メイドと執事

藍依青糸

メイドと執事

 みなさん、職場に不満はありますか?


 私はあります。

 あぁ、勘違いしないでください。仕事自体は好きです。毎日誇りと熱意を持って働いています。雇い主の奥様がそれはそれは素晴らしいお方で、この人のためならどんな辛いことも耐えられます。職場はとても美しいお屋敷で、中にいるだけでうっとりしてしまいますし、お給料も驚くほど沢山いただいています。


 が、しかし。


「アメリアさん、洗濯を全てやり直しておいてください。それから、窓枠のホコリが拭き取れていません。掃除をやり直しておいてください」


「.......」


 気の合わない同僚に、毎日いびられています。


 目の前で表情ひとつ変えず、私が朝6時から始めた仕事全てのやり直してを命じる男。

 この屋敷にいる唯一の日本人、カケル・ヤシキです。

 きっちりと整髪剤で撫で付けられた黒髪に、切れ長な黒い瞳と通った鼻筋。日本人は若く見えると言いますが、本当にティーンに見える顔立ちです。しかし、ティーンには決して手が出せない汚れもシワもない高級感のあるスーツと白手袋が、すらりと引き締まった体をどこまでも完璧に包んでいて、オーダーメイドの力を感じました。

 そう、この男は。


 この格式ある広大な屋敷にいて全く違和感を感じない、プロの“執事”です。


「アメリアさん、エプロンにシワがよっています。今すぐアイロンがかかった物に取り替えてください」


 そして私、アメリア・キャンベルは、このお屋敷のメイドです。ヤシキより8つ年下の18歳で、身長もヤシキの胸ほどしかないチビですが、プロのメイドです。確かに、目の前の日本人執事よりは家事が苦手ですが、それでも一生懸命やっています。

 確かに、今朝の洗濯物に奥様がお好きな柔軟剤を入れ忘れましたし、窓枠は拭き忘れました。確かに、メイド服のスカートの上にかけたエプロンにシワがよっています。ええ、確かにヤシキの指摘はもっともです。仕事はやり直します。プロですから。しかし、私は毎日奥様のために一生懸命働いています。

 仕事で1番大事な熱意は、持っているのです。


「アメリアさん、早く仕事をはじめてください。奥様があなたに支払われている賃金は施しではありませ……失礼、定時ですので失礼させていただきます。これ以上ここにいても私はビタ一文も徳をしませんから」


 なので、こんな熱意も何も無い守銭奴執事にいびられる筋合いはありません。


 この男は、この仕事に誇りも何も持っていません。お金がもらえればなんでも良いのです。何せ毎日自分で勝手に決めた定時で帰ります。

 執事のくせに屋敷に住み込みませんし、仕事は絶対に8時から5時までしかしません。奥様がどんなに困っていらしても、どんなに使用人たちが忙しくしていても、5時を迎えた瞬間踵を返し屋敷を去ります。

 ある日どうしても夜の仕事をしてほしいと頼み込んだ奥様に、この男はあろうことか別料金と残業代を要求しました。一時間ごとに私の一日のお給料分の金額を要求していました。何事でしょうか。

 ただでさえこの男、毎月このお屋敷の使用人の中で一番お給料をもらっています。それなのにまだお金を欲しがるのです。何事でしょうか。奥様のためならば命をかけられる私よりも、金のことしか頭にないこの男が奥様に重宝されているのです。この星は理不尽の惑星だったのでしょうか。


「……生え際から禿げてしまえばいいのに」


 思わず溢れた言葉を、ヤシキは耳ざとく聞き逃しません。


「聞こえていますよアメリアさん。人間の生え際はデリケートですから、みだりに罵倒してはいけません。禿げてしまいます」


「頭頂部から禿げてしまえ」


「頭頂部の繊細さは人体の中でも随一ですよ。無闇に刺激しては禿げてしまいます」


「禿げろ!」


「アメリアさん、人間の心はとてもセンシティブです。優しい言葉以外をかければ禿げてしまいます、気をつけてください」


「〜〜!! やっぱりヤシキなんて嫌いです! いつも私を馬鹿にして! 熱意も誇りも、奥様への敬意もないくせに!」


「私は職場に金銭以外求めないので。おっと、5分も無賃会話をしてしまいました。早急に失礼します」


 金に意地汚い執事はいつも通り屋敷を去っていきました。あのすまし顔に水溜りの泥がはねるよう祈っておきました。さらに携帯を落として画面が割れるジャパニーズノロイもかけておきました。

