旅立ちを決めた時

増田朋美

旅立ちを決めた時

其の日も暑い日だった。今日も、相変わらず暑い日が続くのかあとテレビのアナウンサーは間延びして言っていた。まあ、そういう日が続いたあとは、雷竜のような大雨が降って、避難指示が出るようなすごい騒ぎになってしまうものである。最近の天候はその繰り返しである。中には、ひどい突風が吹いて、家の屋根を吹き飛ばしたとか、そういう被害が出てしまうことだってある。しかも最近はそれがだんだんひどくなって、安全な生活などどこかにいってしまっている。

その日、成田小夜子は、製鉄所にいた。いわゆる、クリスタルボウルの演奏を聞くためだ。製鉄所と言っても、製鉄所というのは名ばかりで、勉強したりとか、デスクワークの仕事をするための場所を貸している施設なのだ。小夜子はひと月前からここに毎日通っている。彼女がここに来たのは、彼女の両親の要請による。彼女が長らく引きこもってしまっているのを、両親は世間体が悪いとでも思ったのか、それとも、本気で彼女の将来をあんじているのかは不明だが、とにかく家から出て、別の場所に言ってくれというので、ここにこさせてもらっているのだ。小夜子は、そんな自分の両親を、自分を捨てたのではないかと、思ってしまっていた。多分きっと、自分の事を愛してくれていたのは、自分が学校に行っていい成績をとっていたときだけで、それ以外のものになってしまったら、愛されることもなくなるのだろう。そう思っていた。

だから、いつも気が重くて、憂鬱であった。両親が自分の事を捨てて、もうここに居るしか何も選択肢が無いということははっきりわかっていたし、もし可能であれば、もう死んだほうがいいのではないかとさえ、思った事もあった。だって、ここにいたって、何もすることもなかった。仕事だって、居るだけでひどく疲れてしまうのだから、できそうな仕事などなにもない。そんな彼女の事を、製鉄所の手伝い人である磯野水穂さんは、自律神経が乱れているのではないかと言ったが、そんな事、治せそうな薬は何も無いと、病院の先生に冷たくいわれて、渋々帰ってきた思い出があって、病院に行く気にはなれなかった。だから、製鉄所に通うことになっても、製鉄所の中ですることは何もなかった。仕方なく、彼女は、製鉄所で自伝小説のような、自分が引きこもりになってしまった経緯を、ルーズリーフに書いて過ごすしかなかった。

「今日は、竹村さんが来るよ。お前さんも、クリスタルボウルの演奏を聞いたらどうだ?」

と、一人で文章を書いている間に、杉ちゃんにいわれて、小夜子は仕方なくそれを聞くことにした。杉ちゃんにいわれたとおりに、製鉄所の食堂に行ってみる。そこには何人かほかの利用者たちもいた。そして、今日は調子がいいのか、水穂さんも、杉ちゃんに付き添われて食堂の椅子に座っていた。食堂の真ん中で、竹村優希さんが、自分の周りに、白い風呂桶みたいな形の楽器を7つ、設置していた。これが、クリスタルボウルである。水晶でできた、風呂桶のような形の楽器で、ヤギの皮で作ったマレットを使って、縁を叩いたり、擦ったりして、音を出す楽器である。

「じゃあ、クリスタルボウルを聞くのがはじめての方は手を上げてください。」

と、竹村さんは、利用者に言った。二人の利用者がはじめてだと手をあげる。其の中に、小夜子もいた。

「じゃあ、お二人がはじめてということなので、少し説明をさせて頂きましょうか。アメリカで、仏具だったシンギングボウルを改良してできた楽器です。音は音の整体と言われ、心を安定させる効果があるといわれます。聞いた方は、心が落ち着いたとか、のんびりした気持ちになったとか、そういう事をいわれる方が多いです。ただ、すべての方に、良いと言うわけでもありません。もし、聞いていて気分が悪くなってしまった方は遠慮なく部屋から出て頂いて結構ですから、リラックスして聞いてみてください。」

