第21話 横浜(5)

 電車に乗って三十分、地下鉄に乗り換えて十五分。いかにも都会的なニュータウンの駅前広場を抜けて一筋入ったところに、由紀恵の勤めている病院はあった。駆け足で来た俺は病院の前で肩で息をする。

 さほど大きくない敷地に四階建ての小ぎれいなビルが建っていた。内科循環器科の専門クリニック、規模は大きくはないが、入院もできると由紀恵が言っていた。初めて降りた駅だったが、病院の名前をスマホで検索すると、場所はものの数秒で分かった。

 具体的に何が起こるか分からなかったが、とにかく不吉な予感に突き動かされてここまで走ってきた。病院の診察時間はとうに過ぎていたが、通用口から入り、受付の横のナースステーションで、切れた息を精一杯整えながらナースに声をかける。


「すみません、看護師の高林由紀恵はまだおりますか?」

「高林さん? さっき着替えていたわよ? すぐに来ると思うけど」


 三十ちょい過ぎぐらいのいかにも仕事のできそうな看護師さん、という女性が応えてくれた。


 そこに、えらい美人だけど、目つきの鋭い金髪長身の若い女医に付き従って、通勤着に着かえた由紀恵が奥から現れた。白衣姿でなくてちょっとだけ残念な気もしたが、今はそれどころではない。


「由紀恵!」

「リョージくん!」


 二人の叫び声がハモる。由紀恵は俺が病院に来ることを予期していなかったようで、驚きのあまりガチで飛び上がりそうになっていた。俺はというと特に由紀恵に変わった様子はなくて、全身からへなへなと力が抜ける。


「あ、先生ドクター、すみません、こちらが先ほど話していた、国宮僚司くん、国宮先生のお孫さんです。リョージくん、この人が、ドクター・チノ・ノーエ」


 え? なに? このスーパーモデルみたいな女の人、ドクターなの? えええ? それにしては、っていうのもなんだけど、美人すぎない? 由紀恵の話だと世界的な権威じゃなかったっけ? 日本語でいいの? いや、それ、おかしくない? そこは普通英語かドイツ語だよね? しかもすごい金髪なんだけど? いや、それよりも何よりも、……若すぎね?


 あまりの事態に俺は目を白黒させてフリーズしてしまう。俺の顔をじっと見つめていた金髪スーパーモデル体型のドクターは、俺を見下ろすように言った。いや、実際にドクターは俺よりも身長が高いから、物理的に見下ろされていたのだが。


「……あなたが、リョージくん……。ホントにソーヘイ、ううん、ドクター・クニミヤの若い頃にそっくりね」

「先生は、おじいちゃん、いや、祖父のお知り合い、なんですか?」


 思わず聞き返す。世界的な権威の若いスーパーモデル体型の女医さんと、田舎の開業医だった祖父になんのつながりがあったんだろう。どう見ても俺たちとそう年が違わない、ともすれば俺たちよりも若そうに見えるドクター・チノ・ノーエは、俺の質問には答えないで、少し機嫌悪そうに金髪をさらりとなびかせた。


「あの人がいなければ、今の私はなかったわ」


 ツンとした声でそれだけ言うと、ドクターはヒールの音をカツカツと響かせて病院の廊下を歩きだす。数歩歩いて立ち止まると、由紀恵に向かって職業医師らしい冷たい響きの声をかけた。


「じゃあ、高林さん、明日はよろしくね。教えた手順どおりに」

「はい。よろしくお願いします」


 由紀恵が丁寧に頭を下げる。俺もつられて軽くお辞儀をした。イマイチ話の全体像が見えていない。ドクターのゴージャスすぎる威圧感に圧倒されっぱなしだ。

 ドクターは並んで頭を下げた俺たちに、一瞬薄い笑顔を見せると、手を上げて、それこそスーパーモデルのように颯爽と通用口の自動ドアをくぐって出て行った。


 唖然としながらドクターを見送る俺。不意に隣でお辞儀から直った由紀恵がこっそりと声を潜めて俺に囁いた。


「ところでリョージくん、なんでわざわざここまで来たの?」


 かああー、心配して飛んで来てやったのに、これだよ。危機感なさすぎるぜ。


「由紀恵、おまえ、あぶねーことに手を出すのもたいがいにしておけよ!」


 俺の叱責の声に、遠巻きに仕事をしているフリをして聞き耳を立てていたナースセンターのナースが数名、興味津々の視線をぶつけてきた。

 由紀恵は顔を赤くすると俺の腕を引っ張って、「すみません。私の古い知り合いなんです。今日はお先に失礼します」と言わずもがなの言い訳を振りまいてナースセンターから退室した。


 ◇


「いきなりナースセンターに押しかけたりしないでよー。今ごろ絶対噂になっちゃってるよ。あの人たち、基本肉食だからね。他人の恋バナなんか与えたらヨダレたらして飛びついちゃうよ」

「ナースがエロくて欲求不満だってのは都市伝説じゃなかったんだな。しかし、自分もナースだろうが。それをディスったら天つばだろう」

「私はあそこまでオイリーになれないなあ。どうせ私は田舎もんだし」

「そんなことはいいけど、由紀恵さあ、いくらなんでもやりすぎ。患者の個人情報にそこまで突っ込んでいいのかよ。部外者の俺ですらそう思うぜ?」

「まあ、確かにちょっとまずかったかな、って反省してる。ドクターに見つかって怒られちゃった」


 結局、由紀恵は無事で、慌てて病院に駆けつける必要なんてどこにもなかった。なんだか俺だけが先走ったみたいだ。イヤな予感がしたんだけど、思い過ごしだったのか。まあ、結果的には何事もなくてよかった。