 すると、なんの前触れもなく。


「アメリア、アメリア。いらっしゃいな」


「! 奥様!」


 ひょこり、とドアから笑顔をのぞかせ私を手招きするのは、私とこの屋敷のご主人様である奥様です。子どものような無邪気な仕草とは裏腹に、女神と見紛うような美貌はとても40に近いという年齢を感じさせません。みずみずしい白い肌も、美しい曲線のボディラインと柔らかなお胸も、ふとした時に香る匂いもどれもが妖艶で、同性の私ですらおかしな気持ちになってしまいます。


「アメリア、またカケルに怒られていたのね? かわいそうに、落ち込まないでね、私のかわいいアメリア」


「奥様……」


 言われるがまま奥様の寝室にお邪魔させていただいた私の頬を、滑らかな手が撫でてくださいます。奥様は使用人にもお優しい、聖母のようなお方なのです。

 孤児院でいじめられていた私を引き取ってくれたのも、10年前の奥様でした。あの孤児院には他に体の大きなこどもや頭の良い子、容姿の優れた子どもがいたはずなのに、奥様は孤立していた私を、かわいそうだともらってくださいました。贅沢な衣食住を与えてくださり、さらには勉強もさせていただきました。今では何と職まで奥様にいただいています。

 私は、本気でこの方のためなら命を投げ出せます。奥様のために働けることが、私の1番の喜びです。

 なので、ヤシキのようになんの敬意もなく奥様からお金を奪おうとするやからは絶対に許せません。3年前に突然執事としてこのお屋敷にやってきたヤシキだって奥様によくしてもらっているのに、奥様のことを財布と言い間違えた時は本当にジャパニーズカビキラーを飲ませてやろうかと思いました。3年間もこの男にいびられて私もよく法に触れずにいられたものです。


「かわいいアメリア。今日は楽しかった?」


「はい、奥様。お庭のお花が咲いていて、洗濯物を干すのがとても楽しかったです」


「まあ、よかった。今度また新しい花を植えましょうね。あら、もうこんな時間。アメリア、良い夢をみてね」


 ちゅ、と額にキスを落とされ、私はカチコチになって奥様の部屋を出ました。それから自分に与えられた部屋のベッドに入っても、暖かな気持ちのままでした。私は母を知りませんが、そんなもの奥様がいてくださるのなら知らなくて良かったとさえ思います。


 しかし、次の日にまた朝からヤシキにねちねちと昨日の洗濯物と掃除がまだ終わっていないことを怒られました。執事より小姑が向いていると思います。



 それからも、ヤシキだけが不満の日々は続きました。すっかり冬になり、雪が積もるような季節になっていました。

 そんな冬の夜。私は、1人サクサクと雪道を歩いていました。コートも着ていないので寒いのですが、そんなことは今どうでも良かったのです。

 先ほどお仕事のためにお屋敷を出発なさった奥様が、手袋を忘れていらっしゃいました。まだ車に追いつけるかもしれないと、私は奥様の手袋を持って走りました。そしたらなんと、本当に奥様の乗った車に追いついて手袋をお渡しできました。奥様に褒めていただきました。もうルンルンです。足が早くて良かったです。


「え、アメリアさん?」


 背後からかかったのは、なんとも間の抜けた声でした。振り返れば、黒いコートに両手を突っ込み、濃い緑のチェック柄のマフラーに小さな顔を埋めた黒髪の少年がいました。マフラーから出ている鼻だけが赤くなっています。


「……アメリアさん。こんな時間に、そんな格好で何をしているんですか? とうとう夜逃げですか?」


「こ、この馬鹿にした態度、ヤシキですか!? ヤシキですね!? どこぞの高校生かと思いました!」


「そこまで童顔ではないでしょうに」


 整髪料を落とし髪を下ろしたヤシキを初めてみましたが、本当に若く見えます。それなのに表情はしっかり嫌味ったらしいヤシキのもので、ジャパニーズホラーを感じました。


「まったく、プライベートでも職場を思い出させるなんてあなたはさすがですね。無賃で不快になる、つまり、この世で最も悪いことです」


「む」


 ヤシキはとんでもなく失礼なことを言いながら、自分の首からマフラーを解いて私に巻きつけ始めました。暖かいです。何事でしょうか。


「私のマンションはすぐそこです。来ますか?」


「行くわけないじゃないですか。ヤシキのばーかばーか!」


「はあ、おバカさんでしたね、あなたは。行くところが見つかるまでの間、私の部屋を無料で貸してあげると言ってるんですよ。3年も無賃であなたの面倒を見ているんです、もうこれくらいは誤差の範囲でしょう」


