第36話 治療

「えと、あの……荒川、さん?」

「音で反応なんて、円お嬢さんと同じことを」

「円先輩?」

「気にするな」


 トラックが走り出す。


「切原永利、クラシックを聴いているのか?」

「え、えと、その、少し、ワルツだけ」

「今時の子供が、珍しいな」

「と、父さんの唯一の私物だから、あとは全部母さんが処分しちゃったから」

「そうなのか」

「あの、荒川さんもワルツを聴いているんですか?」

「知らん、お嬢さんの趣味だ」


 円先輩はおじさんの影響だ、って言ってたけど……。

 ますます怪しい。


「とにかく、家の近くまで送る。母親には自転車ですっころんでコンクリートの塀に衝突したとでも言っておけ。この話は一切するな」

「わ、分かりました。美須さんは、本当に戻ってくるんですよね?」


 いまいち信じられないけど、荒川さんはまだ他の人より信頼してもいいのかも。

 荒川さんは深くかぶったキャップ帽の奥で光る鋭い目つきで前を見ている。


「当たり前だ。大人しくしていろ」


 トラックは住宅街に入り、切原家の近くで停車。


「降りろ」


 言われるがまま俺は助手席から降りた。

 両足を地面につけて着地してから、俺は運転席を見上げる。

 ずっと真正面を向いている荒川さんの横顔。


「……あの、荒川さん」

「早く扉を閉めろ」

「あとひとつだけ、訊かせてください」

「閉めんか!!」


 ビリビリと痺れる怒声に、慌てて助手席の扉を閉めた。

 俺が一歩下がれば、迷いなくトラックは進みだす。

 荒川さん……。




「永利! 帰りが遅いと思えば、なにそのケガ……一体何があったの?!」


 予想、以上に動揺が隠せないでいる母さんは、帰ってきた俺の顔面を見るなり、肩を掴んで揺らしてきた。


「ちょっと自転車乗って転んで、コンクリートにぶつかったら、こうなった、かな」

「どんな転び方したのよ! 自転車は家に置いてあるのに、とにかく今すぐ病院に行くわよ!」

「わ、分かったって、押すなよ」


 車に押し込まれ、今度は病院へ……増々美須さんから遠のいていく。

 近所の整形外科に連れられて、真っ先に鼻を手当してもらうことになった。

 麻酔を打ってもらったものの縫われた鼻背の傷はとても痛い、しばらくは安静にしていないといけないらしい。


「本当に、コンクリートで打ったの?」


 医者は怪訝な顔をして、何度も同じことを訊いてくる。


「はい……そんな感じです」

「言い辛いことなら、早めに学校の先生や別の機関に相談するのもありだよ」


 イジメ的な方面で見られているような……。


「そ、そんなんじゃないです、本当にぶつかったんです」


 はぁ……疲れた。

 顔だけじゃなくて体中が痛い。


「永利、本当にイジメられてないのよね?」

「当たり前だって、俺、地味だし」

 

 自分で言うのもなんだけど……ね。


「車回してくるから入り口で待っていなさい」

「分かった」


 早足で駐車場に行く母さん。俺はため息を吐いてしまう。

 ポケットに入っている美須さんの大切なカッターナイフを手に取る。

 美須さん、大丈夫かな。


「あれ、もしかして美須家の」

「美須会長だ」


 美須家、美須会長?

 病院の入り口に堂々と停まる、高級セダンのシーマ。

 運転手は、神田さんじゃない。

 後部座席が開く。降りてきたのは美須さんのお父さん、美須鋸太さんだ。

 周りの注目など全く気にせず、俺に近づいてきた。

 ジッと見下ろされ、大きな影に覆われてしまう。

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