第24話 再びアメリカ(2)

 ドクターはポルシェをぶっ飛ばして夕闇迫るハイウェイを駆けて行った。この道路は五年前、俺が運転してスズカといっしょに丸一日かけて走破した道路だ。あの時は抜けるような初夏の青空だったが、今は真冬で曇天、しかも雪模様の夕暮れ時。印象がまるで違う。景色はどこまで白い。幸い道路の除雪は行き届いていて、ポルシェも存分にその走行能力を発揮している。俺たちが丸一日かけて走った道をドクターは半分の時間で通過していった。

 俺は黙って助手席に乗っていた。車内には冷めたとも違う、なにかが始まる前の息の詰まるような緊張感が漂っている。ドクターはぴしりと拒絶した空気を漂わせながら、黙々とハンドルを操っていた。どうやらプレスティックソンへの道をよく知っているらしく、ダッシュボードのナビには目もくれず、白く霞んだハイウェイをどこまでも飛ばしていった。

 プレスティックソンの村に入る最後のダートの峠道は、この雪の中、さすがに迂回したらしい。五年前素晴らしい見晴らしだった崖の上を通らないまま、気が付けば村の入り口まで来ていた。冬の昼は短い。もう夕闇が隠しきれなくなっている。

 村の中に入ってもそこそこのスピードで飛ばして走る。ハイウェイを外れた田舎道は除雪されておらず、圧雪の上をぎゅるぎゅると音を立てながらポルシェは進んで行った。こういう道でターボはオーバーパワーを引き起こす。ドクター、頼むからおとなしく走って、と俺は心の中で懇願していた。正直、ちょっと怖かった。物理的に。

 最終的にドクターは広い芝生の庭のある白い建物の前でポルシェを止めた。無機質で白くて四角い建物はアメリカの田舎には少し不釣り合いに思える。数センチの雪をかぶった芝生の広場はシーツのように白く広がって、その上にぽつんとガーデンライトで照らし出された建物が建っていた。

 ドクターはポルシェのエンジンを止めると、コンソールから巾着のような袋を取り出してセカンドバッグに入れる。優雅に車を降りる様子は、まるでレッドカーペットの上のトップ女優そのものだ。そして車から出た途端、ドアも閉めずに声を上げた。


「クリス、いるんでしょ? 出てきなさいよ。出て来ないんならこっちから行くわよ!」


 ドクターの凛とした声がさらさらと粉雪が落ちる風景の中に響き渡った。建物は静まりかえっている。無反応なのは織り込み済みといった様子でずいずいと玄関の前まで歩いて行ったドクターは、そのままドアを開けて建物中に入っていった。まさかいきなり挨拶もなしで乗り込むとは思わなかった。俺も仕方なく後に続く。


「ドクター、勝手に入っちゃっていいんですか?」

「なに言ってるの。日本人の所有するアメリカ国内不動産は日本の相続法に基づいて相続される決まりなのよ」

「はい?」

「つまりキミもここのオーナーになる資格がある、ということ。いいからついてきなさい」


 建物の中は小さなクリニックになっていた。といっても日本の田舎のコンビニぐらいの広さはある。やたらポップな色使いになっているのは最近のクリニックの流行りなんだろう。ドクターは勝手知ったる他人の家、といった感じで壁のスィッチで電気をつけると、待合室をすぎて廊下を抜け、閉じた扉を開け放った。


 院長室のようなその部屋には、中央のデスクを中心に金髪の少年少女がずらりと並んでいた。中央の重役のようなデスクに座っているのはクリスだ。

 やくざの殴り込みみたいなシーンだが、そこにいるのは金髪の五歳児。それが重役デスクに座っていると、あまりの不釣り合いさに思わず吹き出しそうになる。


「遅かったじゃないか、ドクター。それともお化粧に時間がかかったのかね」

「相変わらず余計な心配をしてくれるわね」

「お互い年は取りたくないものだな」

「ひどい冗談ね。まったく笑えないわ」


 重役室のようなぶ厚い調度類に囲まれた部屋、マホガニーブラウンの重厚なチェア、そこにうずもれるようにしてふんぞりかえる金髪の五歳児、そして冷ややかな表情で見下ろす絶世のゴージャス美女。そんな二人がやり取りしている光景とその会話の内容は、絵的にあまりにも不自然で、すべてが狂っていた。

