第20話 横浜(4)

「由紀恵、俺、今から突拍子もない話をするけど、笑わないで聞いてくれるか?」


 俺は居住まいを正した。思い出をたどりながら、一通り二十歳の時に体験した話を由紀恵に向かって語っていく。由紀恵は真剣な顔つきで黙って聞いている。テーブルの上の料理の湯気が、だんだん細くなっていく。周囲の喧騒とは隔絶されたシビアな空気が、俺たちのテーブルに流れる。テーブルキャンドルの薄明かりは、由紀恵の顔に朱をにじませていた。

 俺はとつとつと語っていった。スズカと名乗る同級生と仲が良くなり、二年生の初夏のころ、二人でアメリカへ行ったこと。そこで見たスズカの母親、関口恭子さん。スズカの指さしたその人は、生まれたばかりの赤ん坊の姿をしていたこと。母親は病気で余命いくばくもなく、彼の地プレスティックソンにこのまま残って母を看取る、とスズカが言ったこと。そしてスズカをめぐるコミュニティとの葛藤。


「実を言うとさ、由紀恵、俺はスズカと別れて日本に帰ってきてから、もしかしたら、と思いついたんだ」


 もはや関口先生ではなく、スズカ、と呼ぶことに抵抗はなくなっていた。


「……二十歳のころ、俺と行動を共にしていたスズカは、関口先生と同一人物なんじゃないかって。あまりに荒唐無稽だったから誰にも言わなかったけどな。でも、今日、由紀恵の話を聞いて確信したよ」


 そこで言葉を切って、グラスの水を口に含む。呼吸を整えてからあらためて声に出した。


「ーーー二人は同一人物だ。二十歳の夏に俺とアメリカに行ったスズカは、中学時代俺たちの担任だった関口涼香先生の五年後の姿だったんだ」


 由紀恵は時折うなづきながら俺の語りをじっと聞いていたが、最後まで聞き終えるとぽつりとため息を吐く。ゆらりとテーブルキャンドルの炎がゆらめいて由紀恵の額に影を作った。


「……なんというか、突っ込みどころだらけ、だよね。なにから突っ込んでいいのかも分からない。医療従事者のはしくれとして、とても信じられないよ」

「そういうと思った。だから笑わないでくれって言ったじゃないか」

「だいたいゲルストなんとか病とか、なんなのよ。聞いたことない。もう少し正確に覚えておいてくれたら調べようもあるんだけどね」


 そう言って至極残念そうに眉を下げ、ため息を一つテーブルにこぼした。


「面目ない。とにかくドイツ語っぽい長い名前の病気だよ。スズカは、母親のキョーコさんがその病気だって言ったんだ。あいつは、あいつは中途半端にそれだけを俺に教えて、そして訳も明かさずないまま、俺の前からいなくなったんだ! この話は誰にもしていない。誰にも話せなかった。あの夏から、俺は抜け殻なんだよ」


 つい、ほんの少し声が重たくなった。俺が誰にも聞けずにいた疑問。由紀恵に向かってあふれる言葉を止められない。

 由紀恵は悲しそうな口ぶりで言葉を繋ぐ。


「ということは、関口先生もその病気なのかしら。だんだん若返っていって、最後は赤ん坊になって死んでしまうというその病気」


 テーブルの上においた由紀恵の細い指先が震えた。

 

「病気は時としてとっても残酷なのよね。人類の儚さと無力さを嫌というほど感じる」

「プロの医療従事者でもか」

「プロだからこそ、よ。人の寿命はそう簡単に変えられるものじゃない」


 由紀恵はそう言って、悲し気に表情を曇らせた。そりゃそうだ。医者にだってできないことはある。気に病む必要はない、と言おうとしたら、由紀恵はひょいと顔を上げて別の話をし始めた。


「それよりも……、リョージくんにとって涼香っていうのは中学時代の関口先生のことじゃなくて、二十歳のときのスズカさんのことなんだね。それでリョージくんは、どうしたいの?」


 由紀恵の問いに思わずハッとする。俺は、どうしたいんだ?

 謎をいっぱい背負い込んで消えたスズカの残像。この五年間、その残像が常に俺の頭にあった。


 スズカは、なぜ大学生になった俺の前に姿を現したのか。そして、消えたのか。

 スズカは、俺をどうしたかったのか。俺は、スズカとどうなりたかったのか。

 その答えを聞かないと、あるいは見つけないと、俺は、どこへも進めない。無理にそこから目をそらしても、それはいつまでも俺の中でほどけないしこりとなって残り続ける。


「俺は、今でもあのころのスズカの背中を追いかけている。その残像が消えない限り、俺の二十歳の夏が終わらない気がする……」

「リョージくん、いいチャンスなんじゃない? 消えたスズカさんがホントに関口先生だったのかどうか。そして、スズカさんは、なぜリョージくんの前から姿を消さなければならなかったのか」


 俺は懐からぴったり四つにたたまれた便箋を取り出して、由紀恵の前に置いた。


「それ、昨日、知らない白人の幼女から預かった手紙なんだ。読んでみろよ」


 由紀恵は綺麗な眉を少し寄せて便箋を広げる。そこに書かれた字を読んでしばらく動きを止めている。やがておもむろに口を開いた。


「……どういうこと?」

「書いてあるとおり、だと思うけど、俺にもよく分からない」


 由紀恵が広げた便箋には、きれいな筆記体の英文でこう書いてあった。


「スズカを探してはいけない。キミが死にたくないならば」


 ◇


 由紀恵との作戦会議ーーこれはあくまで会議だ。たまたま時期がクリスマスに近かっただけで、そして俺と由紀恵の休みが合う日がそこしかなかっただけで、決して他意はないーーの結果、由紀恵はスズカらしい人物が来院する気配があれば連絡すると言った。テーブルの上のパスタはすっかり冷めていた。


