4月7日(日) ドアの隙間より覗く視線

4月7日(日) 天気…曇り



 土曜日の入学式を終え、日曜――つまり今日の休日を挟んで、明日から高校生活の幕開けとなる。その準備日となる今日、僕は何をしていたのかというと……


 両親に連れられ、引っ越した家の近所の人たちへ挨拶をして回っていた。


 何かと余計なところで律儀りちぎになる僕の両親は、引越し先の家の近所という近所をしらみ潰しに尋ねては挨拶を交わしていった。

 基本、挨拶あいさつ文句は親任せで、僕は横でただペコペコ頭を下げるだけ。どうしてこんなことをしなければならないのか、正直言って面倒臭かった。


 でも、近所の人たちは皆優しい人ばかりで、訪ねる度に自分の庭で採れた野菜やら手作りクッキーやらをお裾分すそわけしてもらった。


「ここの近所はみんな良い人ばかりで安心したよ。引越してきて正解だったね」


お裾分けの入った袋を両手に抱えたお父さんは笑顔でそう言い、お母さんも「そうね、皆さん気前も良いみたいだし」と、袋の中身をチラと見ながら嬉しそうに頷いていた。


 一方で、昨日入学式を終えたばかりの僕は、やはりまだこの町に馴染めていないところが多く、近所を挨拶して回っている間も、ずっとそわそわして落ち着かなかった。


「――次は、この部屋だな」


 そうして、挨拶回りもようやく終わりに差し掛かり、次に僕たちが訪れたのは、二階建ての薄汚れた小さなアパート。

 一部屋一部屋を巡り、最後の部屋である二階の角部屋のインターホンを押し、相手が出てくるのを待った。


 扉の奥から足音が近づき、鍵が外れ、用心深いのかドアチェーンの掛けられる音がして、ゆっくりと扉が開いた。


 そして、僅かにできた扉の隙間から覗いた顔を見た途端、僕は思わず一歩退いてしまう。


 部屋から現れたのは、昨日の入学式の日、クラスの前で意味不明な自己紹介をして全員の視線をさらっていった、あの黒髪美貌の不思議ちゃんだった。

 驚いたことに、このアパートの隅にある部屋は彼女の自宅だったのである。


 扉の前に居た僕のお父さんが、出てきた彼女に軽く挨拶を交わし、自分たちがここへ引っ越してきた新しい住人であることを告げた。それから彼女に、両親の誰かを呼んでほしいと頼んだ。


 しかし彼女は扉の前に立ったまま、親を呼ぼうと奥に戻る様子も無く、表情一つ変えずに首を横に振り、それから静かに口を開いた。


「……今、この家には私一人しか居ません。あと、両親は一ヶ月前に離婚したので、今は私とお母さんとの二人暮らしです。お母さんも、一週間前に仕事に出てたきり帰ってません。いつ戻って来るのかも、分かりません」


 彼女は言い淀むことなく、まるで教科書を音読するような機械的な声で、すらすらと感情の無い言葉を並べ立てた。


 しばしの間、両者の間に沈黙が流れた。少しして僕の父親は困った顔をしながら「……では、お母さんが戻ってきたらよろしくお伝えください」と言い残して軽く礼をし、母親と共に早々とその場を立ち去っていった。

 僕も両親の後に続こうとして、ちらと扉の方を振り返る。


 ――刹那、僕の背筋に悪寒が走った。


 半開きになった扉の隙間から、顔を覗かせたままの彼女と目が合ってしまった。

 彼女は、立ち去ろうとする僕の背中を、無言のままじっと見つめ続けていた。瞬き一つせずに。


 彼女の大きな琥白色の瞳に吸い込まれてしまいそうになり、怖くなった僕は慌てて顔を背け、外階段を下りていく両親の後を追いかけた。



「さっきの子……ずっと一人で大丈夫なのかな?」


 アパートから出ると、心配になった僕の父親が、独り言のように小さく呟いた。


「分からないけれど、あまり関わらない方が良さそうな雰囲気だったわ。世の中には色々な家庭事情があるって聞くもの。ああいう根暗な子だって中には居るわよ」

「尋斗も、新しい学校で変な奴とは関わらないようにしろよ」


 両親からそう釘を打たれて、僕は言い出そうとした言葉を喉の奥に引っ込めた。


 ……言える訳がなかった。あの子が、自分の新しいクラスメイトの一人だなんて。

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