「おばかさんなのはヤシキです! 私、お屋敷に自分の部屋があります! ヤシキの部屋になんかいきません!」


「……ん?」


 ヤシキは首を傾げ、眉を歪めながら夜の空に目線をずらしました。それから、聞いたこともない飾らない声音で。


「……ああ、アメリア、まじで馬鹿だったな。なんだよ、俺の早とちりか」


「ど、どうしたんですかヤシキ、反抗期ですか。性格だけでなく口まで悪くなったらあなたおしまいですよ」


「金も出ないのにキャラ作るのめんどい。馬鹿相手に話すのめんどい」


 ヤシキは本当に気怠げにため息をつきました。

 それから、ポケットから出した片手でちょいちょいと私を手招きします。この男、本当にビジネス執事だったようです。普段はなんて粗野な態度なんでしょう。こんな男が奥様の執事をやっているなんて腹立たしすぎます。


「犬かお前は」


「ぶむ」


 ヤシキが呼んだから近づいたのに、いきなり頬をぎゅむ、と挟まれました。ジャパニーズニンジャ、もしここにいたらヤシキの毛根を死滅させてください。


「アメリア、あんまり仕事に入れ込みすぎるなよ」


「はぁ? 自分の熱意のなさを他人にまで強要しないでください! 私は奥様のために一生懸命」


「別に俺ほど割り切れって言ってるわけじゃねえ。……いざって時に、潰れず逃げられるくらいの心持ちでいろってことだ」


「?」


「ほら、勤勉なジャパニーズの言葉は素直に聞いとけ」


「ヤシキ、あなた日本人じゃなかったんですね。勤勉さをかけらも持っていないじゃないですか」


「バーカ、俺ほど勤勉な男はいないぞ。いくつ資格と職場経験持ってると思ってんだ。そんじょそこらのやつとは基本給がちげえんだよ」


「ヤシキはお金に魂売ってるんですか?」


「俺は35歳までに一生分稼いで引退する。それで南国に家買ってゴールデンレトリバーを飼って長い余生を楽しむんだよ」


 ヤシキはおもむろにコートを脱いで、ばさ、と頭から私にかけました。やっぱりとても暖かいです。何事でしょうか。


「風邪引くなよバカ」


 ヤシキは私のメイド服よりかなり薄着で夜の道に消えていきました。ヤシキの方が風邪を引くと思います。

 次の日、何事もなかったかのように完璧なビジネス執事姿をしたヤシキは完璧な仕事をしていました。もちろん8時きっかりから。ばかなので風邪をひかなかったようです。


「アメリアさん、廊下が水浸しです。掃除をしてください」


「バケツをひっくり返しただけで、絶賛掃除中です」


「自分で汚し、自分で掃除をして賃金を得る。あなたは錬金術師ですか?」


「バカにする暇があるなら手伝ってくださいよ!」


「毎分いくら出せますか」


「大嫌い! ヤシキなんて大嫌いです! いびりんぼ! 小姑!」


「おっと、私はこれから特別料金をいただいて奥様のお部屋を掃除し書類の整理をする予定があるのでした。さらに残業代とともに本日は夜間のお客様への対応もあるのです。アメリアさん、大人しく1人で掃除をしておいて下さい」


 なんでヤシキはこんなにも性格が悪いのに、仕事だけはできるのでしょうか。

 家事はもちろん、お客様への対応も奥様が読む難しい書類の整理も完璧だそうです。ボディーガードまがいのこともできるそうですし(もちろん別料金です)、ヘリも戦車も運転できるという噂があります。闇医者をやっていた疑惑もあります。6ヵ国語を話せるらしいという証言もあります。ただ、仕事に対する熱意は微塵もありません。奥様のことを金ズルと読んだ時は流石に殴りかかりました。