「いつ来るか分からないけど、客員教授のドクター・ノーエがうちの病院に来ている間だと思うから、多分年内には動きがあると思う。できるだけ動けるようにしておいてね」

「了解。連絡待ってるぜ。由紀恵、どうやら俺はさ」

「ん? なに?」

「スズカをとっ捕まえて二十歳の時の行動の意味を聞きださないと、どこへも進めないみたいなんだ。由紀恵に言われて分かったよ。俺の抜け殻生活にケリをつけてやろうじゃないか。はっきり言って紗代子と付き合っているのも、……今は、惰性だ。スズカの残像を消さない限り、紗代子と向き合う資格もない」


 俺の言葉に由紀恵はゆったりと微笑んでいった。その笑顔に中学生の俺を諭す関口先生の面影が重なる。


「ふうん、紗代子さんっていうのかあ、リョージくんのカノジョさん。でも、このシチュエーションで私に向かって惰性で付き合ってるとか断言するの、言語道断だよね、普通なら」


 由紀恵はぴしりと俺の言葉を咎める。言われてみれば、これは失言だった。由紀恵に対しても、紗代子に対しても。反省しながら物事を考えずに言葉に出してしまったことを悔いていると、トーンの和らいだ由紀恵の言葉が続いた。


「でもね、リョージくん、今、思い通りになるのが最善とは限らないんだよ」


 そして、ゆっくりと決意のこもった視線を俺に向ける。


「それでも、私は、リョージくんに付き合うよ。だって、私も知りたいんだもん。リョージくんに、関口先生に、そして私自身に、何が起こったのか、何が起こっているのかを」


 ◇


 由紀恵からの連絡は三日後の火曜日の夜に来た。

 会社帰りに電車で揺られていると、ケータイが鳴った。帰宅ラッシュ時の車内には結構な数の立ち客もいる。ディスプレイを見ると由紀恵からの着信だ。すぐに出たいのは山々だったが、さすがにこれは出られないので着信保留にして留守録に回した。

 まったくアイツはSMSのメッセージを使うということを知らないのかね。田舎もんだよなー、とのんきに構えていた。

 自宅の最寄の駅で電車を降りて、ホームを歩きながら留守録を再生した。由紀恵の声がのんびりしたトーンで再生されてくる。まるで「昨日の晩ごはんなに食べた? 私は面倒だったからコンビニで買ったかつ丼だった」みたいなノリだ。少し懐かしい気分にもなる。


「もしもし、リョージくん? どうやら関口先生、明日の朝、来院するみたいなの。客員教授のドクター・ノーエが診察に入る予定になっている」


 まったく由紀恵は、それだけのことを伝えるためにわざわざ電話してきたのかよ。メッセでいいじゃねーか、と思いながらスマホを耳にあてたまま改札に定期をタッチする。ピッという音が鳴って改札機のスィングドアが開く。


「で、実は私のところにも金髪の外人の小さな女の子が手紙を持ってきたのよね。リョージくんへの手紙と同じことが書いてあった」


 なんだと! あの金髪の子供、由紀恵のところにも行ったのか! その機動力と情報量は大したもんだけど、正直薄気味悪い。俺はともかく由紀恵の動向まで把握してるのはさすがにあれだ、プライバシーの侵害じゃねーのかよ、と思う。

 いや、そんなのんきなこと言ってる場合じゃないかもしれない。金髪ロリ幼女が持ってきた手紙だったので、なんとなくほのぼのファンタジー的感覚で見ていたのだが、文面自体は立派な脅迫文だ。由紀恵は危機感がなさすぎる!


「それとね、私、すごいもの見つけちゃったの。EXC血液アンプル、あ、EXCっていうのはエクストラ・クラシファイド、最高機密扱いって意味なのね。それが明日の使用製剤リストに入っていた。関口先生にこの血液アンプルを使う予定なんだよ。その血液アンプルの中身が分かったら、もう少し詳しいことが分かるかも」


 俺は由紀恵の声を聞きながらイヤな予感に背筋を舐められている気分になった。ヤツらの手紙は明らかにスズカが病院に行くのを邪魔するなと言っている。その警告を無視して、診察内容そのものに手を突っ込むのは極めて危険だ。

 何者かは分からないが、きっとアメリカで行く先々で顔を出した金髪の少年、クリスとか言ったな、あいつの一味のものに違いない。


 ーーー由紀恵、やめとけ。医療関係の細かいことは分からないが、それはあまりに危険すぎる。


「私、明日早番だからドクター・ノーエの担当にしてもらって、関口先生、スズカさんの診療に立ち会えるようにしてもらったんだ」


 ーーーダメだ、それはダメだ。そこから先は、触れてはいけない危険区域デンジャーゾーンだ。


「ドクター・ノーエの診療は九時からになっているから、関口先生、来るとしたらそれぐらい。リョージくんもその時間に合わせて来てよね」


 ーーー戻れなくなる前に。帰り道を失う前に。逃げ道を塞がれる前に。


「私、明日の朝、早く行って、ドクターに話聞いてみるね。リョージくんも明日病院に来てよ。関口先生に会えるよ。じゃあね」


 ーーーやめろ、由紀恵!! 危ない目に合うのは俺だけでいいんだ!!


 俺は急いでダイアルをタップした。呼び出し音がこれでもかと続いた後に、ぷつっと機械音声に切り替わった。


 ーーーただいま電話に出ることができません。電波の届かないところにいるか、電源が入っていません。


「由紀恵!!」


 スマホの画面に向かって怒鳴ってから、回れ右して再び改札口に向かって急ぎ足で駆けた。


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