 ドクターはデカいチェアに腰掛けて足をぶらつかせているクリスに向かって声をあげる。


「挨拶は抜きよ。スズカの血を返しなさい。いや、返さなくていいから今すぐここで廃棄しなさい。あれは軽々しく世の中に出回ってはいけないものなのよ」


 ドクターのドスの効いた声を聞いてもクリスはまるで動揺していない。変わらずに飄々と応じる。


「それはできない相談だよ、ドクター・ノーエ。たとえドクターの頼みでもね。ドクターみずからが精製したスズカの血は五年に一度、あの病院でしか手に入らない。それほど貴重なものを、そうそう簡単に手放せるわけがないさ。ドクターは、あのデビルズ・ティアドロップがいくらで取引されているのか知ってるかね」

「スズカの血液をそんな不吉な名前で呼ぶのはやめなさい。センスが悪すぎて虫唾が走るわ」

「これは失礼した。ブラックマーケットではみんなそう呼んでいるのだがね。スズカの精製済み血液製剤五年もの、しかもドクター・チノ・ノーエが精製した最高級品質のプレミア・リキッド。その市場価格は一ミリリットルあたり十万ドルだ。大統領選挙が近づくと値上がりするのはいつものことだがな、ふふふ」


 一ミリリットルあたり十万ドル? 俺は耳を疑った。俺のヒアリングがおかしいのか? 一CC=一ミリリットルだから二百CCのパウチは二千万ドル。二十三億円! いや、まじかよ。嘘だろ? カイエン一台二千万円もたいがいだけど、それですら比べ物にならない、とんでもない金額だ。

 ドクターはクリスの言葉に鼻で笑っただけだった。


「三CCあれば一人を病院送り再起不能にできて、五CCあれば一人をこの世から消せるのだから、金額としては妥当ね。安売りする気は毛頭ないけど」

「そうだ、ドクター。このパウチ一袋二百CCをラボのマシンにセットするだけで、プレスティックソンの住民全員がむこう五年間は十分楽に暮らせるだけの薬ができあがる。我々は守銭奴ではないからね。あの病院から拝借したのは我々の生活に必要な分量だけだ」

「スズカの血を売って稼ぐのはやめなさいと、何年も前から言っているわ。あなたたち、それではただの寄生虫よ? それでもいいの?」

 

 クリスはひょこりと椅子から飛び降りてデスクに立てかけてあったステッキを取り、それを片手で振りながらドクターに近づく。


「きれいごとを言っていては生きて行けないのだよ、ドクター・チノ・ノーエ。人が生きていくのには金がかかるんだ。まして、我々はみなゲルスト・シュメルツァリスティーク・ヴィスツィオドーゼ症候群の発症者だ。身体は日に日に幼くなっていく。そんな我々が生活していく資金を、他にどこでどうやって調達しろというのかね」


 そしてドクターの前に仁王立ちして顔をあげた。


「なにも我々は金儲けをしようとしているんじゃない。生活資金が必要なのだよ。そして我々が稼ぐ手段としては、スズカの精製済みの血液を売るのが一番安全で確実なのだ。合理的だとは思わないかね。しかも五年ものでドクター・ノーエ自らが精製したものであればプレミアが付いて当然だ。それを売ろうとしない方が、残念ながら私にはどうしても理解できない」


 クリスはおよそ五歳児とは思えない迫力で話を続ける。言っていることの正誤はともかく、クリスにはクリスなりの信念と目的があるのは分かった。でも、それが許せるかどうかは別の話だ。


「幸いここプレスティックソンにはドクター・クニミヤが残してくれたこの血液精製ラボを備えたクリニックがある。スズカが自発的にここに来て血液を差し出してくれさえすれば、そしてドクターがここで自ら精製してくれさえすれば、強奪するような真似はしなくても済むのだ。スズカはいわば血が高く売れるという稀有の才能を持って生まれた天才クリエイターなのだよ。その才能をむざむざとどぶに捨てるのは、我々としてもガマンならない。分かってもらえるかね」


 それでも、スズカを殺人兵器かつATMにしようとしているその考えを、俺は到底受け入れることはできない。俺は思わず声を荒げた。


「クリス! てめえ、そうやってスズカを……」


 五歳児相手にキレそうになる俺を手で制して、ドクターが低くうめく。


「黙って聞いていれば好き勝手に言いたい放題言ってくれるわね」


 もともと冷たい言葉を吐くのがこの人のデフォルトなのだけど、それよりもさらに一段と冷酷な響きだった。俺は一気に興奮が静まった。これはヤバい。この人、相当怒っている……。


「クリス、あなたと話していても時間の無駄だわ。私、キライなの。そういう平行線で、不毛な議論。あなたを説得する気なんかハナからないから」


 そう言い放つと、セカンドバックから巾着袋を取り出して、その中のものを握り込んだ。

 俺は目を疑った。

 ドクターが手に持っているのは、カーキ色の野球ボールのようなもの。あれは、……手りゅう弾じゃないのか! おい、まじかよ、ドクター!


「ドクター、落ち着いてください! そんな物騒なもん出さないでくださいよ!」

「言ってもどうせ聞かないなら焼き払うしかないでしょ。クニミヤくん、下がってなさい」


 ドクターは手短に指示を飛ばすと腕を後ろに引いて、ドアの向こうのラボに向かって手りゅう弾を投げようとする。驚いたことにクリスはそんなドクターをいやな笑みで見守っていた。ゆったりとドクターに話しかける。


「ドクター、あなたにこのラボを壊すことはできない。その手りゅう弾を投げられるのかね? 投げてみればいい。私は止めない」


 ドクターの表情がこわばった。歯ぎしりするかのように悔しそうに表情を歪める。


「そうだ、ドクター・ノーエ。ソーヘイ・クニミヤが遺したこのラボは、ドクター・チノ・ノーエには壊すなんてことはできないのだよ。絶対にな」


 クリスのセリフ一つ一つにドクターの表情が歪む。クリスの高い舌足らずな声には、明らかに笑いが含まれていた。


「なぜだか教えてやろうか。ここは、青年時代に、チノとソーヘイが一緒に過ごした思い出の場所だからだ! チノにソーヘイが必ず病気を治すと誓った約束の場所だからだ! そして、チノがソーヘイの求婚プロポーズを断って失意のうちにソーヘイを一人帰国させた悔悟の場所だからだ!」


 ドクターの目に明らかに動揺の色が浮かび、それはやがて感情の波となってドクターに覆いかぶさった。ドクターの腕の力が抜けて、手りゅう弾を持つ手が垂れ下がる。


「どうだね? ドクター。これでもまだここを壊そうと思うかね?」


 クリスが勝ち誇った顔をしてラボへと向かう。精製済みのパウチを持った金髪の少女が後に続いた。ドクターはうなだれて肩を震わせている。その美しい横顔に一しずくの涙がつたっていた。

 クリスはラボへと続く扉の取手に手をかけて声を上げた。


「ゲームは終わりだ。我々の勝ちのようだな」


 その時、があんと扉を蹴り開ける音がした。


「ドクターが壊せないなら、私が壊してあげるわ!」


 振り返ると、そこには身長百五十センチそこそこ、中学生ぐらいの明るい茶髪の女の子が立っていた。その右手に光るのは機関銃だった。

 あの澄んだ瞳、強気なセリフ、あれは……。


「スズカ!」


 俺とドクターの声がシンクロして建物の中に響きわたった。

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