「はっ、わかった。ヤシキは性格と熱意と引き換えに仕事のスキルを得たんだ」


 気づきとともに水浸しの廊下を拭き終わった後は、いつも通り洗濯をしました。さらに今日はお客様がいらっしゃるので、他のメイドたちとお庭の雪かきもしておきます。


「アメリア、あんただけよヤシキさんとあんなに話せるのは」


 このそばかすがチャームポイントの茶髪のメイドは、いつも優しくしてくれる先輩です。さっきから私の3倍のスピードで雪かきをしています。尊敬します。


「ヤシキさんいつでも仕事は完璧だし、優秀だから奥様のおそばにいることが多いし。私みたいな下っ端メイドに話しかけてくれるような人じゃないのよね。それなのにアメリアにはよく話しかけてるし。あーあ、お屋敷にいる年数なら私の勝ちなのになあ」


「私はいびられているんです。ヤシキは私が特別嫌いなだけですよ」


「確かにアメリアが一番仕事できないけどねえ。長いことこのお屋敷にいるのに迷子になって、ここにきて初日のヤシキさんに連れてこられてたし。洗濯は下手だし食器は割るし、ヤシキさんの仕事を増やしてるのはあんたがナンバーワンよ」


「えへへ、照れます」


「照れてもいいから雪かきしてね」


 ヤシキは3年前、突然このお屋敷に執事としてやってきました。前職は何をしていたのか、なぜ日本人がこんなところで執事をしているのか、色々謎な男でした。

 ヤシキが働き始めた初日、私はお屋敷の中で迷子になっていました。初めて入った備品置き場の地下室が、背の高い棚で埋め尽くされた迷路のようで、出口がわからなくなってしまったのです。新しい箒をだきながら、地下室を2時間彷徨っていた私は、いきなり首根っこを掴まれました。


「可哀想なほどに動きに精彩がないコソ泥ですね」


 奴は私を見てそう言ったのです。思わず箒で殴りかかりました。箒が折れました。さらに私は両脇に手を入れられ、野良犬のように完全に抱えられてしまいました。じたばたと手足を動かしても全くヤシキにダメージを与えられなかった記憶があります。サムライ修行をしておくべきでした。


「可哀想なほど頭が足りないコソ泥ですね」


「コソ泥じゃありません! メイドです!」


「そんなことその格好を見ればわかります。ジョークが通じないおばかさんですね」


「初対面でなんて失礼なんですか!? あなた新入りですよね!? 私、先輩ですよ!?」


「この屋敷はなぜこんなポンコツを雇っているんでしょうか。他の執事やメイドは全員手練れでしたよ」


「ポンコツ!!」


 あまりの暴言に絶句しました。


「愛玩動物枠でしょうか。奥様はそういった趣味がおありらしいですから」


「愛玩動物!!!」


「おもしろ動物でしたか」


「ファニークリーチャー!!!!」


 ヤシキは私を小脇に抱え、スタスタと歩き出しました。そして、いつの間にかあれほど探していた地下室からの階段を登っています。


「ミスファニークリーチャー、お名前を伺っても?」


「アメリア・キャンベルです! ミスアメリア!!」


「驚きました。本当に事前情報にない名前です。あなた、ファニーな特殊工作員ですか?」


「メイドだってばこのお!!!」


 ぽかり、と一発だけ振り回した拳が男の胴に入りました。慌てて手を引っ込めて、恐る恐る奴の顔を見れば、なんともつまらなそうな顔をして私を見下ろしていました。


「メイド救出は通常業務外ですから、後で奥様に追加料金を請求しなくてはなりませんね」


 これがやつにいびられる毎日の始まりでした。今思い返してもイラつきます。


「アメリア、アメリア。いらっしゃいな」


「奥様!」


 またひょっこりとお部屋から顔を覗かせた奥様に手招きされて、大急ぎで駆け寄りました。奥様は優しく頭を撫でてくださいました。はあ、幸せ。いい匂いする。


「ふふふ、本当にかわいいわね、私のアメリア。いつまで経っても小さな子犬ちゃんみたい」


 ちゅ、と耳元にふっくらとした唇が寄せられました。驚いて動けないでいる私を、奥様はなぜか豪奢なベッドの上に連れていきました。あれ。


「今日は男の気分じゃないの。まっさらな子犬ちゃんと遊びたい気分なのよ」


 奥様は、メイド服のスカートの中にするりと腕を這わせてきました。

 あれ、あれ?


