第22話 横浜(6)

 地下鉄を最寄り駅で降りて、昨日たどった道を再び駆ける。

 まさか二日連続でこの道を全力で走ることになるとは思わなかった。手紙には「スズカを探すな」とだけ書いてあった。直接狙われているわけではないから、由紀恵に危害が及ぶことはないと思うが、とにかく心配だ。こんなことなら無理してでも由紀恵のところに泊まってやるべきだったかもしれない。

 俺はポケットの中の手紙を握りしめる。

 いや、由紀恵も心配だが問題はスズカだ。五年に一度、詳しくは分からないけど何かとても重要な診療なのか検査なのかを受けなきゃならないんだ。それを邪魔されてはいけない。あの手紙の差出人はスズカが今日本にいて、今日病院に来ることを知っていて、おそらくスズカの病気のことも分かっているのだろう。だとすると、思い当たるのはヤツらしかいない。アメリカの片田舎でひっそりと隠匿生活を送るゲルスト・シュメルツァリスティーク・ヴィスツィオドーゼ症候群の人たち、プレスティックソン・コミュニティに関係するヤツらだ。


 病院に到着すると受付が始まっていた。入り口の自動ドアを抜けて待合室に飛び込む。すぐに奥の診察へと続く廊下の向こうに、長身のドクター・チノ・ノーエの姿が見つかった。ドクターの長い金髪の長身は、どこにいても歩いているだけでめちゃくちゃに目立つ。一カ所だけドクターの身なりで目立たないところがあるのだが、……その点については今は関係ないから触れないでおこう。

 俺は急ぎ足でドクターに駆け寄ると、息を整えて少し見上げる角度で問うた。


「ドクター・ノーエ! あ、おはようございます。高林由紀恵はもう来てますか!?」

「クニミヤくん。ここは部外者立ち入り禁止よ。それと院内では静かに歩かなきゃだめね。高林さんは、もう準備に行っているわ」

「そうですか。よかった。すみません、ドクター、これ見てください」


 俺がポケットから取り出したくちゃくちゃの手紙を受け取って、下目使いでそれを一瞥したドクターは、途端に目一杯不機嫌になった。侮蔑の表情を露骨に浮かべて吐き捨てる。


「くだらないわね、まったく。何年経ってもバカなことして」


 その蔑みに満ちた表情を俺に向けるのはやめてほしい。たしかに金髪長身超絶美人なドクターの冷酷極まりない視線と罵り言葉は、ある筋の性癖の人にはバカ受けするかもしれないが、俺にはそういう嗜好はない。今のところは。

 そこへ白衣姿の由紀恵が文字通り血相変えて走り込んできた。


「ドクター! 大変です! 血液アンプルがなくなっています! EXCアンプル製剤二百CCが二包足りません!」

「五百CCの方はちゃんとあるのね?」

「はい。五百CC四包は無事です」

「由紀恵さん、スズカが来たらあるだけ処方するわ。二千CCあればぎりぎり処置できる。一滴も無駄にしないで。それよりも紛失した方をなんとかしないと……、悪用されたら大変なことになる。とにかく今は残っている製剤でクランケ患者への最善の対処を優先するわ」


 ドクターは切れ長の瞳を曇らせた。厳しい表情で由紀恵に指示を飛ばす。その時、廊下のスピーカーからアナウンスが流れた。


「ドクター・ノーエ、ドクタ・ノーエ、患者さんが来院されました。十八番処置室にて麻酔処置を開始します」


 スズカが、この病院に来ている! でも麻酔されてしまうのでは、会って話すわけにはいかなさそうだ。少し残念だが、俺は由紀恵を見て頷いた。

 やっと、会える。スズカに、会える。

 ドクターノーエが俺を見据えて言った。


「クニミヤくん、キミにできることは今は何もありません。安全な場所で待っていなさい。私のドクタールームが一番安全かしらね」

「でも、ドクター、由紀恵はともかくスズカが危ないじゃないですか! 誰だか分かんないけど、スズカの受診を邪魔しようとしているとしか思えません」

「大丈夫、由紀恵さんの身にも、スズカの身にも危険はないわ。彼らがほしいのはスズカの血液だけだから。由紀恵さん、行くわよ。昨日教えた手順通りによろしく」

「はい、ドクター。分かりました」

「クニミヤくんは三階のドクタールームで待っていなさい。五時間ぐらいで終わるわ」


 ドクターは白衣のポケットに両手を突っ込むと由紀恵に声をかけて颯爽と歩いて行った。由紀恵も慌てた様子で先生の後ろを足早に追っていく。ドクターの流れるような金髪と、ユキエのナースキャップから覗くまとめた髪が、遠ざかっていった。


