第17話 横浜(1)

 夜の首都高速はテーマパークのパレードよりも煌びやかで、躍動感に満ちていた。

 流れる車列が放つ光の束は、一時も休むことなくビルを見下ろし、地中にもぐり、川を越えて、海をもまたいで、メトロポリタンの鼓動を刻み続ける。


 カーオーディオからは外国の要人の突然の病死のニュースが流れる。最近やたら耳にするが、デートのBGMには不似合いすぎる。選曲を切り替えると、にぎやかなオールドロックンロールが煌めく街明かり一気に彩りを添えた。俺はアクセルを踏みながらかつてアメリカのハイウェイで聞いたシーンを思い出していた。

 左にウィンカーを出して本線から別れ、ぐいと横Gを感じる上り坂のカーブを回り切るとレインボーブリッジだ。クリスマスが近いこの時期は普段よりひときわ派手にライトアップされている。


「ねえ、リョージくん。なんかぼーっとしてるみたいだけど、大丈夫?」


 助手席から声をかけられて我に返った。紗代子が心配そうな顔つきで俺に視線を向けている。俺は首を横に振って、運転席のハンドルを握りなおした。


「ああ、いや、なんかちょっと昔を思い出していてね。悪かったな、紗代子、明日、行けなくなってさ」

「まあ、仕事だったら仕方ないよね。ここを通るってことは羽田にでも行くの?」

「羽田にするか? はっきり言って食事するところはたいした店ないぞ。海ほたるのイタリアンレストランにでも行こうかなと思ってさ。ほら、ちょうど今海上ライトアップ中だし。中華街でもいいけど。どっちがいい?」


 明日は休日だ。久しぶりに紗代子と休日がそろって、箱根あたりまでドライブにでも行こうか、と話していた。ところが、俺の方に用事が入ってしまったので、急遽金曜日のナイトドライブに変更した。俺は会社帰りに新橋のオフィス街で紗代子と待ち合わせて、そのままレンタカーのハリアーで首都高に乗ったのだった。レンタカーがダサいって? 紗代子はそんなこと気にしないタイプだからそのあたりは大丈夫だ。まったく問題ない。

 中華料理とイタリアンをてんびんにかけたのか、紗代子は少し思案顔してから、にっこりと笑って言った。


「そっか。んー、なんか海ほたるは寒そうだし、今日はがっつり食べたい気分だからダイエット中だけど中華街に行っちゃおうかな」

「花より団子、夜景じゃ腹は満たされないってことか。よし、了解だ」


 勝手知ったる湾岸線。道順は頭の中に入っている。俺はナビには触らずに、アクセルを踏み込んだ。


 ◇


 羽田の空港ターミナルの真ん中を超えると、湾岸線はまた長めの海底トンネルを抜ける。その先は近未来的な工場地帯の中だ。そして大きな海上橋を連続して抜けて、横浜港の入り口をまたぐ。ベイブリッジを過ぎてカーブを曲がると、右に分岐して、その後すぐ左側が出口になっている。ここはあらかじめ予期していないと、とても車線変更が間に合わない。周囲に合わせて走っていると簡単に降り損なって次の出口まで連れていかれてしまう、首都高でも屈指の分かりにくい初心者殺しの出口から高速を降りる。幸い俺は何度も来ているので迷うことはない。ただタイミング悪くいきなり交差点の赤信号で止められてしまった。


 そう言えば紗代子と付き合い始めてもう六年になる。穏やかで純粋で、およそあらゆる悪意とまったく無縁な、そんな紗代子とは、ドラマチックとは程遠い恋愛をしているという実感がある。

 俺にはそんな起伏の少ない付き合いで十分なのだろう。このままなし崩しに結婚して家庭に入って、平々凡々と年を重ねていくつもりだ。それのどこが悪い? いいじゃないか。二十歳の夏、一人で羽田に降り立ったあの日、あの日から俺は抜け殻になったんだ。すべての詮索も憶測も無意味だった。どうせ正解にはたどり着けないし、どこまで踏み込んでも真実には届かない。だったら追わず、求めず、目を塞いで生きて行けばいいんだ。そんなの負け犬だって? なんとでも言えばいい。