竹村さんはそう説明した。そんな、風呂桶みたいな楽器に、効果があるとは思えなかった。

「ちなみに、クリスタルボウル自体も種類がありまして、病人の病状により、クラシックフロステッドボウル、ウルトラライトボウル、アルケミーボウルの三種を使い分けます。今日は、かなりうつ気味の方が多いと言うことで、最も重症な方向けの、クラシックフロステッドボウルを使用しています。」

そんな事はどうでも良かったが、早く演奏を終わりにしてもらいたかった。どうせ自分のことになんて、なにか見てくれる事は無いのだから。

「それでは、演奏に入らせていただきます。では、45分の演奏ですが、穏やかな気持で聞いてください。」

竹村さんは、演奏を開始した。風呂桶のような形の楽器の縁を叩くと、お寺の鐘のような、不思議な音がした。ゴーン、ガーン、ギーンと。なんともいえない、不思議な音だった。叩くだけではなく、縁をマレットで擦って音を出す事もある。竹村さんがクリスタルボウルの縁をマレットでこすると、ぼんやりした、しかし力が湧いてくるような音が、静かになりだした。其の音は、普通のドの音ばかりではなく、それと一オクターブほど低い音が混じったりして、なんとも言えない不思議な音だった。でも、どこか癒やされるような音でもあった。なんて不思議な音だろう。竹村さんは涼しい顔をして、クリスタルボウルを叩いているのであるが、この不思議な音は、癒やされるとしか言いようがなかった。

「ありがとうございました。」

最後にド・ミ・ソの和音を聞かせて、竹村さんは、演奏を終えた。

「どうもありがとうございます!」

と、利用者たちは、竹村さんに頭を下げた。そして、竹村さんに謝礼と書かれた茶封筒を手渡して行く。中には、今回はおひねり制ですよね、なんて言って、定価である千円よりも高い金額を用意したと思われる利用者も居る。

小夜子も、急いで、竹村さんに千円を渡した。

「どうもありがとうございました。皆さんに、演奏を聞いていただけてとても嬉しいです。」

と、竹村さんは、それを受け取って、にこやかにカバンの中にしまった。

「ありがとうございます。何か千円とはもったいない演奏でした。竹村先生は、すごいですね。私達のこと、見てくれるんですから。」

と、利用者たちは竹村さんに言っている。

「私、はじめて聞いたけど、ホント素敵な演奏でしたよ。何か、南の島に居るようでした。いつか、本当の南の島に行ってみたいです!」

性格の明るい、別の利用者が、にこやかに笑ってそういって、

「成田小夜子さんは、なにか感想はないのですか?はじめてクリスタルボウルを聞いたと思うけど、なにか、感想を教えてくれませんか?」

と、小夜子に言った。小夜子は、発言に困ってしまう。ちゃんと感想をいわなきゃ行けないと思うのに、いざ聞かれてしまうと、それでは、どうしようとなってしまうのであった。

「小夜子さん、何もいわないなんて失礼よ。竹村先生がせっかく聞かせてくれたんだから、なにかいわなくちゃ。」

利用者にいわれて、小夜子は困ってしまった。

「何も感想がいえないほど感動したんですね。」

と、水穂さんが、彼女にそういうのである。

「そういうことだってありますよね。心に染みて簡単に感想などいえないという事もありますよね。」

小夜子は、水穂さんにいわれて、ええ、まあそういうことかなとだけ言った。

「そういうことじゃなくて、水穂さんに頼ってしまうのではなくて、ちゃんと自分で感想を言ったらどうなの?小夜子さん、あなた自分で動くことをしなさすぎよ。ちゃんと自分で感じて動く事をしなければ。もっとしっかりしなくちゃ。」

と、ちょっと気の強い別の利用者にいわれて小夜子はぎょっとする。この利用者がなんでも思っていることを口にしてしまう事も問題なのだが、たしかに小夜子も、自分で動くということが苦手で、命令されるのを待ってしまうくせがある。

「ご、ごめんなさい。」

「謝ればいいと思ってる。それじゃだめなのよ。もっと自分で動くとかそういう事をしなさいよ。だから、あなたはやることが見つからないんじゃないの?」

利用者にそういわれて、小夜子は、困ったかおというか、どうしようという顔をした。水穂さんがちょっと言いすぎですよと彼女に言ったが、利用者は逆にそれを刺激的に受け取ってしまったらしい。

