第19話
ある日の深夜。
アサナギのすすり泣きで男はめざめた。
「どうしたのかね」
「歩いていた時の夢をみたの」
「じきに慣れる」
「なぜ、殺さなかったの?」
「わからない。そっちの方が幸せだったかい?」
アサナギはなにもいわなかった。
そのまま朝までアサナギは泣きつづけた。
男はアサナギの住処を拠点にして活動するようになった。朝は湖の水で顔を洗い、夜は体を洗って、食事の支度に利用した。湖水は男が人生で経験してきた水の中で、もっとも新鮮で澄んでいた。キマイラに乗れば、今まで使用していた研究機関におもむくのも時間はかからない。二、三日研究施設に寝泊まりするため離れることもあったが、かならず帰ってきた。キマイラの羽音がきこえるたびに、アサナギは安堵の表情をうかべた。
「私は、あなたのことをなんとお呼びすればいいか」
しばらく共同生活をしたある日、アサナギはいった。湖畔からアヒルの鳴き声がする、星のきれいな夜のことだった。
「お名前をおしえてくださる?」
「本当の私の名前は捨てた」
男は吐き捨てるようにいった。
「君は私のことをマスターと呼べばいい」
「わかりました。マスター」
「腹はへらないかね? アサナギ」
アサナギは切り株になった自身の下半身をみつめる。
「ふしぎとお腹はへらないの。うごかないからかな? あー、あと、小鳥ちゃんが時々木の実をもってきてくれるの」
「根っこから栄養がきているんだ」
「そうなの? 時々、お腹のあたりがムズムズするんだけど、その時にきているのかしら」
蠱惑的な笑みをうかべ、アサナギはうつむく。
その目は過去をみているようにも、自身の体を憂いでいるようにも男にはみえた。
「体を拭いてあげよう。お風呂に入れないからきもちわるいだろう」
男は湖でタオルを濡らしてアサナギのもとへもどった。
「恥ずかしいです」
「私には性欲がない」
男の凪いだ目をまえにして、アサナギは瞠目した。
「それに少女の体に欲情する性癖は持ち合わせていないと自負している」
「マァ、失礼!」
アサナギは頬をふくらませた。
「ねぇ、マスター」
「なんだ」
「マスターって、男、ですよね?」
「なにをいまさら」
「マスターって見た目だけなら女性でもいけるとおもいますよ」
アサナギは頬を染めながらも衣服を脱いだ。
「そうおもったほうが私自身も気が楽」
未発達な胸とやせ細った体躯が男のまえに晒される。服で隠されていた、切り株と下腹部をつないだ縫い目が、まだ癒えることなく紫に変色していた。細い根がいくつもアサナギの体に入りこみ、彼女の薄い肌の下で緑色に発光している。
男はその体をていねいに磨いた。
「灰だらけの町にいた男は、ハイエナみたいだった。鼻息が荒くて、あそこがとっても大きくて、それを私の……もうないけど、あそこに入れて激しくふってくるの」
アサナギは目をほそめた。
「あの時は痛かった。でも、今はとってもここちいい」
体を拭き終えると、アサナギはあくびをした。
男はホットココアを作ることにした。湯を沸かしながら、男はアサナギに問うた。
「君は私をうらんでいるか?」
「急にどうしたんですか?」
男はなにもいわずにアサナギの下半身をみた。
「アァ。私だってバカじゃないですから」
アサナギは自分の生い立ちについて語った。
一人娘だったこと。いつも親が喧嘩していたこと。アサナギにも暴力をふるわれたこと。家出をしようとしたが、遠くからきこえる銃声に足がすくみあがったこと。廃墟に捨てられ、男に犯されたこと。お腹が減り、もう死ぬんだと察知したこと。
「そんな時にマスターが私をみつけてくれたんです。私の命はあの時、もうとっくに尽きていました。でも、マスターが命を吹きこんでくれたのでしょう?」
「痛くはなかったはずだよ」
アサナギは頬を赤らめた。
「そ、そうなの? よくおぼえていないの」
プィと視線をそらし、星と月の光が映った湖面をみた。
水しぶきをあげて、水鳥が一羽、夜空へ舞った。
「べつにここからうごけなくても、私はさみしくないわ。ここってとても素敵。お友達もたくさんいるし、湖もキレイで空気もおいしい。私が住んでた町は、火薬とタバコと酒の臭いしかしなかったもの」
その晩、アサナギは寝つけなかった。男にむけて甘えた少女の声をだした。
「灰だらけの町できいた銃声が頭の裏側でずっと鳴ってるの。なにか、お話をきかせていただけませんか?」
男は書物で学んだこの世界の昔話をした。
ラグナロク前の世界、発達していた医療、失われたテクノロジー。
「この世界は不要なもので溢れてしまった。もう一度リセットボタンを押す必要がある。そのために私はキマイラを作った」
「昔の世界の夜空にも、星の海があったのかしら」
やがてアサナギは眠りについた。
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