第15話 前箸村(7)

 道はいつしか渓谷沿いに入っていった。狭い谷間は夕暮れ時の空の色を残して、周囲はすでに暗がりになっている。谷沿いの道路は川の流れにそって蛇行しながら続いている。峠のトンネルまでは一本道なので、前方の志保ちゃんを乗せた車のテールランプを見失うことはない。先生は数百メートル以上間を空けて志保ちゃんたちを乗せた車の後ろを追跡している。


「いつまでも先生がこうやって後ろを走っているわけにはいかないわよね。パトカーに来てもらった方がいいかな」

「先生、あいつら曲がる!」


 先生が思案していると、助手席に乗ったリョージくんが声をあげた。見ると前方の志保ちゃんの乗った車がブレーキを踏んでウィンカーを付けている。


「あ、旧道に入るつもりなのね。とにかくついて行きましょう」


 先生アクセルを踏み込んで、旧道の分かれ道まで走った。ぐいっとハンドルを切って県道を外れて細い山道に入る。この道はトンネルができる前まで県道だった旧道で、標高千メートル近い山をトンネルを使わずに越えている。江戸時代の街道だ。かろうじて舗装はされているが、急カーブと急勾配の連続。身体が左右に揺すぶられてすこぶる乗り心地は悪化した。運転している先生はもっと神経を使っているだろうとは思うけど。


 見通しの効かない旧道をスピードを落とし気味に登って行く。いかんせんカーブが多いのでスピードが上げられない。先生は忙し気にハンドルを回して、地形にはりつくようなカーブを一つ一つクリアして行った。すっかり周囲は暗くなっている。


「先生、剣持先生に知らせておいた方がいいんじゃないですか?」


 助手席からリョージくんが先生に声をかけた。


「そうね。普通に追跡したら、みんなトンネルの方に行っちゃうわよね」

「先生、私、カスミちゃんに電話します!」


 スマホをタップする私を先生は手で制して柔らかく諭した。


「由紀恵ちゃん、カスミちゃんたちは多分危ないから龍刻寺に残されたと思うわ。だから、カスミちゃんに電話かけてもダメよ。あなたたちも本当だったらこんな危険なところに連れて来ないんだけどね」


 先生は、助手席のリョージくんを横目で見て笑った。


「リョージくんも止める暇もなく車に乗り込んで来るところとか、咄嗟に由紀恵ちゃんまで連れて来ちゃうところとか、さすが国宮先生のお孫さんね。まったく、ムチャするところ、そっくり」


 ん? 国宮先生ってお医者さんだったリョージくんのお祖父さんのこと? リョージくんも突然出て来た国宮先生という言葉に違和感があったらしく、少し不思議そうな「ん?」という顔で先生を見たが、一応「すみません。つい俺も行かなきゃ、って思っちゃって」と謝っている。

 先生はリョージくんの謝罪を薄い笑顔だけで答えた。そして何も言わずにまるで高原のカントリーロードを運転しているかのように黙って車を進めた。


 私は直感した。先生、なにかごまかしてる……。


 先生は、自分のセカンドバッグを片手で探ってスマホを探り出すと、画面のロックを片手ではずしてリョージくんにぽいっと手渡した。


「先生の車、かかってきた電話はハンズフリーで取れるんだけど、発信が上手く行かないのよね。リョージくん、悪いけどこれで剣持先生に直接かけてみて」


 リョージくんは焦った様子で自分の手をごしごしと服でこすると先生のスマホを耳にあてた。


「もしもし、剣持先生ですか? あ、あの、二組の国宮僚司です。あの、今、関口先生の車で……、はい、そうです。県道を峠に向かって、……はい、峠下に方に行く旧道に曲がりました。……はい、気を付けます」


 通話が終わるとリョージくんは今度はスマホの画面を自分のTシャツでぬぐってから先生に返した。


「ありがと。そこに置いといて。剣持先生、怒ってたでしょ」

「はい。危ないことするなって」

「まあ、そう言うわよね。普通は」


 その時、ヘアピンカーブの手前の膨らんだ路肩に止まっている車が見えた。ここだけ道幅が広くて、広場みたいになっている。


「先生! あそこ! 車が!」


 助手席のリョージくんがフロントガラスを指さして声を上げた。一気に車内に緊張感が走る。先生は前方の車の少し手前で、ヘッドライトを付けたまま車をそろりと止めた。


「あなたたち、ここにいて。車のドアはロックしておきなさい。開けちゃだめよ。絶対ね」


 先生はそう言い残すと、バタンと車を降りて飛び出して行った。車内が急に静かになる。ひぐらしの鳴き声が聞こえるには暗すぎる森が、重く私の視界を染めている。路肩の街灯に虫が群がっている。


「由紀恵、先生、大丈夫かな」


 物音がなくなった車内に、リョージくんの言葉が響いた。フロントガラスを凝視すると、先生がもう前方に止まっている車の元まで行っているのが見える。運転席の窓ガラスをノックして何かを言っているっぽい。


「俺、行ってみようかな」

「リョージくん、やめときなよ、先生に待ってろって言われたじゃん」

「でもさ……」


 リョージくんは落ち着かない様子だ。

 その時、前方の車のドアががばっと空いた。先生が後ずさる。運転席から出て来たのは蛇麻杉という男、ではなかった。長身で金髪の白人の青年だった! ヘッドライトが鮮やかに輝く金色の髪の毛をピンスポットのように照らし出している。


 え? こんな田舎の、車もロクに通らない旧道に? 金髪の白人?

