4月8日(月) 無難な学校生活を……

4月8日(月) 天気…曇り/晴れ



 朝、僕はまだ着慣れない新しい制服に腕を通し、新品の革靴を履いて家を出た。


 入学式も過ぎ、いよいよ今日から本格的な高校生活が始まる。

 一昨日、クラスメイトの顔も大体一通り把握したし、担任の先生がどんな人かも分かっているから、入学式の時より少しは緊張感が薄まっている。


 しかし油断は禁物だ。何事も始まりが肝心で、初日からいきなりつまずいてしまっては意味がない。


「……よし、張り切って行こう」


 僕は深呼吸して気を引き締めると、胸を張って家の前の道路に足を踏み出した。


 ゴチン‼︎


 そして刹那、道横の死角からぬっと現れた人影に、真正面からぶつかった。


 強い衝撃。反射的に閉じた目蓋の裏でキラリと星が飛んだ。まるでコメディアニメみたいに。


「いったぁ……」


 僕は打った頭を押さえて、閉じた目をゆっくりと開いた。


 この時、自分から三メートルほど離れた道路の真ん中に、一人の女子高生が倒れているのが見えた。


 彼女の着ている制服は、僕と同じ美斗世第一高校のブレザーだった。ずり落ちてシワの刻まれた黒のニーハイソックス。めくれたチェックのスカート。はだけた上着に胸元のリボンは傾き、流れるような黒髪がアスファルトの上に散乱してしまっている。


 リボンタイが赤だったことから、自分と同じ一年生――同級生にぶつかってしまったのだと僕は即座に理解する。


 そして、理解すると同時に酷く焦った。ついさっき家の前で始まりが肝心だと気を引き締めたばかりだというのに。

 なのに出だしからこれである。


「いや、初っ端から幸先さいさき悪過ぎるだろ!」


 僕はそう叫びたくなる気持ちをどうにか堪え、慌てて倒れた彼女に駆け寄ろうと近付く。


 その時、あるものが目に留まった。


 普段なら絶対に見ることのない、はだけたスカートの内側。股下にちらと垣間見えた、太腿と太腿の隙間に埋もれた白の布地。そして、お尻部分にプリントされたポップな絵柄――


(く、クマさん……)


 僕は思わず目を逸らし、近寄ろうとした足を止めてしまった。


 他人の履くものの好みなんて人それぞれだということは、僕も重々承知している。ましてや下着など、見られることもないのだから、別にどんな柄やデザインであっても気にかかることはない。


 ……それでも、女子高生が着けるにしては少々幼稚ようちな下着のチョイスに、僕は倒れている彼女が一体どんな子なのだろうと、ふしだらながらも気になってしまったのだ。


 そして僕は、倒れた彼女と目が合った。

 たなびく黒髪、吸い込まれてしまいそうな程に深い琥珀色をした瞳が、驚愕する僕の姿をくっきりととらえていた。


 ――偶然は偶然を呼ぶのか……はたまた、これは神の悪戯いたずらなのだろうか。


 その子は僕と同じクラスに居た、あの不思議ちゃんだった。



 しかし、よくよく考えてみれば、彼女の住む部屋のあるアパートは僕の家から道を二つしか隔てていないのだし、こうして鉢合わせしてしまう可能性は十分にあったのかもしれない。


 でもいくら近いとはいえ、学校が始まった初日に、しかもこうして秒に至るまで正確に、まるで意図して狙ったかのように出会い頭でぶつかる確率は、たぶん雷が当たる確率よりも低いのではないか?


「あ、あの……ごめん、だいじょう――」


「私は平気」


 彼女は慌てて差し出した僕の手を無視するようにそっけなく言葉を返して一人で立ち上がると、乱れたスカートの裾を両手ではたき、腰を折ってずり落ちたニーハイソックスを膝上まで引き上げた。

 女子高生にしてはかなり大きい胸に、肉付きの良い太腿。魅惑的な体格をしているせいで、彼女の何気ない一挙手一投足が妙に色っぽく映ってしまう。


「あ、あの……」


「あなたこそ大丈夫? 怪我はない?」


 本来なら僕がかけるべき言葉を先に言われてしまい、僕はまた困惑する。自分は数歩退いただけで済んだから良かったけれど、盛大にひっくり返ってしまっていた彼女の方が怪我をしていないか、逆に心配だった。


「私のことなら気にしないで。平気だから」


 その子は真っ直ぐな瞳をこちらに向け、本当に痛くもかゆくもないような顔で、そう答えた。

 

 ――紬希恋白。


 一昨日の自己紹介で刻まれた鮮烈な印象もあり、まだ顔も名前もはっきり憶えられていないクラスメイトの中で、唯一彼女の顔と名前だけははっきりと覚えていた。

 細身の体型だが、女性として成長すべき部分はしっかり成長していて、でも背丈は僕よりも少し低め。艶やかな黒髪と、すべすべとした白い肌が、朝日を受けて眩しく光っている。


 そんなうるわしき乙女が、僕の隣を無言で歩いていた。登校初日から女子と肩を並べて歩けるのは、男子にとって夢のような話なのかもしれない。


 それでも正直、僕はこの子の隣を歩きたくなかった。確かに見た目は可愛らしいけれど、自己紹介の時の言葉がどうも気になって、話しかけ辛い。

 「普通の人間には決して持てない特別な力を持っている方――」とか何とか言っていたけれど、もしそうなら、僕みたいに誰よりも極々平凡な男子生徒なんて、すぐに興味を失ってしまうだろう。


 そんなことを思いながら、ちらちら横目で彼女を観察していると、ふと彼女の着ているブレザーの胸元に目が行った。普通より大きめの膨らみを覆い、張り詰めている制服の胸ポケットに、何かが差し込まれていた。


 ――それは、小さなシロクマの縫いぐるみだった。


 手のひらよりは少し大きいだろうか? 丸耳を生やし、饅頭まんじゅうのようにふくれた頭が、ポケットの口からひょこりと覗いている。

 しかも、その縫いぐるみは何故か痛々しいくらいに継ぎ接ぎだらけでボロボロだった。生地は古雑巾みたいに色せていて、縫い付けられた部分も所々がほつれてしまっている。見るからに汚らしかったし、少し……いや、かなり臭そうだった。


「彼のことが気になるの?」


 その縫いぐるみに気を取られていると、唐突に紬希がそう口にしたものだから、僕は思わず「えっ?」と彼女の方を見る。


 紬希の目線は僕の方には向いておらず、胸元に差し込まれた縫いぐるみの方に向けられていた。


「……そう、彼のこと、とても気に入ったんだ。……ふぅん、新しい友達になれるかもね」


 彼女の口から呟かれたその一言は、果たして僕に向けての言葉だったのか、それとも縫いぐるみに向けての言葉だったのか、僕にはよく分からなかった。


「……あの、その縫いぐるみ、好きなの?」


 思い切ってそう聞いてみると、彼女はこう返した。


「クマッパチ」


「……はい?」


「『クマッパチ』 それが、この子の名前」


 いきなり何を言われるかと思いきや、この縫いぐるみにはきちんと名前が付けられていた。

 しかも、その妙ちきりんなネーミングセンスに、僕は思わず笑ってしまいそうになる。


「私の、たった一人のお友達なの」


 紬希恋白――彼女は、少なくとも僕の考える並の女子高生像から完全に逸脱いつだつしていた。


 要するに、普通ではなかった。普通の女子高生なら、人間以外の友達(それが超能力者であれ、汚いシロクマの縫いぐるみであれ)を作ろうなんて、まず考えないからだ。

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