 ◇


 ドクター・チノ・ノーエとプレートの出ているドクタールームは、パソコンとデスクと簡易ベッドがあるだけの素っ気ない四畳半ぐらいの小部屋だった。デスクの側の簡易ベッドで簡単な診察もできるようになっている。その気になれば寝ころぶこともできなくはなかったが、さすがにこの状況で横になって安らげるほど俺は神経が図太くなかった。


 机の引き出しの中を勝手にまさぐるわけにもいかないし、微妙に手持ち無沙汰だ。スマホも使うのがはばかられる。最近は院内でも医療機器から一メートル以上離れていればスマホ使ってもいいらしいが、このドクタールームで使っていいのかどうか判断がつかない。このパソコンも実は医療機器なんじゃねーの、という気もする。空調機の風音以外物音一つしない部屋で、俺は三十分もすると暇を持て余し始めた。


 えー、まだ三十分しか経ってないのかよ。ここで五時間待つのかよ、と思い始めたころ、ドクタールームの引き戸がするすると開かれた。ひょいと顔を出した金髪の少女が澄んだ声の英語で、おそるおそるといった様子で声をかけてきた。


「リョージ、クニミヤ?」


 とっさにうげー、と思った。そこにいたのは、中華街で俺に手紙を押し付けた金髪少女だ。えー、またロリ金髪かよー。いや、嫌いじゃないけどさ。でも今回の件で金髪になんか変な固定観念が付いている。少なくとも、こいつらは俺たちの味方ではない。

 しかも今回は少女の後ろに、五歳ぐらいの金髪チビガキが引っ付いてきている。金髪が二人だ。


「な、なんだよ。またお手紙でも書いてきたのか?」


 ばりばりの日本語で話しかける。ここは日本だ。どっちかというと俺のテリトリー。郷に入れば郷に従え、ローマではローマ人のやるとおりにふるまえってんだ。


「ふふふ、それは違うよ、リョージくん。久しぶりだね。元気にしてたかね」


 手前の少女ではなく、少女よりさらにちびっ子の五歳ぐらいガキの方が口を開いた。

 ショタ好き腐女子がよだれをまき散らして喜ぶかわいい見た目に反した、異常なまでの偉そうな態度と喋り方。


「おまえ、まさか、クリスなのか!」

「覚えていてくれて光栄だよ。リョージくん。まあ、私もすっかり年を取ってしまったがね。もうこの身体では車も運転できなくなってしまったよ」


 そりゃ世の中の自動車は子供が運転することを想定して作られていない。メーカーが公表しているわけではないが、運転席のシートは最低必要身長百四十センチメートルぐらいで作ってあるのじゃないだろうか。今のクリスはどう見ても五歳児、身長百センチそこそこしかない。


「何言ってるんだ、クリス、その身長じゃビッグサンダー・マウンテンですら乗せてもらえないだろうが。おとなしくイッツ・ア・スモール・ワールドにでも乗ってろってんだ」

「ふふふ、私を見ても驚かないところからすると、だいたいの事情は分かってくれていると思って良さそうだね」


 相変わらずクソ生意気な物言いをするガキだが、見た目が五歳児にまでスケールダウンしてるせいで腹も立たない。それよりも何よりも、その異常な事態を平然と受け入れている俺も俺だ。クリスは相変わらずきれいなクィーンズイングリッシュをしゃべっているが、少し舌足らずになっている。それと語彙力が落ちているのか、俺のプアなヒアリング力でも理解しやすくなっていた。ちなみに俺はばりばりの日本語だ。郷に入れば以下略、だ。


「年を取ってできなくなることが増えるのは、健常者でも同じなんだよ、リョージ・クニミヤくん。憐れんでくれる必要はない。むしろ身体が小さくなると便利なこともある。例えばこういう立ち入り禁止区域に平然と紛れ込むことができるようになる、とかね」