 えええええ? どういうこと?


 混乱する私。リョージくんもびっくりして硬直している。白人の青年は先生の前に立ちはだかると、どんどんとにじり寄って行く。先生が後ずさりながら何か言っている。


「あ、そういえば、さっきの志保が乗せられた車とは、ナンバーが違う! あれ、ヤバいんじゃないか? くそっ、由紀恵、俺、やっぱ行ってくる! 由紀恵はそこにいろよ!」


 それだけ言い残すと、リョージくんは飛び出して行った。


「おい! やめろっ! 先生から、離れろーー!」


 リョージくんが大声で叫びながら先生と男の間に突進していった。そのままの勢いで男に飛びかかる。男はそれをさらりとかわして、再び先生と向き合った。リョージくんは勢い余って、男と先生の側を通り抜けてしまった。それを見て私もたまらずに車を飛び出した。


「先生!」

「(”&#&(’$&”&”%#Q”(#&‘‘{L+*~! )$#’($&’#’|」


 白人の青年が何か英語でうそぶいている。正直意味はよく分からない。


「誰が好き好んで行くと思ってるの! ’$” blood &$#() tell ”’ @

 Chirs#&$( Prestickson ”’#’( never =|{*%$”!」


 めったに聞かない先生の怒った声が響いた。日本語と英語のちゃんぽんだ。私のヒアリング力では、bloodという単語しかはっきり分からなかった。けど金髪の白人の青年の表情と、苦虫をかみつぶしたように吐き捨てる先生の様子から雰囲気がよくないことは分かる。


「どいてよ、邪魔よ! 私は今、教え子を追っているんだから! あんたたちにかまってるヒマ、ないの!」

「We|~&%”$)#}*Suzuka ,+=”$&back to ‘&”%&#,our Boss, Townsent&¥@|!」


 白人の青年が英語で声をあげながら先生の手を掴む。そこへリョージくんが再び突っ込んできた。白人の青年と先生は、リョージくんのタックルで手をつないだまま倒れ込む。道路へ倒れ込んだ先生の手がすれて血がにじんだ。リョージくんは素早く先生の手を握って引っ張り起こし、車に向かって走り出す。


「由紀恵も、車に戻れ! すぐ逃げるぞ!」


 白人の青年は起き上がって、長い手を伸ばして先生をつかもうとした。私はうしろを振り返ることもできないで、必死に車に向かって走った。


「Suzuka,wait there! &%#}”%&*+=”$&‘&”$)#&¥@&#&¥|&”$!」

「余計なお世話よ! =”$&‘#&&¥@&#&¥”$)#&¥@&#&¥|&”$,never go,anyway! 監視しても無駄だから!」


 先生がまた日本語と英語のちゃんぽんで声をあげた。英語の部分は半分しか意味が分からない。でも来いと言っている白人の青年に向かって、行かない、と拒否していることはネヴァーとゴーの単語で見当がついた。しかし、今は読解力とかヒアリング力とか言っている場合ではない。私、リョージくん、先生の順に車に取りついた。素早く乗りこんで急いでドアを閉める。バンと勢いよくドアを閉める音が三回、山並みに響いた。


 先生はハンドルをつかむと、すぐに車を発進させる。慌てて道のわきに避ける白人の青年の横をすり抜けて、ヘアピンカーブの上り坂を走り出した。すぐに白人の青年は見えなくなった。私は後部座席でやっと一息ついた。浴衣の裾が泥だらけになっている。


「あれ? あ、血だ! あ、先生の腕、血が出てるよ。大丈夫?」


 助手席でシートベルトのバックルを締めようとしたリョージくんがふと手もとを見た。そこには血が付いていた。よく見るとどこかで切ったのか、先生の腕から血が流れ出ていて、運転席の周りに飛び散っている。ハンドルもシフトレバーもところどころ血で赤い。


「触らないで! 先生に触ってはいけない!」


 びっくりするほど大きな声で先生がリョージくんをたしなめた。そしてブレーキを踏んで路肩に車を止めると、コンソールを開けてウェットティッシュを取り出してリョージくんに手渡した。


「リョージくん、これで血を拭きなさい。先生の血を口に入れたらダメ。絶対にダメだから。すぐに拭いて!」


 リョージくんは先生の剣幕に驚きながら、手についた先生の血をぬぐい取る。


「由紀恵ちゃんも血に触っちゃだめだからね。こんな傷は大したことないからすぐ直る。先生の心配はいらないわ」


 先生はそれだけ告げると鬼気迫る勢いでウェットティッシュを何枚も引き抜いて、車内についた血を拭きとった。赤黒くシミのついたティッシュをプラスチックのゴミ箱に放り込んでいく。


 その時突然ビバルディの着信音が鳴った。コンソールに放置してあったスマホを先生がつかんで耳にあてる。


「あ、剣持先生。……そうですか、良かった。トンネルの向こうから先回りしたんですか。やっぱり警察に任せるのが一番ですね。……ああ、こっちは無事です。……ええ、二人とも。私はちょっと手を切っちゃって出血してますけど、大したことありません。……はい、戻ります」


 先生は通話を終えると私たちに向き直った。


「志保ちゃん、無事保護されたって。良かったわね。龍刻寺に戻りましょう」


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