「アメリア、私のかわいいアメリア。いつもみたいに可愛く私を求めてね」


 あれ、あれえ、あれれえ? 今、私下着、降ろされかけてま、す?


 頭も体もガチガチになってしまった私は、ただひたすらに、奥様の手が身体を這う感覚に耐えていました。あれほど嬉しかったお休みのキスとは違う、ねっとりとした唇の感覚が、鎖骨に何度も当たります。それから、とうとう下着が、脱がされかけて。


「奥様、お客様がご到着です」


 いつの間にか、奥様の寝室にヤシキがいました。いつも通りかっちりとスーツを着て、白手袋をはめた手を胸に完璧なお辞儀をしています。


「早すぎるわカケル、金額に見合った働きをしなさい」


「申し訳ございません。しかし、すでにお客様をお通ししてしまいました」


「もう、仕方ないわね、着替えてすぐ行くわ。出て行って」


 ヤシキが部屋を出て行こうとしたので、私も慌てて部屋を出ました。奥様のお着替えをお邪魔することは、メイドとして許されません。

 部屋を出て立ち尽くしていると、いきりヤシキに着いてくるよう言われました。そのまま、備品置き場の地下室へ続く階段に連れ込まれます。


「アメリアさん、衣服の乱れを直してください」


「……」


「今のあなたをお客様のいらっしゃる屋敷内には戻せませんよ」


 見捨てられる。

 なぜそう思ったのかはわかりませんが、なぜか咄嗟にそう思った私は、ヤシキのスーツの端を握りました。ヤシキは一歩も動いていないのに。


「アメリアさん、あなた、この職場をやめてください。先程のは完全にセクハラです。犯罪行為ですよ」


「お、奥様はそんなこと……なさいません! 優しいお方なんです! 私を引き取ってくれ」


「では、あれは合意の上ですか? ああ、雇用主に迫られれば断るのは困難ですね。それはパワハラと言うんですよ」


「ちが……!」


「アメリアさん、仕事は所詮仕事です。辞めることが悪などということはありません」


「で、でも。私は、奥様のために、一生懸命」


「いいえ、アメリアさん。そのような我慢や自己犠牲は仕事に不要です。特にあなたのような安月給では、廊下を雑に掃除するぐらいがちょうど良いでしょう」


「お、お金お金うるさいんですよ! 私は奥様のためなら、なんでもできるんです! ヤシキみたいにお給料のために働いてるんじゃないんです! この仕事に……熱意と、誇りを……奥様、を……」


 なぜか涙が出てきて、思わず下をむきました。だって、ヤシキにこんなところ見せたくありません。仕事もできない泣き虫だと、絶対バカにされます。


「こんな職場さっさとやめちまえバカ。これ以上泣かされる前にな」


 ぐしゃ、と頭が大きな手に撫でられました。それから無理矢理真っ白なハンカチを握らされると、ヤシキは私を置いて地下室を出ていきました。

 私は涙が引っ込むまで、しばらく地下室の隅っこでじっとしていました。やっと涙が引っ込んだら、きちんと身だしなみを整え、もう迷うことなく階段を上がってお屋敷へと戻ります。ヤシキに、仕事は辞めないと言うつもりでした。


 しかし。


「あれ、廊下が汚れて.......掃除したんだけどな」


 廊下の真ん中に、何やら汚れがありました。こんなのを見られた日にはヤシキがどんないびりを言ってくるか分かりません。早く掃除をしなくては。


「あら、アメリア。戻ってきたのね、私の可愛い子犬ちゃん」


「.......おく、さま?」


 奥様は、なんだかとても美しいドレスを着ていらっしゃいました。

 体のラインがやけに強調された、真っ赤なドレスです。右手には、黒く光る拳銃がありました。


 奥様は、一糸まとわぬ姿を、真っ赤な血で染めて廊下にいらっしゃいました。


「こんな格好でごめんなさいね。すぐお風呂に入ってくるわ。こんな汚らしい血で汚れてしまって.......それでもアメリアは、私の事が好きよね?」


 奥様が開けた寝室のドアの中には、何か。



 血だらけの、大きな肉の、塊が。


 ふくよかな男、ヤシキと同じアジア人の、死体が。



「カケル」


「はい、奥様」


「片付けておいて。香港からのお客様だったから、何があっても二度と見つからないように片付けてね。それから、証拠も全部消して。同業者にも絶対に嗅ぎつけられてはダメよ」


