第19話 横浜(3)
「もう一通の赤ちゃんの方は……」
「関口涼香、だったんだな?」
由紀恵の話が終わらないうちに正解を答えた。由紀恵は目を丸くする。
「リョージくん、あんまり驚かないんだね。いや、反応が薄すぎて私の方が驚いたじゃない。まさかノータイムで正解されるとはねえ。そうなのよ。関口先生のお母さんと、先生のカルテだったの」
なにかが動き出している。俺の直感がそう告げていた。由紀恵は俺を驚かそうと思って話したのが空振りして、若干不服そうな表情をしている。口をとがらせてすねた様子の由紀恵に、俺は質問を返した。
「それなんの研究レポート? スズカのカルテになんて書いてあったんだろうか」
「リョージくん、先生のことスズカとか呼んだら失礼だよ。やめときなよ」
軽い気持ちで聞いたら、えらい懐かしい反応が帰って来た。俺は思わず含み笑いをしてしまう。こいつは昔からこういうところやたら律儀だったよなあ。やっぱり見た目がどんなに都会風の美人になっていても。こいつは昔の由紀恵だ。
「……、これにはちょっと訳があってさ」
そう答えを返して、俺はしばし迷った。由紀恵に話してしまうべきか、否か。
考えてみれば二十歳の夏の出来事は、紗代子にすらロクに喋っていない。その一連の出来事と、その後考えた俺の推測を話す相手として、由紀恵はあまりに適任、考えられる中でベストな人選だ。
その推測、それは、大学二年の夏アメリカで消息を絶ったスズカと、前箸中学校三年一組で俺たちの担任だった関口涼香先生。
ーーー二人は、同一人物だったのではないか、という狂気の仮定。
大学一年の春、始めて顔を会わせたスズカが「関口涼香っていうの。よろしくね」と名乗ったその時に、俺はこんな偶然あるんだなあ、とものすごく驚いたことはよく覚えている。同時に、自分の無鉄砲な行動のせいで中学時代の関口先生を休職に追い込んでしまった過去を思い出した。自己満足かもしれないが罪滅ぼしになれば、とひそかに心に決めて以降スズカと行動を共にしていったのだった。
当然、その間ずっと、関口先生とスズカはただの同姓同名の別人だと思っていた。確かにスズカと話していると、ときどき奇妙な既視感を覚えたこともあるし、二人の雰囲気には微妙に似ているところがなかったわけではない。でも、二人が同一人物だなんてことは、一瞬たりとも考えなかった。スズカと一緒にアメリカに行って、そして一人で帰国するまでは。
そもそも二人は決定的に年齢が違う。それが二人が同一人物ではない別人であることの何よりの証拠だ。関口先生は俺たちが中学生の時、三十手前。スズカは大学で俺と同期だったから当時二十歳かそこら。これはあまりにも明確で客観的だ。二人が同一人物であるはずがない。年齢がかみ合わない時点で同一人物であるという推測はまず最初に除外して当然だろ?
ただ、女は時の流れで化ける。それをいみじくも教えてくれたのが、今俺の目の前で話している由紀恵だ。これほど時間の経過で容姿に振れ幅があるとしたら、スズカが時の流れとともに成長して関口先生のような都会的な容姿になって行ったとしてもおかしくない。
そう。
スズカが五年の時間を経て、関口先生の容姿になって現れる、それならば、あり得る。なにもおかしくない。
しかし、俺が体験した事実は違った。逆だったんだよ。
俺が中学生の時に出会った三十歳手前の関口先生が、五年後に、スズカという名前の女子大生の容姿で俺の同級生として現れたんだ。時の流れに逆行して、若返っていたんだ。この時系列に関する疑問が解消できない限りは、やっぱり二人が同一人物であるとする仮定は、最初に除外されるべき愚考でしかない。
俺も何度か考えてみたことはあったよ。二十歳の夏、一人で羽田に降り立ったあの日から。でも、思考はいつもそこで行き止まりだった。二人が同一人物だなんて、あり得ない。二人は同姓同名の別人、それが昨日までの俺の結論だった。
それほど年齢は、いや実際の年齢ではなくて見た目の年齢は、客観的で反論のしようがない強固なアリバイなんだ。
しかし、今、由紀恵がそのヒントを持って俺の前に現れた。
そう。
じいちゃんが研究していたという病気。関口恭子とその娘、涼香のカルテ。それに加えて俺はアメリカのレンタカーのスバルの中で聞いた、スズカの母親の病気のこと。ゲルストなんとか症候群。
「由紀恵、この後なんか用事あるか?」
ちょうどいいタイミングで、由紀恵から連絡がきたもんだ。むしろタイミングが良すぎて気味が悪いぐらいだ。
ただ、場所がよくない。このパステルトーンの店内で女子高生の騒ぎ声に囲まれながら話す内容じゃない。
俺はカフェオレに口をつけている由紀恵に向かって声をかけた。
「ちょっとここ、出ようか。場所を変えよう。……話しておきたいことがあるんだ、いろいろと」
◇
「気分はそろそろ年末だな」
「私は年末も年始もお仕事だけどね」
「カッコいいじゃん」
「どうだかねえ。このまますり減って、誰にも知られずに老いていくんじゃないか、って気分になったりするんだよ。一時期ほどひどくはないけど」
「で、今日をわざわざ指定して俺に連絡取ってきたのは意味があるんだろ?」
俺たちは十五分ほど電車に揺られて、みなとみらいの地下駅で電車を降りた。長いエスカレーターを上がるといきなりでかい商業施設のど真ん中に出る。吹き抜けに三階分ぐらいの巨大なクリスマスツリーがそびえていた。
