最終回 君だけのヒーロー

「美須ニアは、円舞会再生の為に必要な犠牲だ」


 真正面からやり合うって……正直自信がない。

 一度もケンカなんてしたことがないんだから。

 新格闘術の動画、ヒーローのアクション動画、何千回、何万回と観てただけ。

 ワルツを聴きながらずっと観ていた。

 でも、それでも、大きな瞳に涙を溜めている美須さんを助けたい。


「そんなこと、絶対させない」


 俺は震える拳を強く握り締めた。

 同時に、重たい衝撃が胴体に伝わり、後ろから1回転してしまう。


「……永利、ヒーローごっこの続きだ、来い、もう二度と起きれないようにしてやる。俺がしてやれる最期の務めだ」

「う、うぅ」


 今までの人達よりも重い、重すぎて起き上がれない……。

 痛すぎて吐き気が止まらない。

 

「はは…………」


 渇いた笑い声。

 徐々に、哀愁漂う低音からどんどん音量が大きくなる少し暗めのワルツ。

 聴き慣れた冒頭が、体を、また、あぁ言うことを聞いてくれない。

 頭を押さえて、俺はふらふらになりながら立ち上がる。

 カッターナイフを手に、俺の腕が動き出す。

 荒川さんへ、確実に殺意を向けて体が動く。

 刃は、荒川さんの頬を掠める。

 皮膚が薄っすらと裂けて、鮮血が飛び散った。

 カッターナイフを握る手首を掴み、横に押しのけた荒川さんは、硬く重い拳を俺の顔面にめり込ませる。

 それなのに痛みを感じないのは、麻痺しているせい? 頭に流れるワルツのせい?

 一度浮いた片足は倒れまいと白い床を踏みつけ、反対の手で荒川さんの腹へ。


「円お嬢さん、余計なことを……」


 荒川さんに顎を押され、軽々と俺の体は宙に浮いてしまう。

 1回転しながら床に落下。

 苦しい、それなのに体は止まることを知らず、流れるように起き上がった。

 荒川さんの右肩にカッターナイフを突く。

 かなりの筋肉が硬く、深くは刺さらない。

 刃先が少し埋まる程度で、荒川さんは平然と、俺の頭を掴んだ。

 そして、床に思い切り叩きつけてきた。

 一瞬視界がぐらつく。

 白い床に血が、飛び散る。

 俺の両手は床を押さえ、後頭部で荒川さんの顎を突いた。

 よろけた荒川さんに正面を向け、心臓目掛けてカッターナイフが動く。


「んんーっ!!!!」


 耳に届いた、こもった悲鳴。同時に俺の手が止まる。

 

「美須さん?」


 涙を零し、震える美須さんが歪む視界の中に映る。

 怖がってるの? 美須さん。


「大丈夫……安心して、俺が一緒だから、怖くないよ」


 勝手に口がそう動いた。頭のどこかで聞いたことがある言葉が出てきたんだ。

 濡れながら目を細める美須さんが鮮明に映る。小さく何度も頷いてくれた。

 カチャ、と何か機械的な音が側頭部辺りから聴こえた。

 冷たい、黒い塊……拳銃が、俺の頭に突き付けられる。

 俺が握り締めるカッターナイフの刃先は、荒川さんの喉近くに。

 心臓がバクバクと痛い。

 全身に痛みが走る、目を覆う血の汗がさらに自覚させる。

 荒川さんは鼻血を垂らし、頬や右肩から血が滲む。


「荒川さん……」

「永利、ヒーローごっこは、終わりだ」


 俺も、荒川さんも息が切れている。


「終わってないし、ごっこじゃない、俺、美須さんのヒーローだから」

「特撮ヒーローの観すぎだ」

「あのギフトカード」

「……知らん」

「俺、ワルツ、好きだから」

「俺の趣味ではない」

「美須さん、工作が得意で、だから今度一緒に」

「切原永利、さっきから何を……っ?!」


 外から騒がしいぐらいのサイレンが響き渡る。


「救急車……? 誰がそんなものを」


 俺と荒川さんは同時に手を下ろす。

 荒川さんは窓へ身を乗り出し、外を覗く。

 

「み、美須さん!」


 その隙に俺は美須さんに駆け寄り、口に巻かれた布を外す。

 両手足を縛るロープをカッターナイフで切ると、美須さんはいきなり俺に抱き着く。

 や、や、柔らかい感触が!