「それぞれ別料金になります」


「はいはい、あなたはわかりやすくて大好きよ。もちろんその可愛いお顔もね。今夜は3人でベッドをすごしましょうか?」


「別料金になります」


「ふふふ。奮発しちゃおうかしら。最近疲れていたから、自分への御褒美に」


 ヤシキの首筋をねっとりと舐めた奥様は、どこからともなく現れたほかのメイド達にバスローブをかけられ、お風呂へと向かわれました。

 この場に残ったのは、いつも通りの顔をしたヤシキと私だけです。


「アメリアさん、掃除の邪魔ですから、この屋敷を出て行ってくれませんか?」


「.......ヤシ、キ、ヤシキ.......」


「アメリアさん、ここを出て行ってください」


「ヤシキ.......!! どう、どういう事!? ヤシキ、だっ、だってその、それ、死体で、奥様」


 私は奥様が大好きです。奥様のためなら、命をかけられます。

 でも、でも。


 人を殺すような人が、奥様だなんて。


 私は、どうすれば。この10年奥様だけを信じてきた私は、これから、どうすれば。

 奥様のために、この殺人を黙って、これまで通りお仕えすれば良いのでしょうか。

 それとも、奥様を、このことを警察に話すべきでしょうか。

 私は、あんなに良くしていただいた奥様を、裏切るのでしょうか。


 .......そうです、きっと奥様も殺す気はなかったはずです。だってあんなにお優しい方なのです。きっと乱暴かなにかをされて、自衛のためにやむなく銃を抜いただけです。なら、警察に行って奥様を裏切るなんてこと。


「アメリアさん。あなたは本当に、知らなかったのですね」


「え.......?」


「大丈夫です。アメリアさん、忙しいで、走ってここを出なさい。私も後から行きますから」


「あら、どこに行くのカケル? 私の可愛い子犬ちゃんに、何をする気なのかしら」


 いつの間にか、奥様が戻っていらっしゃいました。まだ、所々が赤黒いバスローブのままです。右手には拳銃があります。

 後ろに控えたメイドや執事達も、全員銃を持っています。


「奥様、今回の処理で、私はいくらいただけるのでしょうか」


 それなのに、ヤシキはいつも通りお金の話をし始めました。奥様は、長く細い指を、真っ赤な唇に当てて。


「50万」


「ドルですか、ユーロですか」


「ドルよ」


 ふう、とヤシキの鼻から息が漏れる音がしました。それから、軽く顔を伏せたヤシキは。


「残念ながら、奥様.......」


 ヤシキが、いきなり、ばっと私の肩を抱き寄せました。思わず見上げた顔は、いつものビジネス執事のものではありませんでした。


 ティーンに見える顔立ちのくせに、眉を跳ね上げ犬歯を見せ、やけに男らしく、獰猛に笑った顔でした。




「そんなしょっぱい金じゃあ、新しいクライアントが持ってきた仕事の方が割がいいんでね! 悪いが俺は金が全てだ!! お前達クソマフィア、ぶっ潰すぜ!」




「200万」


「おっと。奥様、この男の処理はおまかせください。香港マフィアの手口は把握済みです。殺したことにすら気づかせませんよ」


 ヤシキーーー!!!

 かっこよかったのは一瞬の幻覚だったのか、ヤシキはころりといつものビジネス執事の顔に戻りました。この守銭奴野郎。


「カケル、そんなあなただから私の隣に置いてあげるのよ。大好きでたまらないわ」


「奥様、今夜は可愛がってくださいませ」


 ねっとりとヤシキの顔を撫でる奥様に、ビジネス執事顔のまま抵抗しないヤシキ。


 私は、もうわけが分かりませんでした。奥様を裏切るなんて絶対にできないのに、殺人なんて大事を、黙っているなんてできません。どうすれば良いのでしょうか。目の前のヤシキみたいに、お金で全て判断できたら、こんな気持ちにならなかったのでしょうか。


