第16話 前箸村(8)

「なあ、由紀恵」

「なあに?」

「やっぱ、俺が……悪かったんだよなあ、先生が辞めさせられたのって」


 学校の補習の帰り道。今年は雨の日が多かった七月の前半を過ぎると、途端に狂ったような暑さの日が続くようになった。まさに夏本番だ。

 容赦のない陽射しが照り付ける渓谷沿いの小道を、私は同級生のリョージくんと並んで歩いていた。

 左手にはぎらぎらと陽光を照り返す笹平川の流れ。右手にはむせ返る緑の田んぼが広がり、そして山沿いのバス道。


「俺が後先考えずに先生の車に乗り込んだせいだよな……」

「それは、違うよ、リョージくん。関口先生は辞めさせられたんじゃなくて、故郷のお母さんの看病しなくちゃならなくなったから、休職したんだよ?」


 ここ数週間の間浮かない顔を続けるリョージくんは、今日も言葉少なく口どりが重い。そんなリョージくんに合わせたわけではないが、私は私で浮かない面持ちで答える。


「それに、どっちかっていうと、悪いのはいきなり大騒ぎしたうちのお父さんなんじゃないかな、って気がするんだ。少なくとも私は、そう考えてる……」


 ◇


 あの日、私たちが龍刻寺の駐車場に戻ると、自称大学生の男たち、羽生坂と蛇麻杉が、二台のパトカーに別々に乗せられて、それぞれ警察官に取り調べられていた。私たちも制服の警察官に簡単に事情を聞かれた後、「キミたちはもう帰りなさい」と帰宅するように言われて、先生たちを残して帰路についた。

 リョージくんに送ってもらって歩いて五分ほどで家に着く。すると、お父さんが玄関で仁王立ちで待っていた。私の泥で汚れた浴衣の裾を見るなり、お父さんは烈火のごとく怒り出した。ヤバい、志保ちゃん誘拐未遂事件は、すでにお父さんの耳に入っているんだ。お父さんの怒った顔を見て私はとても申し訳なく思った。

「先生がついていながら娘をこんな目に合わせるなんて、絶対許せん! 教育委員会に電話してやる!」と怒り心頭のお父さんの剣幕に、私は「ごめんなさい」ととっさに謝るしかできなかった。けど、よく考えたら私の謝罪には、なんの意味も価値もない。私自身は被害者でもないし、関係者と言えるかどうかですら怪しい。


 しかしお父さんは、誘拐されかかったのは私じゃなくて志保ちゃんだ、と何度言っても全く聞き入れてくれなかった。後でお母さんから聞いたところでは、誰が誘拐されかかったかという情報がなかなか入って来なくて、お父さんは私が被害にあったのではないかと随分心配していたらしい。たしかに誘拐未遂という物騒な話があったこと自体が問題で、決して被害者が私でなくてよかった、という話ではないことはよく分かってはいるけど……。


 そんなことがあった翌週月曜日の朝、学校に行くと、当の志保ちゃんがケロッとした顔で「おはよー」と爽やかに言い放ったのにはさすがに心底驚いた。彼女は眠らされていた間のことをまったく覚えておらず、村中が大騒ぎになっていたことをほとんど知らなかった。

 一時は女子中学生誘拐事件として捜査本部設置寸前まで行っていたらしいことも。先生の車の中からかけたリョージくんの通報で、パトカーがトンネルの向こうから先回りして志保ちゃんを確保したことも。例の二人、羽生坂と蛇麻杉が同じ手口で女子高生に悪さをして、あまつさえ被害にあった女子生徒の下着をコレクションまでしている極悪非道で鬼畜外道な奴らだったことも。そして、極悪非道で鬼畜外道な二人が人気ひとけのない山中の車の中で、まさに志保ちゃんを毒牙にかけようとしていたところだったことも、彼女は知らない。

 それが救いと言えるのかどうかはとっても微妙だけど、志保ちゃんの中ではイケメン大学生にちやほやされて、とても楽しかったという夏祭りの記憶だけが鮮明に残っているみたいだ。


「せっかく羽生坂さんにグレートビッグパフェおごってもらう約束だったのになー。蛇麻杉さんは渋い声でこんどマンションに遊びに来なよ、特製のパスタ作ってあげるからさ、って言ってくれたし。蛇麻杉さんのバイクに二人乗りさせてもらう約束もしたのになー」


 自分の身に迫っていた危険は、まるで異世界の出来事のように、心底残念がる志保ちゃんに対して、私はそっと思ったものだった。もう、志保ちゃんとはこれまでのように仲良くできないかもしれない、と。


 何事もなかったかのように日常に復帰した志保ちゃんとは逆に、その日から関口先生は学校を休むようになった。


「今日から一組の担任になった炭蛸すみたこ幸炉こうろです。担当は社会です。受験直前で担任が変わることになったけど、みなさん、動揺しないでしっかり勉強してください。あ、それと教材の本を指定しますから、みなさん必ず買うこと。たくさん買ってくれればいい点付けてあげますからね」


 次の日、火曜日の朝のホームルームに見慣れないメガネの女の先生がきて、ちょっと冷徹な声で挨拶をした。「巨乳だけどなんかこわそう」「なんか見た感じドSっぽいよね」「むちとろうそくとボンテージの方が似合ってる」「さりげなく本の宣伝してない?」とひそひそ話をするクラスメートを代表して、シンヤくんが手を上げてド直球の質問を投げた。