「それでは、水穂さんまで迷惑かけて、謝っても意味はないわ。小夜子さん、誰かになにかしてもらうのを待っているんじゃなくて、自分でなにか変わるきっかけを掴んでみたら?」

と、利用者は、そういった。もちろん、利用者は小夜子を責めているわけではない。小夜子の事を思って言っているのであるが、小夜子は、怖いというかそれを、自分をだめな人間だと叱っている様に見てしまうのだ。

「春川さんちょっと言いすぎなのでは。僕は、あなたにそういう事をいわせるつもりで、言ったわけではありません。」

と、水穂さんが言った。でも春川という利用者は、小夜子に、今日はどうしても変わってほしいという顔をした。

「逆をいえば、春川さんのような人でなければ、いえませんよね。こういう事は。」

水穂さんの言う通り、春川さんでなければ、できないことでもあった。

「小夜子さん、もうちょっと、しっかりしなくちゃ。自分の意見をちゃんと言えるようにならないと、これからやっていけないわよ。私は、あなたの事を責めていっていわけでは無いの。それは、わかってくれるわよね?」

「春川さん、もう、いわなくていいですよ。きっと小夜子さんは、クリスタルボウルの音を聞いてしっかりわかってくれていますよ。だからもう小夜子さんを責めるのはおしまいにしましょう。」

水穂さんが優しい声で、そういう事を言ってくれたので、小夜子は、何故か申し訳なく思った。それは、水穂さんが容姿が綺麗だとかそういうことだけでは無いと思う。水穂さんになにかいわれると、なんとかしなければというか、変わらなければと思ってしまうのである。

「小夜子さんも、もう少し強くなってね。」

と、春川さんは、水穂さんにいわれて、小夜子を心配そうに見つめながら、そういった。

「それでは、次の演奏はいつにしましょうか。週に一度は来てくれと、いわれていますので、また同じ火曜日によろしいですか?」

と、竹村さんが、そう言うと、ええ、それじゃあそれでお願いしますと水穂さんが言った。竹村さんはにこやかに笑って、わかりましたといった。

「じゃあ、良かったですね。小夜子さんでしたっけ。なにか打ち込んでやれるものがあるといいですね。」

竹村さんは小夜子を見た。

「小夜子さん、竹村さんは、お弟子さんを今でも募集しているそうですよ。やる気さえあれば誰でもオッケーなんですって。まるで、林家三平ね。まあ、そういうことだから、やる気さえあれば、ちゃんと教えてくれるわ。」

春川さんが小夜子に言った。利用者たちは、そんな余分な事いわないでという顔をしていたが、誰かがそういわなければ、小夜子は永久に変わらないかもしれなかった。

「ああ、そういえばそうですね。竹村さんのクリスタルボウルの教室は好評のようですよ。フランツ・リストみたいですね。」

水穂さんが春川さんの話しに乗った。水穂さんも水穂さんで、小夜子の事を心配しているのだ。一人で何もせずに、製鉄所の中に居る彼女に、なにかやれることは無いか、本気で心配しているのだった。

でも、二人とも、竹村さんに弟子入りしてみない?と直接的に言うことはしなかった。本当はそうしたいが、小夜子に、そういう事を言うことは、やっぱりできないと思ってしまうのだ。

小夜子は、ここで、二人の言うことに答えを出さなければ行けないと言うことを感じ取った。そこで、これから自分の人生が変わっていくのかもしれない、と、思いながら、竹村さんに、

「あの、クリスタルボウルのレッスンしていただけないでしょうか?」

と口を開いて言ってみる。

竹村さんは、

「いいですよ。どうぞ気軽に入門してください。」

と、にこやかに言った。これでやっと、小夜子は、新しい人生に旅立つことができたのであった。それは春川さんのような事情がある人でないと促せないことでもあった。


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旅立ちを決めた時 増田朋美 @masubuchi4996

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