適当な落ち着ける場所が思いつかなかったから、電車でさくっと行けるところ、と考えた時に浮かんだのがみなとみらいだった。このまま数駅電車に乗れば中華街なのでそこでも良かったのだが、あいにく昨晩紗代子とがっつり中華料理を食べたばっかりだ。さすがに二晩連続中華街は健康にも財布にも優しくない。
昨日は紗代子とデートだったが、今日は由紀恵と業務打合せだ。デートじゃないんだから、気合い入れて店を選ぶ必要はない。
とは言っても、由紀恵はクリスマス直前の街の雰囲気に随分楽しそうな顔をしていた。物珍しそうに周囲を眺める様子が田舎もんっぽいところもあるが、ほほえましい気もする。
こいつ、そう言えばいつかの夏祭りの時もこんな顔していたよな。俺の中でふと忘れていた記憶が蘇る。なんだかんだ言っても俺たちは過去のある時間を共有していた。それは、忘れていることはあっても、消えることはない。
俺たちは商業施設内の手近にあったイタリアンレストランに、三十分ほどの待ち時間で入店した。さすがにこの時間、カップルや家族連れで店内は満席、あちこちで華やかな会話に満ちている。テーブルキャンドルがともる向かいの席で、由紀恵はグラスワインをすっと口に含んで話を切り出した。
「実はね、レポートの最後に、こう書いてあったのよ。『必ず五年に一度の経過観察を要する』って。で、受診記録を追ってみると、二十五年前からきれいに五年毎に関口先生、うちの病院に来院していたのよね」
「なるほど、つまり今年中にスズカが来院する可能性が高い、ということか」
「そう。今年がその五年に一度の経過観察の年なんだけど、もう十二月なのにまだ今年は来ていない。来るなら年内のはず」
「ん? ちょっと待て。じいちゃんは十年前にはもう亡くなっていたぞ? 誰が診察していたんだよ」
「国宮先生の後を引き継いで、ドクター・ノーエっていうアメリカ人の客員医師が診察を続けていたわ。だれなの、この人と思って調べてみたら、アメリカのアイダホ州立大学の教授で、結構血液学で有名な人みたい。うちみたいな病院にわざわざそんな有名先生が来るのもなんか変なのよね」
「じいちゃんの後任が有名な教授か。うーん、よく分からんなあ。十年前っていうと俺たち中学三年生か。五年前は二十歳……」
五年に一度の定期検査。中学三年生。二十歳の大学生のころ。どちらも俺が関口涼香と名乗る人物たちとじかに関わっていた時期だ。疑惑は、確信に変わりつつある。それは関口先生とスズカが俺の前から消えたタイミングと一致する。そして今年がその五年目にあたる。だと、すると。スズカは三度俺の前に姿を現すかもしれない。
「スズカは、先生は、来院して何の診察を受けたか分からないのかな」
「それが一般的な血液の生化学検査の結果しかカルテに残っていなくて。リョージくんは知ってるかな。よく成人病の検査に出てくるガンマGTPとかクレアチニンとか尿酸とかHDLコレステロールとか、そういうのだけカルテに残っているの。でもね、もっと細かい検査をした形跡があるんだよ。一般的な検査項目以外は秘匿情報にされちゃってて見られなかった。変じゃない? そこらへんで人間ドッグ受けてるのと変わらない結果だけが残ってるなんて。そんなのわざわざうちの病院指定で受けなくても、手近な町医者でもできるじゃない? しかも担当医はアメリカの有名な教授なんだよ? 絶対におかしいよ」
その時ウェートレスが「お待たせしましたー」と言って料理を運んできた。由紀恵はミートソース、俺は和風しらすの大盛だ。ウェイトレスが配膳する間は由紀恵はしばらくお行儀よく待っていた。
ウェイトレスが丁寧に配膳を終え、エプロンを翻して「ごゆっくりどうぞ」と去っていく。それを待っていたように、声のボリュームを落として由紀恵は切り出した。
「今日、リョージくんに無理言って時間作ってもらったのはね、実は、ドクター・ノーエが来週月曜日から一週間の予定でうちの病院に来ることになったって連絡があったの。これがどういうことか分かるでしょ?」
料理から上がる湯気の向こうで由紀恵の表情が引き締まった。テーブルキャンドルの灯りが切れ長の瞳に映っている。
「近々、スズカが由紀恵の病院に姿を現すかもしれない、ってことか。なるほど」
由紀恵はゆっくり頷く。
「本当は医療スケジュールなんて部外者に話しちゃいけないんだけどね。カルテの内容をペラペラ喋るなんて論外。でもね、リョージくん、私、それでも、リョージくんには知らせたかったんだ」
店内はそれぞれのテーブルの客のささやきで満ち溢れている。静かなジャズのBGMがふわりと耳をよぎった。俺の意識は目の前で口を開く由紀恵の口元に集中していた。
「これが私たちが関口先生と会える多分唯一のチャンスだから。この機会を逃すと次は五年後だし、その時どうなってるか分からないからね、先生も、リョージくんも、そして私も」
なるほど。それで、どうしても今日がいいと由紀恵は言ったのか。たしかに仕事納めが終わって、年末年始休暇に突入したら、俺と連絡が取れなくなるかもしれない。確実に年内に俺とコンタクトが取りたければ、この週末がラストチャンスだ。
「なるほど、分かった」
俺はワインで唇を湿らせた。
「由紀恵、俺、今から突拍子もない話をするけど、笑わないで聞いてくれるか?」
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