「永利君!! うぅあうえうぅう!!」

「み、みみみ、美須さん。ううん、美須さん、良かった無事で……」

「先輩がぁ……ヨーちゃんがぁ……」


 ボロボロと泣き崩れる美須さんに、俺は背中を優しく撫でる。

 美須さんは、目の前で円先輩が撃たれたのを見たんだ。

 想像できないくらい怖かっただろう、美須さんを助けられたのは良かったけど、円先輩は……どうして、ここに?


「救急車を呼びました。ヨーちゃんと円さんをすぐに」


 ガラス扉が開き、低く抑えのきいた声が響く。


「あ、ぱ、パパ!」


 美須鋸太さんが遅れて堂々と入ってきた。

 ぞろぞろと救急隊が駆けつける。

 黒野さんと、円先輩が担架で運ばれていく。

 円先輩の手から滑り落ちたのは、スマホだった。

 液晶には『ドナウ川のさざなみ』と表記されている再生画面。


「美須鋸太……」

「取り返しのつかないことにならなくて良かった。我々はまだやり直せます。一度円舞会を隅に置いて冷静になってください」


 鋸太さんは静かに優しく、美須さんを見つめる。


「…………」


 荒川さんは黙り込んだまま、俺達を見回した後、今も気絶して倒れている社長を見下ろす。


「……他の奴らは、もう拘束されたのか」

「えぇ、永利君が落とした構成員も、ヨーちゃんが倒した構成員共に確保した。うちの護衛は優秀でね」

「あ、そ、そうなんだ」


 ちょっとホッとした。


「少し席を外してくれ、考え事がしたい」


 冷たさのない眼差しで俺達を睨む荒川さんはどこか寂し気に映る。


「分かりました。ニア、永利君、行きましょう」


 このまま真っ直ぐに帰っていいのか、迷う俺の両足は白い床から離れない。

 荒川さんと、次に会えるなんて分からないし、ハッキリ確かめたいことがある。


「……永利君」


 美須さんに袖を引っ張られるけど、俺は、ちょっと待って、と小さく零す。


「あ、あの、荒川さん!」

「なんだ?」

「荒川さんは俺の、と、と、とう、とさ、とと」


 いざ、訊こうと思ったら、口が突然ぎこちなくなる。

 なんでだよ俺、確かめるだけじゃん、どうせ分からない、とか知らん、で終わりなんだからさ、軽く訊けばいい。


「……家族は、いますか?」


 なんで回りくどい訊き方しちゃってんの俺!

 思わず自分の頬を叩いてしまう。


会長おやじがいる円舞会、それこそが俺の家族だ」

「そ、そうじゃなくて、本当の! 血の繋がった家族とか!」

「……随分前に、絶縁した」

「俺、父さん、いないんです。だから、その、なんていうか、今度おススメのワルツ教えてください。ギフトカードで買います」

「知らんと言っただろう」


 フン、と鼻で笑った荒川さんの返事は予想通り。

 俺は小さく会釈をして、美須さんと一緒にこのワンフロアから出ようと背を向けた。


「待て」


 荒川さんに呼び止められ、俺はまた両足を床にくっつけた。


「は、はい?」

「シベリウス……第44番。それとドナウ川のさざ波、俺も、聴いている」


 表情に変化はないけど、眉間に皺が寄っている。


「それだけだ、さっさと行け」


 荒川さんは背中を向けて、倒れている社長のもとへ。


「さ、探してみます!」


 オススメ、教えてくれた。

 胸が温かくなったような気がして、俺の口は緩んでしまう。

 鋸太さんの背中を追い、ゆっくり階段を下りる。


「永利君、顔中傷だらけ。ヨーちゃんにも迷惑かけて、本当にごめんなさい」

「そ、そんな、悪いのは円舞会の奴らだよ。とにかく、美須さんが無事でよかった!」

「永利君とヨーちゃんのおかげだよ! あ、もちろん、えとパパも」

「いや、謝らないといけないのは私だ……何もできず、情けない親だよ。帰ったら、ゆっくり話そう」


 なんだかまだ色々と謎が残っているのかもしれない。


「あ、美須さん、洗って返すね、御守り」


 血がついてしまったままのカッターナイフは、乾いても輝きを放っている。

 さすがにそのまま返すのは申し訳ない。


「じゃあ今度、永利君の家に遊びに行くね」

「えっ! う、うん……」

「ヨーちゃんと一緒に!」

「は、はぃ」

「ふふ、永利君、立派なヒーローだね!」

「え、そ、そう?」

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