 俺は、俺の残滓として生きていく。

 そう、決めたんだ。


「リョージくん、どうしたの? 矢印出てるよ?」


 紗代子に声をかけられてハッとした。交差点の信号機は赤信号のまま、その下の青い矢印が地味な光を発している。慌て気味にハリアーをスタートさせた。後続の車がいなくて助かった。クラクションでどやされるところだったぜ。


 紗代子と俺は、ごく平凡に大学時代を過ごして、就職した。今年で三年目。ぼちぼち仕事にも慣れてきた。給料は普通だし、休みもそこそこ。特にこれといった不満はないし、これといった夢もない。俺の人生はどこまでいってもだだっ広い草原みたいなもんだ。そうであるべきなんだろう。


 広い通りをぐるっと回って、地下駐車場へと続くスロープを下がって行く。一方通行と右折禁止の組み合わせが障害となっていて、高速の出口のすぐ隣にある地下駐車場の入り口に入るのに数百メートル遠回りしてこないといけない。しかし、それに文句を言っても無駄だ。そういう風にできているなら、そういう風に使えばいいだけだ。

 地下二階は満車だ。そのまま駐車場の通路を地下三階まで潜って、やっと空き枠を見つけた。ハザードランプを付けて車をバックして停止させる。

 ハリアーから降りてリモコンキーでカギをかけていると、助手席から出て来た紗代子が俺の腕を取った。


「おなかすいちゃった。行こう?」


 どうしてこいつはこう、人を疑うということを知らないのだろう。この笑顔を見るたびに俺の中で叫び出しそうになる。

 あの時もそうだった。二週間ぶりぐらいに顔を合わせた俺に向かって、紗代子は悲痛なトーンで言っていた。


「スズカちゃん、お母さんの看病するために大学やめちゃうんだって……」


 そこには友人を気遣う純度百五十パーセントの気持ちだけがあふれ出ていた。しばらく音信不通になっていた俺とスズカとの間柄を疑うという発想は、紗代子にまったくない。俺はとっさに目を背けて「ああ、そうなんだ」としか言えなかった。それ以来、俺はスズカの話題を避け続けている。紗代子がどう思っているかは分からないが、スズカの話題には極力触れないようにしていた。やがて紗代子の口からスズカの名前が出ることもなくなっていった。それで、いいんだ。


「ねえ、今日、リョージくん、なんか変だよ? もしかして、イヤだった? 中華料理」


 心ここにあらずで歩いていたら、また心配気に顔を覗き込まれてしまった。しかし考え事の中身を中華料理と結びつけるあたりが紗代子らしい。俺は紗代子の肩を抱き寄せて「なんでもないよ」とささやいて、地下駐車場のエレベーターのボタンを押した。


 エレベーターを降りて地下駐車場の建物を出ると外はちらちらと雪模様だ。ぶるっと寒さが身に伝ってくる。師走の金曜日の夜七時。クリスマス前の街の中は賑やかで華やかだ。


「わー、ホワイトクリスマスだね!」


 紗代子は俺の腕を離して思い切り伸びをすると、中華街の中華風の門に向かって足を早めた。どうやらホントに腹が減っているらしい。こういう日常、悪くない。俺にはもったいない。紗代子は通りの両側に並ぶ店先のメニューボードを見ながら今日の夕食の店を物色し始めた。


 そんな紗代子を遠巻きに眺めていると、紗代子がふと通りの向こうに目を向けた。

 俺もつられてそっちに視線を向ける。そこにはきれいな金髪の小学校低学年ぐらいの白人の女の子が手をこすり合わせながら、白い息を吐いて俺たちをじっと見ていた。紗代子が俺の方に向かって手招きをする。


