第18話 横浜(2)


 翌日午後二時すぎ、昼食を軽く食べた後、俺は少し厚着をして一人暮らしのマンションを出た。勤め先の新宿まで電車で二十分、家賃共込八万五千円のワンルーム。不動産屋に勧められて借りた部屋だった。普通しか停まらない小さな駅から狭い路地をぐりぐりと進んだところにある。ごちゃっとした外観の、どっちかというと見た目ダサ目のワンルームマンションだったが、暮らしてみるとわりと不満はない。風呂が異常に狭いのをなんとかしてほしいし、家賃がもう一万円安けりゃなあ、とは思うが、都内で常識的な通勤時間の範囲内ならこんなもんだろう。

 駅から職場に行くのとは逆向けの電車に乗って三駅目。高級住宅街の代名詞にもなっている田園調布で降りて、駅から一本離れた路地で指定された店を探した。歩いても数分、距離は大したことなかった。距離は。俺は店の前でドン引きした。


「……まじかよ、アイツ、何考えてんだ」


 まさかここじゃないだろうとスルーしかけたメルヘン丸出しの店構えに、指定された店名の看板を見つけて、思わず愚痴がこぼれる。このホワイトとピンクのパステルトーンあふれる店内で待てというのか! まじかよ。さすがに勘弁してくれ。

 いや、俺も田舎から上京してまる六年、都会の空気には一通りなじんだつもりだったが、さすがに一人でこんな店に入る度胸はまだない。こりゃメイド喫茶に一人で入る方がましだ。でもアイツの指定はここで待て、だった。しかたねーな、クソっ。

 おそるおそる、なかばヤケクソ気味に入り口の自動ドアを抜けると、店内には女子高生のにぎやかな甲高い声であふれていた。


 とりあえず注文して出てきた特徴のない味のコーヒーをすすって、文庫本を開いて読んでいるふりをとおす。


「なんかあいつー、ちょーやばくない?」

「もううちさあ、めっちゃあたまきてー」

「えー、そんなんらくしょーだよ」

「きゃはははは」


 女子高生軍団の会話は、聞いてるだけで頭痛がしてくる。字にするとほとんどひらがなで喋ってる。テーブル二つ離れてても余裕で聞き取れるところがまたすごい。都会の高校生は違うなあ。


 そんなこんなで我を消しつつ静かにパステルトーンの席を暖めていた。不思議なもので人間は環境に順応できるものらしい。三十分もすると少しずつ雰囲気を楽しむ、とまではいかないが観察する余裕が出てきた。

 どうやら店の一画を占領している女子高生軍団は、この近辺にあるお嬢様学校の生徒らしい。お嬢様女子高生も一歩校外に出ればこんなもんなのか。まあ、遠目で愛でてる分にはかわいくてよきかな。しかし感想がおっさんくせーな、俺。

 とりとめない思考とともに、俺は周囲をちらちらのぞき見しながら文庫本を流し読みしていた。


「ごめん、待った?」


 ページを十数回めくったところで背後から馴染みある声で呼びかけられた。なんとなく助かった気になってほっとする。ここはそれぐらい俺にとってケツのすわりがよくない場所だった。


「『待った?』じゃねーよ。おせーじゃねーか。こんなところで俺を一人で待たせるとか、拷問だぜ」


 文庫本を閉じて顔をあげた。そこにたたずむ女性を一目見て、思わず息をのむ。


「あ、ホントごめん。勝手に日にちも時間も私がピンポイントで指定したのに、その私が遅れて来ちゃダメだよね。ただね、一度でいいから来てみたかったのよ、この店。雑誌でさんざん話題になってるから」


 声の主はにっこりと笑って向かいの席に音もたてずに腰を下ろした。長くてしっとりとして艶のある黒髪が、パステルトーンの暴力があふれる店内にモノトーンの異質な落着きを放っている。


「かー、田舎もん丸出しじゃねーか。俺が女子高生に囲まれて喜んでるとでも思ってたんなら、極めて心外だぜ」

「あらあ、すっかり都会の風に慣れてる感出しちゃって。いやな感じだねー。田舎出身のコンプレックスを無理に隠してるみたいだよ?」

「おまえに言われたかないぜ」


 向かいの席に座った女性は、ウェートレスに手上げて「カフェラテください」と注文した。テーブルの上できれいな指をくんで、涼しい瞳でにっこりと笑って俺を見つめる。その表情には、見覚えがあった。それこそ記憶に思い切り刻み込まれたレベルで。

 ……いや、まいったよ。時の流れで女は化けるというけれど、俺の知らない間に見事に磨き上げられ、美しく花開いていた。降参だ。


「……でも、おまえ、きれいになったよな。見違えたよ、由紀恵」

「おお、ストレートに誉めてもらえるとは思わなかったわ。お久しぶりね、リョージくん、元気だった?」


 ひさしぶりに見た由紀恵は、都会風の化粧を纏った颯爽とした雰囲気の、スタイリッシュな女性になっていた。


 ◇


 由紀恵は出てきたカフェラテで両手を暖める仕草をしてから一口すすった。そして「さて」と前置きを入れてから話を始める。


「今日、なんか用事あったんでしょ?」

「ん、カノジョとデートの予定があったけど、キャンセルしたよ」

「へえー、リョージくんカノジョいるんだ。へえー。どうせ適当なこと言ってごまかして来たんでしょ。仕事が入った、とか言って」


 うっ、さすが由紀恵。手の内が完璧に読まれてる。考えてみたら由紀恵の顔を見るのは五年ぶりぐらいだ。ただ実家が近いから、帰省したり電話がかかってきたりするたびに、うちの母親から由紀恵の消息は問わずとも耳に入っていた。

