖がるだろうと思って黙っていたけれど、凪咲君にだけは、話しても大丈夫だって……クマッパチがそう言ったの」
紬希はそう答えて、制服の胸ポケットに収まった、あのボロボロなクマの縫いぐるみをそっと指で撫でていた。
不死身の少女、紬希恋白。どれだけ傷付いても自身の体から湧き出る白い糸によって縫い合わされ、一夜にして元の綺麗な肌に戻ってしまう。そんな不思議な力を持つ彼女は、まるで――
……まるで、生きた人形――いや、生きた縫いぐるみを見ているようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます