第23話 再びアメリカ(1)

 五年ぶりのアメリカの空気に、俺は大きく伸びをする。

 空港の中は暖房が利いているので、さほど寒くは感じない。


 年の瀬も押し迫ったこの時期、日本では師走のばたばた感が年越し気分を嫌でも盛り上げるが、アメリカではどうやら新年を迎えるという節目的な考えはしないらしい。それよりもクリスマス休暇が終わってクソだるい日常が戻ってきた、という若干気だるいニュアンスを感じる。これはほとんど宗教観の違いとでも言う他ない。


 しかし、つい十五時間ほど前までは、まさか自分が再びアメリカの地を踏んでいるとは思ってもみなかった。以前、スズカと来た時と違って季節は厳冬だ。ボーディングブリッジから見えるロッキーの山並みは、重い雪雲の向こうに霞んでいる。エプロンのアスファルトにさっきまで俺たちを乗せていたボーイング787の銀翼がたたずんでいる。その向こうの滑走路は細かい雪が風に吹かれて舞っていた。


 由紀恵の病院でクリスが銀色のパウチを持ち去ったと聞いて、ドクター・ノーエは病院を白衣のまま飛び出した。そしてタクシーに俺を引きずり込むと、運転手に鋭く羽田に行くように告げ、ポケットから乱暴にスマホを取り出して早口の英語で指示を飛ばした。


「今から最速でプレスティックソンに戻りたいの。すぐ乗れる飛行機を手配して。わたしとリョージ・クニミヤ、二人分ね。ロス経由? 上等ね、それでいいわ」


 途中で俺のマンションに立ち寄って最低限の荷物を取り、投宿していた羽田のホテルでドクターの荷物を引き上げると、俺たちは数時間後にはイミグレを通過していた。ドクターはちゃっかり着替えていて、シンプルなワンピースが足らない部分を補ってさらにゴージャスな空気をまとっているが、俺は荷造りするひまもへったくれもなかったので、ただの綿パンにダッフルコートだ。これじゃお嬢様とお付きの従者にすら見えない。しいて例えるなら、舞台上のアイドルと最前列でヘッドバンキングしてるキモオタだ。

「とりあえずパスポートだけあればいいのよ。服なんか途中でいくらでも手に入るから」とドクターにどやされて、本当に着の身着のままで機上の人になった。

 超絶金髪美人とラブラブ海外旅行でラッキー♡ とか、俺が言うとでも思ったか? あいにくというか当然というか、ドクターはビジネスクラスで、俺はエコノミー。機内では会話はおろか顔すら見られなかった。

 それはともかく、どっちにしろ年内はすぐ仕事納めで、年明けまで俺の会社の心配は要らない。だとしたらあとはなるようにしかならんと、俺は機内で映画を見ながらふて寝を決め込んでいたのだった。


 見覚えのある到着ロビーで待っていると、肩にかけたバッグを押さえながらファションショーのお立ち台を進むような足取りでドクターが出てきた。相変わらず超絶不機嫌な顔をしている。


「ドクター!」

「なにもたもたしてるの。観光に来たわけじゃないのよ。行くわよ」


 ……いやいやいや、待たされてたのは俺の方なのに、なにこの理不尽な非難。このドクター、やっぱドSなの? と思いつつ、だんだんご褒美に思えなくもなくなってきている。これはヤバい傾向かもしれない。


 レンタカーカウンターへ行くのかと思ったら、ドクターはキャリーバッグを引いてそのまま車寄せに出た。以前スズカと来た時は午後に到着する便だったが、今回は午前到着便、まだ一部の店舗やレンタカーカウンターも営業開始前だ。朝の空港は慌ただしくて、ソルトレークシティの人々が足早に通り過ぎて行く。


 ドクターは空港正面の車寄せにずらりと並んだ車の中から、ゴールド色の一台の前に進んでいった。

 ぐえ、ポルシェ・カイエンじゃないか。一台二千数百万円、中古マンションが買えるほどの、ケタ間違ってんじゃねーの的なプライスタグの一台だ。俺みたいなド庶民には眺めるだけでも恐れ多い。

 ドクターがカイエンに近づくと、車内からスーツの青年が降りてきた。ドクターは青年からキーを受け取ると、セカンドバッグに手を入れて財布を出し、そこから紙幣を引き抜いて渡した。俺はその様子を見て、一瞬考えてチップを渡したんだと気が付く。

 そしてドクターは無造作に車に乗り込んでエンジンをかけた。ブオンと低音のうなりをあげてポルシェのエンジンが目覚める。スバルの水平対向エンジンの音もいいが、ポルシェのV8ツインターボの音は別格だ。

 青年は俺とドクターの荷物をトランクにしまうと、うやうやしく一礼して去っていった。ははあ、これが日時を指定しておくと駐車場から車を回送してくれるバレーパーキングサービスってやつか。初めて見たぜとぼーっと眺めていると、ドクターからまたもやものすごい眼力で睨まれた。


「なにやってんの。早く乗りなさい」


 うげー、こえーよ。俺は「すみません」と小さく謝って助手席に乗り込んだ。すぐにドクターは、何も言わないで車をスタートさせた。

 しかしポルシェの4リッターV8ツインターボ、とんでもない加速力だ。少々、身の危険を感じなくもないが、どっちにしろ俺の生殺与奪はドクターが握っている。ドクターとサシで話せるまたとない機会だ。ここは素直に聞きたいことを聞いておくべきだろう。


「ドクター、そんなに急がなくても、クリス達よりも絶対先に着いていると思いますけど。こんなに余裕のない旅立ちは初めてです」


 郊外に出て通行量が減ると、ドクターはさらにスピードをあげた。ポルシェの咆哮がハイウェイに響きわたる。アメリカ名物の全長三十メートルはあろうかという巨大三連トレーラーをあっという間に抜き去っていく。


「クリスを甘く見たらだめよ。彼らはプライベートジェットだから」


 プライベートジェット! まじかよ。あのクリス、あなどれん!


「ところで、ドクター、聞きたいことがあるんですが。クリスの持って行った銀のパウチってスズカの血液を精製したものなんですよね? そんなに慌てて追いかけるものなんですか」

「……スズカは、ゲルスト・シュメルツァリスティーク・ヴィスツィオドーゼ症候群なのは聞いているわね?」

「はい。母親の恭子さんも同じ病気だと」


 由紀恵からもクリスからも病気のことは聞いている。俺は頷いた。外は雪が舞っている。ドクターはカイエンのド迫力のターボサウンドは少し抑え気味に走らせていた。ドクターでもスピードを控えることあるんだ、と俺は妙に感心していた。フォグランプに照らされた雪片がときどききらりと輝く。


「ゲルスト・シュメルツァリスティーク・ヴィスツィオドーゼ症候群は伴性劣性遺伝病なのよ。圧倒的にキャリアが少ないし、発症するタイミングも人によってバラバラで、見た目は健康だから患者を見つけることが非常に難しい病気。それをまず頭に置いといて」


 一応、はあ、とうなづいたが、あまり理解できたとは言い難い。しまった。相手は世界的な権威だった。気軽に質問するとか失礼だったかもしれない。俺の動揺をよそに、ドクターはハンドルを操りながら、かみ砕いて俺にも分かるように話を続けてくれた。


「発症のタイミングは成長期が終わってから。人によるけど、早い人でも十代後半ね。中には発症する前に寿命を終える人もいる。七十歳になってから発症して、九十歳なのに見た目五十代のとっても元気な老人、としか思われない人もいたりすのよ。そういう人は赤ん坊まで若返る前に他の病気で寿命が尽きてしまう場合も多い」

「……なるほど」


 そう言えば故郷の前箸の老人は高齢になっても異常に元気な人が多かったな、と突然まったく関係のないことを思い出した。いけない、ドクターの話に集中しなければ。


「恭子はスズカの父親と結婚してスズカが生まれた後、三十歳で発症した。自分が発症した時、スズカに泣いて謝っていたわ」


 ん? ドクターの解説に少し引っ掛かりを感じる。自分が病気だと分かって、娘に謝るってのはイマイチよく理解できない。


「なんで恭子さんが謝るんです?」


 俺の素人丸出しの質問にドクターは不機嫌そうな表情をしつつも丁寧に教えてくれた。


「スズカの父親も、プレスティックソンで療養していたゲルスト・シュメルツァリスティーク・ヴィスツィオドーゼ症候群の発症者だったのよ。恋人が病気であることを知っていても、それでも恭子は日本から恋人を追ってプレスティックソンに来て結婚した。それほど、愛していたのね」


 ハイウェイはそこそこの交通量があるが、ドクターは前走車を器用にかわしながらずいずいとポルシェを飛ばしていく。


「ただ恭子は、まさか自分もキャリアだとは知らなかったのでしょう。スズカの父親が亡くなったのは不幸な交通事故だった。そして、恭子自身がゲルスト・シュメルツァリスティーク・ヴィスツィオドーゼ症候群を発症してしまったのは、神のいたずら。恭子にとっても、スズカにとっても、最大の不運」

「……病気だと分かっていても結婚したのに、自分も恋人と同じ病気にかかっていた、ってことですか」


 それは確かに不運。運命のいたずらというにはあまりに残酷だ。そう考えていると、ドクターから氷のような声でたしなめられた。


「リョージくん、キミはもう少し高校の生物を勉強しなおした方がいいわね。伴性劣性遺伝で父親が発症していて、母親も発症したとしたら、スズカの性染色体はどうなっていると思う?」

「あっ! そうか。発症が確定するパターンなのか!」


 伴性劣性遺伝病で患者同士の子供が女子の場合は、潜伏しないで百パーセント発症する。父親から受け継ぐX染色体と、母親から受け継ぐX染色体が、両方とも必ず発病因子を持っていることが確定しているからだ。スズカは生まれた時からゲルスト・シュメルツァリスティーク・ヴィスツィオドーゼ症を発症する運命を背負っていた!


「ゲルスト・シュメルツァリスティーク・ヴィスツィオドーゼ症候群発症者同士の両親を持つ子供は、プレスティックソンでも極めて珍しい。調べてみるとスズカの血液は通常よりも数倍強力な発症因子を持っていることが分かったの。そして、その発症因子を健常者に使うと、非常に強力な成長阻害作用があることが、ある天才医師の調査と研究の結果、分かったのよ」


 ドクターは心なしか遠くを見つめる目つきで淡々とアクセルを踏み込んでいる。車窓を流れる風景は果てしなく白い。五年前にスズカと走った時はこのあたりはもう夜闇の中だった。


「スズカの血液を精製して調整すれば、逆に不老薬として使えるんじゃないか。研究していた医師はそう考えたの。その発想は決して間違いではなかった。ごく微量を、少しずつ使えば数年分だけ若返るという人類悲願の不老の薬として使えることが研究の結果分かったわ。しかし一方で、一点に集中して一度に大量に投与すると、一部の臓器だけが極端に未成熟な状態まで退化してしまって体内のバランスを崩すという、激烈な副作用を引き起こすことも同時に分かった。肺に使えば肺活量が不足するし、心臓に使えば貧血を起こす。そして最終的にはショック死する。しかも、遅効性で体内にはなんの痕跡も残らない」

「つまり……殺人に使える、と。しかも、完全犯罪にできる……」

「そう。政界でも財界でも軍事でも、引く手あまた。万能の、夢のような殺人薬なのよ。彼らが奪っていったのはそういうもの。一刻も早く取り戻さないといけない。しかも今アメリカでは大統領選挙の真っ最中。なにが起こっても不思議じゃない」


 そうか。……そうだったのか。

 ドクターの説明で、分かった。霧が晴れるように、分かった。

 スズカの憂いた瞳、迷った感情、抗えない運命。


「ドクター、その調査と研究をした天才医師って、もしかして、あなたですか?」


 俺の問いにドクターは、初めて女子高生のようにほがらかに笑った。


「……あははは、案外抜けてるわね、クニミヤくん」


 そして、いつもの冷徹な顔に戻って、でも、ほんの少しだけ薄く唇を曲げて笑った。


「でも、そういうところ、そっくりよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る