 このまま帰るのもなんだから、由紀恵を寮まで送って行くことにする。

 病院から由紀恵の寮までは歩いて二十分ほどとの話だった。丘の上の新興住宅街の道には規則的に街灯が並んで白い光を放っている。


「あのEXCエクストラ・クラシファイドアンプルは関口先生専用の血液製剤なんだって。それを明日、関口先生に半日かけて投与するのよ」

「それ、ドクターが教えてくれたのか」

「ううん、直接解説してくれたわけじゃないけど、指示された準備内容をつなぎ合わせて考えると、だいたい何をやるのか見えてくるじゃない?」


 いや、そんな専門的な医療の話をされても俺には分からん。


 街灯のあかりがぽつぽつと光を放つ。ニュータウンの歩道は驚くほど生活感が少ない。こうして由紀恵と肩を並べて歩いていると不思議な気分になる。

 そう言えば俺たちは前箸村で数えきれないぐらいこうして並んで歩いた。今、故郷から数百キロ離れた都会のニュータウンの一画で、こうしてまた並んで歩いている。

 どんなに時が過ぎても、場所が離れても、こうして由紀恵と歩くと笹平川の川の音が聞こえてくるようだ。時は流れても、俺たちの距離は変わらない。それは不思議な感覚だった。


「リョージくんの言ってた病気、ゲルスト・シュメルツァリスティーク・ヴィスツィオドーゼ症候群っていうんだって。恥ずかしながら私も初耳。ドクター・チノ・ノーエはその病気の専門。そして国宮先生、リョージくんのお祖父さんのことね、が画期的な治療法、クニミヤ・メソッドを開発して治験していた、それの治験者が関口先生母娘だっということらしいの。ドクター・チノ・ノーエが教えてくれた」

「そうだ! あのドクターについて聞きたいことだらけ、山ほどあるんだけどさ。ドクターはなんであんなに若いの? 日本語ペラペラだったけど、日系人なの? でも金髪だったし。いや、しかし、死ぬほど美人だったけど、ちょっと無愛想すぎね?」


 由紀恵は俺の怒涛の質問攻撃に苦笑いを返した。


「そんなにいっぺんに答えられないわよ。順番ね、順番。うーんと、まずドクターの国籍だけど、ドクターは日系三世のアメリカ人なんですって。チノは漢字で書くと知乃らしいの。若く見えるけど、そこそこの年だよ」

「えー、そんな風に見えなかったけどなあ。どう見ても俺たちと同じぐらいじゃねーの?」

「女性の年齢に言及するのはマナー違反だよ。職場で習わなかった?」


 言葉ではたしなめているが、由紀恵の声は笑いを含んでいる。半ば冗談のような口調からは彼女自身がドクターの若さに驚いていることが伝わっていた。そう言えばスズカも若いと言われてキレていたよなあ。ドクター・チノ・ノーエもうっかりお世辞のつもりで「お若いですね」とか言うとキレたりするのかもしれない。女心は難しい。


「あと、ドクターが無愛想だとか、すごい美人だとか、でも残念ながら巨乳じゃないとかに関しては、私から申し上げることはなにもございませーん。ふふふ」


 そう由紀恵は笑って、白とオレンジのマフラーに唇をうずめた。

 ニュータウンの上り坂は星空に向かって伸びている。

 人通りも車通りも少ない道路に由紀恵の白い吐息だけがこぼれ落ちていく。


「ねえ、リョージくん、明日も来るんでしょ? 病院に」


 唐突に由紀恵が顔を上げた。少しはにかんだような笑顔を浮かべて俺を見上げている。


「そりゃ、スズカと会えるかもしれない千載一遇のチャンスだからな。会社なんて行ってるどころじゃない」

「じゃあ、……泊まっていく? うちに」


 は? 上目遣いで潤んだ視線を向ける由紀恵に一瞬思考が停止した。こいつ、なに言ってるの?


「ふふふふ、うーそ。ドキッとしたでしょ? 残念だけど、うちは女子寮、男子禁制なの。残念でしたー」

「いやいやいや、おまえ、いつからそんなビッチで肉食な冗談言うようになったの?」

「これでも都会暮らしが三年になるからねー。ふふふふ、あ、ここでいいよ。その白い建物が寮なの」


 由紀恵はちょっとはにかんだ様子で軽く手を振り、なんとも無愛想な造りの寮の中へと歩みを進めていった。自動ドアの前で立ち止まって改めて俺に告げる。


「明日、九時からだから。遅れちゃダメだよ! じゃあね!」


 ◇


 その翌朝。


 俺は早起きして、八時半から由紀恵の病院に着くようにマンションの部屋を出る。今日、スズカが必ず病院に現われる。その時こそ、俺の二十歳の夏を終わらせる時だ。俺の中でなくなることのなかった夏の残り火、それを消すことになるか、さらに燃やすことになるか。それはスズカの話を聞いてみないと分からない。


 会社には体調不良で休むと連絡しておいた。最近は無理して出社せずにおとなしく休め、という風潮が広がっていて、こういう時は割と手軽にサボれるので助かる。


 マンションのエントランスのポストを半ば条件反射で覗く。そこには見慣れない横開きの洋封筒がポツンと入っていた。


 ーーーこれは!


 開く前から嫌な予感が全身をめぐっていた。封筒の中の事務用のそっけない便箋を開くと、筆記体で書かれた英文。


「我々は再度警告する。スズカを、探してはいけない」


 クソっ、なにがしたいんだ、この手紙の主は! 一体何者なんだ!


 俺はマンションを飛び出すと駅へ向かって走り出した。

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