「そうですよアメリアさん。だから言ったでしょう、仕事にあまり入れ込んではいけませんと」


 奥様にスーツをはだかれ鎖骨を吸われながら、ヤシキはいつも通りのビジネス執事顔で言い放ちました。周りに武器を構えた使用人たちが大勢いる中で、奥様もヤシキも平然としています。


「こういう時、自分が潰れず逃げられる程度には割り切るべきです。忠誠心と良心の間で心を削られるなんて、ビタ一文も発生しない不快になる行為、最悪です」


「その通りよアメリア。私の可愛い子犬ちゃん。さあ、いらっしゃい。いっぱい、ずぅっと可愛がってあげるわ。いつまでも小さな、私のアメリア」


 そうです、私は奥様にもらわれたのです。いじめられていた孤児院から助け出してもらって、贅沢な生活をさせてもらって。奥様に、散々良くしていただいたのです。


「.......お、おく、奥さ、ま」


 私の震えた、みっともなく不格好な声に。


 ふっ、と。突然ヤシキが、困ったように頬を緩めました。



「アメリア。お前が泣かない方を選べばいい。今回は俺、そっちにつくよ」



 ずるいです。いま、そんな優しい声を出されたら。


 揺らいでしまうでは無いですか。


「ヤ、ヤシキ.......!! 私、こんな怖いとこ、もう嫌です.......!! 奥様のセクハラも、もう嫌です!! 怖い! 体触られるの、怖い! 人殺し、やだぁ!!」


 ヤシキに持たされた、真っ白なハンカチを握りしめて泣きました。みっともなく、奥様と使用人たちの前で汚く泣きました。

 それを見た、ヤシキは。


「申し訳ございません奥様、可愛いファニークリーチャーがこういうので、このファミリーには海に沈んでいただきます。私、これでも動物好きなので」


「そう。ならさよならね、カケル」


 一斉に銃口がヤシキに向けられました。全身から、ざぁっと血の気が引きました。


「ヤシキ!!!」


 痛いほどの銃声と、火薬のにおい。それが、止んだ時には。


「はぁ、割に合わねぇ仕事」


 ヤシキと、見知らぬ制服を着て銃を抱えた7人の人達が、奥様達を組み伏せていました。どこから湧いたのでしょうか。

 当たりを見回せば、天井にぼっかり穴があいていましたし、奥様の寝室の隣の部屋のドアは蹴破られていました。まさか、ずっとそんなところに潜んでいたのでしょうか。


「インターポールのバイトは今後ナシだな。殺しの仕事並に割に合わない。なあ、バイト代上がんねぇ? 俺、オクサマに着いてたら200万ドル貰える予定だったんだぜ?」


「ヤシキ、お前そんな不謹慎なことを言うな! それに賃金は上がらん!! ジャパニーズのくせに図々しいやつだな!!」


「次の仕事はどうすっかな.......金持ちマダム相手にパイロットかな。飛行機乗ってる時間決まってるし」


「クソっ!! なんで上はこんなやつに協力を頼んだんだ.......!!」


「このマフィアのボスの好みの顔で、執事としても警官としても最強のポテンシャル持ってるからな俺。そりゃ金積んででも使うだろ」


 ふと、ヤシキが私の方を見ました。押さえつけていた奥様の顎先をぶん殴り、ぽいと興味なさげに捨ててこちらへ歩いてきます。スーツには、初めて見るシワがついていました。


「アメリア、泣くなよ。お前が泣かないっつーから俺はインターポールに寝返ったんだぜ」


 寝返ったあ!? と奥の方から叫び声がしましたが、ヤシキはガン無視でした。


「なあアメリア、泣くなよ。俺はお前と遊ぶの、無賃な行為の中じゃあ、結構好きだったんだぜ。俺、昔から犬が飼いたくてさ」


「わ、私は犬の代わりですか!?」


「ああ。ゴールデンレトリバーみたいだよ、お前」


 ヤシキは、ティーンの高校生のように笑って、私の金髪をわしゃわしゃと撫で回しました。


「なあ、アメリア。お前これからどうすんの?」


「.......」


 またぶわりと涙が上がってきました。ヤシキが慌ててハンカチで顔を拭いてくれました。


「い、行くところが、無くなっちゃいました、ヤシキ、私、いくとこ、信じてた人、無くなっちゃいました」


「おーおーおー.......泣くなよ.......」


「泣いてません!! バカにしないでください!!」


「してねぇって.......。なあアメリア、俺は東京にもマンション持ってるんだ。そこ行くか?」


「.......なんで?」


「だから、お前に貸してやるって言ってんだよ。無料でな。俺が持ってるマンションの中で、東京のが1番治安がいい。今どき日本語出来なくても、携帯がありゃあ困らねぇだろ」