「由紀恵ちゃん、在学中なのに看護士見習いとして駆り出されてるんだって。大変そうよ」

「由紀恵ちゃん、ここ二カ月学校行かないで働きっぱなしなんだって。で、お給料が見習いだからって時給がたったの千五十円なんだって。お母さんのレジ打ちでも九百五十円なのに、かわいそうだよね。あんたも大丈夫? え? ほとんど引きこもってる? だめねえ。由紀恵ちゃんを見習いなさい」

「由紀恵ちゃん、卒業して笹平病院に就職するつもりだったんだけど、見習いで派遣された東京の病院にそのまま就職するんだって。四年生の間ほとんど学校行かずに病院に行きっぱなしだったみたいだよ。あんたいっぺんその病院行って由紀恵ちゃんが働いているところ見て来なさいよ。しっかりしてるわよ。住所と電話番号教えてあげようか?」


 俺は母親の口から由紀恵の話が出るたびに「へえ」とか「ふうん」とか「たいしたもんだな」とか適当に相づち打って聞き流してはいたが、まあ頑張ってるんだな、とは思っていた。でもこんなに美人になっているとは聞いてない。まったく計算外だ。さすがにこりゃ魔法だ、魔法でなけりゃ、詐欺だ。


「なによ、あんまじっと見られると話しにくい」

「んん、由紀恵がこんなに都会っぽくなってるなんて、驚きだよ。いや、どっちかって言うとドン引きしてる」

「まあ、失礼しちゃうよね。……でも、私、東京に出てきて三年近くになるんだけど、ほとんど寮と病院の往復ばっかだったから、全然町のこととか分かんないんだよね。こんな店に一緒に来るような友達もまーったくいないし。増えた知り合いと言えば患者さんとエロいことしか考えてない医者ばっかり。そもそも時間がなさすぎるのよ。私、何回職場放棄して前箸に帰ってやろうと思ったか、数えきれない」


 由紀恵は眉をひそめた。たしかに話を聞く限り、先日の感染症騒ぎの間、医療現場はまさに鉄火場だったらしい。そこに右も左も分からない状況で放り込まれたら誰だって逃げたくなる。それを由紀恵は、気合いと若さからくる体力で乗り切ってきたんだろう。俺の推測だけど、おそらく都会への反発心みたいなものもあったはずだ。田舎もんが都会に馴染めずに逃げたと思われたくなかったんじゃないか。実は似たようなことを俺も考えたことがあるから、その気持ちは分かる。


「大変だったからな。学生時代から働いていたんだって? うちのかーちゃんが言ってたよ」

「うん。でも今はだいぶ余裕ができた。感染症さえ落ち着いたら、うちの病院、もともと外来少ないから、普段はそんなに忙しくないし」


 由紀恵は優雅な仕草でコーヒーカップをソーサーに戻した。修羅場を乗り切った自信がにじんで見える。

 こいつは、すっかり大人になっている……。

 でもやっぱりかすかに残る田舎っぽさがせめてもの安心材料だった。


「由紀恵」

「ん? なに?」

「おまえ、なんか、すげー偉くなったな。いや、カッコよくなったというか、風格が出たというか」

「ふふふ、惚れた? でもリョージくん、カノジョいるんじゃなかったの?」

「バーカ、そういうこと言ってんじゃねーよ」

「それよりもね、リョージくん、今日来てもらったのはね」


 由紀恵は言葉を切って本題に入った。わずかに緊張した面持ちだ。


「国宮先生、リョージくんのおじいさん、前箸村に来る前って、うちの病院にいたことあるんだよ。知ってた?」

「え、そうなのか? 知らんかったけど、そう言えば若いころ東京の病院に勤めていたことあるって言っていたし、俺が小さい頃も月に何度か東京に行ってたな」

「古いカルテ整理してて病院の倉庫で見つけちゃったんだ、国宮先生の研究資料。そのレポートを読んでみたの」


 ほお。若かりしじいちゃんの研究成果を由紀恵が読んだのか。でもじいちゃん、辺境の前箸村で一人で開業医やってたぐらいだから、そんな著名な研究医だったわけではないし、それほど目覚ましい研究成果を上げたとは聞いていない。

 前箸村のごく限られた住人の間で「国宮先生とこで診てもらえばほとんど病気知らずで若返るようだ」と評判になる程度の、ローカルな一介の町医者だ。事実、親父も俺も病院を継がなかったから、じいちゃんの引退と同時に廃院になっている。


「たいしたこと書いてなかったんだろ?」

「それがねえ。難しすぎて頑張って読んでみたけどあんまりよく理解できなかったのよ、書いてあることが」

「へえ。一応現役プロの医療従事者である由紀恵が読んでも分からないほど高度なものを書いていたのか。そりゃ驚きだな」

「まあ、それは私の勉強不足の面もあるんだけど……、それよりもね」


 由紀恵はそこまで話して居住まいを正した。


「もっと驚いたのはね、残っていた被験者のカルテなの。二通残ってたんだけどね。一通はお母さん、一通は生まれたばかりの赤ちゃんのものだったんだけど……、お母さんの方の名前が関口恭子さん」


 そこまで聞いて俺は確信した。


「もう一通の赤ちゃんの方は……」

「関口涼香、だったんだな?」


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