「ゲルスト・シュメルツァリスティーク・ヴィスツィオドーゼ症候群、のことだな」

「さすが、ソーヘイ・クニミヤの血を継ぐもの。理解が早い」

「そっちの女の子も患者なんだな?」

「リョージくん、患者ペイシェントという言い方はやめてもらえるかね。ゲルスト・シュメルツァリスティーク・ヴィスツィオドーゼ症候群は、我々の体質だと思ってくれればいい。健常者であっても、背が高い、足が速い、目がいい、乳が大きいと人の特徴はいろいろある。それと同じなのだよ。現に身体が若返る以外の不都合はないのだから。我々は生まれてから数十年は普通に成長する。成長し終わったある日を境に、若返り始めるのだ。そして、やがては赤ん坊となって死んでいく。決して苦痛を伴う病を患っている訳ではないのだ」

「それは、……だいたい想像ついていたさ。あんたやスズカやスズカの母親を見ていればな。ただ、これだけは言っておく」


 俺はクリスの小さな腕をぐっとつかんだ。


「スズカと由紀恵には一切危害を加えるな。ゲルストなんとか症候群とかおまえたちのコミュニティとか、そんなことには俺は興味はない。けどな、彼女たちに危害を加えるのだけは、俺が絶対、許さない」


 俺はクリスの目を見て冷たく言い放った。見た目、幼稚園に行くか行かないかぐらいの子供相手にすごんでいる。はた目には弱い者いじめどころか、児童虐待で通報されかねないシチュエーションだ。


「キミはいたいけな児童をいたぶる趣味があるのかね?」


 くそっ、都合のいい時だけ子供ぶりやがる。相変わらず腹だたしいヤツだ。ただ状況証拠的にはどう見ても俺に分が悪い。こんなシーン、誰がどう見ても子供をいじめてる無法者は、俺だ。不承不承、クリスの手を離した。


「この身体では抵抗もできないのが悩みのタネでね。ゲルスト・シュメルツァリスティーク・ヴィスツィオドーゼ症候群の症状の中で一番困るのが、この身体能力の後退なのだよ。それはともかく、我々がスズカたちに危害を加えることはない。そこは安心しもらっていい」

「へっ、そんなの信用できるかよ」

「ほお。信じてもらえないようだね。我々がほしいのはこれだよ。これさえ手に入ればもうここ病院には用はない」


 クリスは小さな指で隣の少女を指さした。少女が持っているのは銀色のパウチだ。なんだあれは? 俺はどう反応してよいか分からずに戸惑ってしまう。


「どうやら東京は我々のような老人には刺激が強すぎるようだ。プレスティックソンに戻るとしよう。では、ドクター・チノ・ノーエによろしく伝えてくれたまえ。もうキミに会うことはないだろう。偉大なるドクター・ソーヘイ・クニミヤに最大級の敬意と弔意を。では、行こうか」


 そう言うとクリスは少女の手を取って、というよりも少女に手を引かれて、ドクタールームを出て行った。


 俺は呆然と一人ドクタールームに取り残された。


 ◇


「予定よりも早く終わったわ。予定数量より投与量が少ないから当たり前なんだけどね」


 ドクターが戻ってきたのは、昼すぎだった。


「ドクター、金髪の子供が二人来て、銀色のパウチがあれば他に用はないって言って帰って行きましたよ」


 いい加減待ちくたびれていた俺は、一行に要約してクリスたちとの邂逅をドクターに報告した。その途端、ドクターの顔色が変わった。


「キミ、まさかそのまま子供たちを帰したんじゃないでしょうね?」

「いや、子供いじめてるみたいでどうにも話しづらかったし、由紀恵とスズカに危害は加えないって言ってたから……」


 ドクターはぎりっと唇を嚙みしめると、恐ろしく冷徹な表情で鋭く言い放った。


「リョージくん、すぐ追いかけるわよ。キミもついてきなさい」

「はい?」


 ……俺が? なんで? というか、スズカはどうだったの? 由紀恵は?


「無関係な人をたくさん死なせるわけには、いかない。キミが渡した銀色のパウチはスズカの血液なのよ」



(第三部 横浜編 完)










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