「い、嫌です」


「アメリア、心配しなくても日本には夜家に入ってきて襲ってくる忍者も、道中いきなり斬りかかってくる侍もいないからな」


 嘘です。サムライもニンジャもいるもん。日本はまだ鎖国してるもん。

 というか、そんな理由で嫌がっているのではありません。


「.......ひ、1人は嫌です。ヤシキ、ヤシキがパイロットやるなら、私もそっちに行きます。働きます。そのお金は全部あげます。だ、だから、連れてってください」


 ヤシキは、ぽかんと目を丸くして動きません。

 それはそうです。ヤシキはたくさんお金をあげないと、動きません。私はバカなので、私にだけは無賃で何かしてくれると勘違いしてしまいそうですが、ヤシキはお金でしか動かないのです。


「ちょ、貯金も全部あげます。話してくれなくてもいいです。構わなくていいです。だから、近くにおいてくれるだけで、いいですから」


「.......こんなの、ワンコもびっくりだな」


「?」


 ヤシキは、ガシガシと乱暴に頭をかきました。整髪剤で撫でつけられていた髪がおりて、ぼさぼさになります。


「俺はな、アメリア。35までに一生分稼いで、そのあとは南国に家買ってゴールデンレトリバーと過ごす人生設計なんだよ」


「.......じゃ、じゃあ、35歳まで、それまで一緒に」


「結構早くワンコ貰っちゃったなあ。しかも俺より長生きしてくれそうだなんて、すげぇいいじゃん」


 子供のように笑ったヤシキに、わしゃわしゃと頭を撫でられました。思わず、ぽかんと見上げてしまいます。


「あ、悪い。あんなことの後に触られるの嫌だよな。さっきから無神経だったな」


 引っ込められた手を、慌てて掴みました。


「ううん、ヤシキになら、いいです。怖くないです。ヤシキに撫でられるのは、好きです。もっとお願いします」


『喋るワンコ破壊力やべぇ.......』


「? 日本語ですか?」


 何かボソボソと日本語を呟いていたヤシキは、ちゃんと頭を撫でてくれました。


「アメリア、多分こんな状況だから俺しか見えなくなってると思うんだがな。お前が他に行きたいところや隣に居たい奴ができたら、そっちに行けよ。俺のことは綺麗さっぱり捨てていけ」


「カケルが一緒じゃなきゃ嫌です」


「だーからー、今の状況じゃ刷り込みが.......って、カケル?」


 また撫でる手が止まったので、もう自分の頭を動かしておきました。まったく、これだからカケルは。私はあなたの手に撫でて欲しいんですよ。


「カケル、私ゴールデンレトリバーでもいいです。だって、犬は飼い主のこと、大好きですから。あんまり変わらなかったです」


『えええええ.......俺ロリコンだったのお? 可愛すぎるってこんなん.......』


「カケル、私日本語分かりません。私にもわかる言葉でお願いします。カケルの言ってること知りたいです。カケル」


『すげえ俺のこと好きじゃんこの子.......俺入れこんじゃうよこんなん.......人生初だよ、金もでないのに入れこむなんて。あ、金が出ても入れ込んだこと無かった』


「好きです、カケル。入れ込むなって言われたけど、私、また入れこんじゃいます」


「お前日本語分かってんじゃねえか!」


「?」


 お互い、ぽかんと口を開けてかたまりました。それから、同時にぷ、と吹き出しました。後ろで、奥様や使用人たちが警察らしき人達に引きずられていきました。さようなら皆さん。


「なあ、アメリア」


「はい、カケル」


「35になったら、2人でゴールデンレトリバー飼わないか?」


「私、犬大好きです!」


 やっぱり、大事なのは熱意でしょうか。

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メイドと執事 藍依青糸 @aonanishio

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