「リョージくん、あの子……、迷子じゃない? 声かけてあげようかな」


 たしかに紗代子の言うとおり、どう見ても観光客としか思えない白人の少女が異国の路頭で迷っているんだから、ここは助けてやるべきだろう。

 と思っているうちに、紗代子が少女のそばまで行って腰をかがめた。俺から見ると紗代子の背中ごしに少女の顔が正面に見える。少女と同じ高さまで腰を下ろした紗代子の華奢な背中が小刻みに動いている。どうやら何か話かけているらしい。

 中華街の極彩色の街並みに、白人の小さな女の子の取り合わせは、ミスマッチも甚だしい。しかし、空から降ってくる雪のかけらと相まって、それはそれで一枚の絵になっていた。マッチ売りの少女・イン・横浜中華街、そんな感じの風景だ。


 紗代子は少女の手を握って両手で暖めてあげながら、語りかけている。口元から白い息が漏れている。「随分冷たくなってるね」とでも言っているのだろうか。金髪の少女は冷ややかな無表情でかがんだ紗代子を下目使いで見ていた。見ようによってはふてぶてしい。


 やにわに少女は紗代子の手を離すと、驚く紗代子の側をすり抜けて通りを横切って俺の方に駆け寄ってきた。そして、俺に体当たりのごとくぶつかってぼそりとつぶやいた。


「リョージ?」


 あ? 俺の名前が聞こえた気がするけど気のせいか?


「ユー、リョージ・クニミヤ?」


 再び金髪の少女は言った。いきなり金髪の白人少女にフルネームで呼ばれて、思わずビビってしまう。


「あなたがリョージ・クニミヤなのね? お手紙、預かってる。これ」 


 少女は聞き取りづらい早口の英語で表情を動かさずに言った。まるで人形が喋っているような感じを受ける。

 少女はさっとポケットから封書を取り出すと、俺の手に押し付けた。少女が持つにはあまりに素っ気ない横綴じの洋封筒だ。外気で冷たくなった封書を半ば押し付けられて呆然としていると、少女は挨拶もしないですたすたと走り去ってしまった。

 その間わずか一秒足らず。紗代子が立ち上がって俺の方を向くころには、すでに少女は人混みのかなたに走り去ってしまっていた。紗代子は少女の行方を視線で探しているが、もはや金髪を視界にとらえることは叶わない。それほど少女の逃げ足は速かった。

「いったい、なんだったのかしら?」と訝しがっている。

 が、すぐに気を取り直したように周囲に輝くネオンを見渡して、にこりと笑顔を見せた。


「逃げられちゃったみたい。私、そんなに怖い人に見えたのかな。ちょっとショック」


 俺も呆気に取られたが、少女が残した手紙を咄嗟に紗代子の眼に触れないようにコートに隠した。

 

 直感的に思ったんだよ。

 ーーーこれを、紗代子に、見せてはいけない。

 紗代子は踵を返して俺の側にきた。金髪の少女に逃げられたことを恥じて、それをごまかすかのように笑った。


「とにかくどこかお店に入ろうよ。寒いしおなかすいたから。あったかい物が食べたいな」


 俺は紗代子の純粋さに助けられた、と思った。


 なぜなら。

 少なからず、あの少女の正体に思い当る節があったからだ。


 おそらく、あの子は、俺の封印した過去からの使いだ。

 おそらく、この手紙には、俺が向き合うべきこれからのことが書かれている。

 そして、この五年間、俺を悩ませ続けた謎と疑問の正体が、これで分かる……。


「ここにしよっか!」


 紗代子の明るい声に、俺はまた現実に引き戻される。店の入り口でせいろが盛大に白い蒸気を噴き上げている。その店の中に紗代子ははずむように踏み入って行った。


 俺は紗代子の後を追いながら、振り返って少女の去って行った方を眺める。


 そこにはちらつく雪と人々の往来だけが見えていた。

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