第40話 最後の救出

 妙に気持ち悪く思えた。

 2階から落ちて無事とは言えないはず、破片まみれになって倒れているだろうと予想したのに、いなくなっているなんて……。

 僕が窓の外を見下ろしたのとほぼ同時、頭よりもっと上からはたくような衝撃音が聴こえた。


「ちょっと、今の音なに?!」

「わ、分かんない」

「ニアが危ない! 急げ!!」


 黒野さんに急かされ、僕は躓きそうになりながら背中を追う。

 空の部屋ばかりのビル。階段を駆け抜ける。

 聴いたことのない音なのに、気持ち悪さが加速していく。

 5階は……透明なガラス扉に閉ざされたワンフロア。

 最初に目に入ったのは、ブロンドのサラサラとした長い髪に大きなブラウンの瞳を揺らして今にも泣き崩れそうな表情で座り込んでいる。

 両腕を縛られ、口は布か何かを巻かれてしまって、うまく喋れない様子。

 良かった! 美須さんに怪我はなさそう。

 心の底から安心できたのも束の間、美須さんよりも手前にいる複数の人物に焦点を当てると、一気に気持ち悪さが体を突き抜けた。

 赤い液体が白い床を汚している。

 見慣れた学校の女子制服を着た人物は仰向けに倒れているけど、舞曲運送の運転手に上体を抱えられて顔までは見えない。

 黒い塊は重々しく、一目で凶器だと認識できた。

 その凶器を片手に持ち、静かに微笑むのは、舞曲運送の社長であり円舞会の会長である舞曲さん。

 白い床に持ち主を失くして転がるのは、ヘッドホン。


「…………え」


 間抜けな声が喉から意図せず零れてしまう。


「あの人、もしかして中庭でアンタと話してた人じゃないの」


 黒野さんの言葉が引き金に、俺の中を駆け巡った事実。

 意味深い口調で俺を茶化す円先輩が脳内に浮かび上がる。

 かなりの出血量だと思う、白い床に水溜まりのように集まっている。


「円先輩っ!?」


 ガラス扉を押し開け、俺は叫んだ。


「んーっ!!」


 美須さんが必死に何かを言おうとしてくれたが、分からない。

 俺の前に黒野さんが遅れて立ち、手で動きを止める。

 舞曲社長は、俺を見た瞬間、微笑みを消して顔中の皺がくしゃくしゃになるほど怒りに変わっていく。


「荒川君、どいうことだ。君は、彼を消したと言ったじゃないか」


 荒川さんが……円先輩を胸に抱き起している。

 険しい表情を浮かべ、


「何故ここに来た!? 逃げろと言ったはずだ!!」


 怒声を響かせた。

 ビリビリと痺れるほどの声量に、俺の体が一瞬跳ねてしまう。

 それも相まって言葉が出てこない。

 倒れている円先輩は遠くを見つめ、口からも血を零す。


「逃げろだと? ははぁ……ふざけるんじゃねぇぞ!! 荒川ぁ!!」


 荒川さん以上に怒声を響かせた社長の本性に、足が竦む。

 玩具でしか見たことがない拳銃が、本物? が目の前にある。

 俺と黒野さんに向けられてしまう。

 黒野さんはそれでも動かず、俺を守るように立つ。


「どけ小娘!! 警察一族か知らねぇが、ガキみてぇにヒーローごっこか? 黒野がなんだ! あぁでもお前の父親はしがないスタントマンだったか?」


 社長は鼻で笑う。

 黒野さんのお父さんは、スタントマン。


「最期はガキ守ってサツの車に跳ねられた。皮肉よな?」

「…………」


 頭が霞む、思い出そうとすればするほど、何かが邪魔して……。


「なぁ切原永利君?」


 なんで俺に訊くんだよ、そんなこと言われても分からない。


「……え、あ、その」

「舞曲社長、ひとつ訊かせてください」


 社長は黙って黒野さんに拳銃の先を向ける。

 黒野さんは社長を睨み、1歩ずつゆっくり近づいていく。


「え、黒野さん、危ないよ」

「……切原に怪我をさせたのは、社長ですか?」

「はぁ? 何を訊くのかと思えば、ナイフで軽く切っただけだよ、黒野の子」


 鼻で笑う社長の手が、少し緩んだ。

 その隙を見逃さない黒野さんは深く1歩を踏み込む。

 無駄のない直線に振り上げられた黒野さんの右脚が、社長の手首に直撃。

 

「ぐっ!?」


 離れた拳銃は床を何回転もしながら滑っていく。


「スタンガンで痺れさせた分……これが、切原を怪我させた分!!」


 振り上げたままの右脚を、今度は社長の鼻へ押し込んだ!

 社長は仰け反り、よろけながら鼻を押さえると、何が起きたのか分からない表情を浮かべている。

 黒野さんは休む暇なく、社長の顎を掴む。


「これは、ニアを苦しめた分!!!!」


 黒野さんは一度首を後ろに引き、勢いをつけて社長の眉間から額部分へ強烈な頭突きをくらわせた。

 うわぁ、鈍い音がよく聴こえる……痛そう……。 

 社長は仰向けに倒れてしまう。


「す、凄い、でも黒野さん、あんな危ないことしたらダメだって! もし撃たれたら大変なことに!」

「うるさい、やられっぱなしは嫌いなの。さぁ、そこの荒川さん? 救急車を呼びますから、先輩を外に」 

「もう遅い」


 円先輩を床へ寝かせ、荒川さんは立ち上がった。

 微かに口元を緩ませている円先輩。

 希望を見出したように表情が明るく見えた。


「円お嬢さんは死を、望んでいる。これ以上苦しまずに済むようにな、自ら死を選んだ。お前達は、今すぐ立ち去れ」


 社長が持っていた拳銃を握り締めた荒川さん。


「何言ってんのよ、今すぐ助けないと」

「黙れ」


 鼓膜が震えるほどの破裂音が響く。

 体は自然と震え、思わず耳を塞いだ。

 短く呻いた声と床に飛び散る赤い液体が……横に。

 黒野さんが右足から血を流し、蹲って倒れていた。


「黒野さん!?」

「んんんんんんー!!」


 美須さんのテープで塞がれた悲鳴。

 銃を発砲したんだ、荒川さんが黒野さんに向けて、平然と冷めた目つきで今度は俺に向ける。


「切原永利、お前もだ。さっさと黒野を連れて逃げろ」


 逃げるなんて……黒野さん、円先輩がこんな目に遭っているのに、放っておくなんて、あり得ない。

 美須さんの泣きじゃくる姿が目に焼きつく。


「い、嫌だ」


 躊躇いなどなく出た言葉。

 荒川さんはキャップ帽子の奥で光る鋭い目つきで俺を睨む。


「美須さんを助けるまで帰らない。返さなきゃいけない宝物もあるから」

「ヒーローごっこならよそでやれ、ここはそんな甘い場所ではない」

「美須さんを永遠の人質にするんでしょ? だったら俺、絶対諦めない!」


 荒川さんは大きく息を吐くと、拳銃を床に捨てた。

 そして、突然ボクシングや武道などで見るファイティングポーズをとる。


「そんなにヒーローごっこがしたいなら、気が済むまで相手をしてやる」

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