「先生! 質問! せっちゃん、関口先生はどうしたんですか?」

「関口先生はですね、先日のケガで入院されていたのですが、回復が思わしくなくて、その上ちょうどお母さんのご病気が悪化して、看病しなければならなくなりました。ですので、休職されて、ご実家に帰られることになりました。みなさんと挨拶もできずにおわかれしなければならないことを、とても悲しんでおられました」


 炭蛸先生は目を光らせてそういった。「それ以上聞くな」という超強力な視線のレーザービームに、シンヤくんもそれ以上の言葉が継げなかった。


 ……嘘だ。

 私はすぐにそう思った。

 関口先生、腕を切って血を流してたけど、入院するほどの傷なんてなかった。警察の取り調べにも普通に受け答えしていたし。ましてやそれで実家に帰らなきゃならないなんてことが、現代医学で起こるはずがない。マキロン振りかけてワセリン塗って終わりにしても、ぜんぜんおかしくないレベルの傷だったはずだ。

 これはうちのお父さんが県庁で、大声でなんか騒いだに違いない。きっと、そうだ。


 ◇


 リョージくんと私は並んで川沿いの道を歩いている。

 セミの鳴き声が今日も盛大に周囲をうずめている。


「うちのお父さんが騒いだせいで、先生が責任取って辞めさせられたんだよ、絶対そうだ。なんか、私、どうしたらいいんだろう」


 思わず涙声になってしまった私に、リョージくんがそっと否定の声を上げる。


「表向き看病で休職ってことになってるけど、絶対違うよ、由紀恵。やっぱ俺が由紀恵を連れて先生の車に強引に乗り込んだのがいけなかったんだよ。校長先生にお願いしたら、先生戻してもらえるかな?」


 クラスのみんなは意外とすぐに新しい炭蛸先生に慣れて、ここ数週間ですっかり関口先生のいない日常が普通になってきている。事の発端になった志保ちゃんまでもが、しれっと炭蛸先生に懐いているのが、さらに持って行き場のないイラつきを増大させた。私とリョージくんだけが、なにか解せないものを抱えて悶々としている。

 まったくこのモヤモヤ感、なんとかならないもんかしら。

 私はリョージくんにちらりと視線を送ると、スニーカーのつま先で小石を蹴った。数秒の間をおいて、ぽちゃん、と笹平川の清流に水音を響かせた。


「なんかさあ、リョージくん、私たちって……無力だよね」

「……それ言われると、キツい。早く大人になりたいと思うよ。わりとマジで」


 リョージくんも同じように小石を一つ笹平川に向かって蹴り飛ばした。その小石は川の流れまで届かず、手前の草むらで鈍い音を立てるだけだった。リョージくんは、じっとそれを見つめていた。


「あなたたち、そんなこと気にしてるの? ふふふ、それは考えすぎ」


 その声に振り向くと、川沿いの道路に関口先生が立っていた。背後には私たちを乗せて走った赤い車がある。ラフで涼し気なノースリーブにGパン姿だ。しかも長かった髪を少し切ってセミロングにしている。もともと大人っぽい落ち着いた雰囲気だったのが、随分若返って、というよりも幼い感じになって、女子大生ぐらいに見える。


「先生! どうしてたんですか! なんで学校来ないんですか!」


 リョージくんが驚いた顔で先生のところへ駆け寄った。私もその後ろに続いて先生に叫びながら走り寄る。


「関口先生! 学校辞めちゃうってホントなんですか!」


 先生は少し短くなった髪を軽やかになびかせてリョージくんの側に並んだ。笹平川の流れに目を向けながら、いつもの落ち着いた声で話し始めた。


「車で走っていたら、あなたたちが見えたからね。先生、ここ前箸村を離れることになったの。ちょうど今から出発するところ」

「先生! もしかしてうちのお父さんがなんか言ったからなんですか? もしそうならら私、先生になんて言ったらいいか……」

「教育委員会にこってり絞られたのはホントよ。でも、先生、あの時のケガの具合が良くなくてね。先生のお母さんの看病がてら、アメリカで療養することにしたの。由紀恵ちゃんは気にしなくていい。むしろあなたたちの卒業を見届けられなかったのが、とっても心残りなんだから」

「先生!!」


 先生は私たちを両手をひろげて両腕に抱え込んだ。そして私の両手を握ってまっすぐに瞳を見て言った。


「由紀恵ちゃん、あなたには未来がある。人生はまだまだ続くわ。今、思い通りになるのが最善とは限らないのよ。それだけはしっかり覚えておいてね」


 そして同じようにリョージくんの両腕を握る。


「リョージくん、さよなら。将来わたしがキミの前に再び姿を現しても、キミはもう、わたしのことに気が付かないかもしれない。でもそれでいいのよ。キミはキミの時間をまっすぐ歩いていってほしい。先生のことはきれいさっぱり忘れてくれていい。それがキミが大人になるための関門だから」


 先生は言葉の出ない私たちの手をもう一度握ると、一歩後ろに下がった。


「じゃあ、先生行くね。あなたたちと最後に話せて、良かった」


 そしてゆっくり後ろを向くと、静かな足取りで車に戻っていった。


 並んで先生を見送るリョージくんの、何かをこらえるその表情を、私は痛々しいと思った。


 前箸村の夏は、これからが本番だった。




(第二部 前箸村編 完)

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