第11話 前箸村(3)


「志保ちゃん、その大学生の人にちゃんとお断り入れなきゃだめだよ?」

「分かってるよー」


 私たちは小石を蹴飛ばしながら龍刻寺の山門からの短い参道の石畳を並んで歩いていた。山門は前箸の集落を一望に見下ろす小高い丘の上。灯り始めた家を下の方に眺めて、狭い石段を足元に注意しながら一段一段降りて行くと、いつしか家並みがだんだんいつもの目線の高さに降りてくる。


 しかしなんでリョージくんのアポを、志保ちゃんのために、私が取ってあげるという役割分担になってしまったかなあ。志保ちゃんはすっかり私に任せておけば大丈夫的な雰囲気で、文字通り大船にのった気でいるけど。

 いや、私、リョージくんのマネージャーじゃないし、志保ちゃんの秘書でもないんだよ、と言いたいところだけど、今さら遅い。遅すぎる。

 ホント私ってなんだかこういう貧乏くじ引いたみたいな状態になること多いんだよね。イヤになっちゃうな。


 また、私はふうっとため息を吐き出した。


「それでさあ、夏祭りなんて二時間も見れば十分じゃない? その後どうしたらいいかなあ。ここ田舎だから夜行くところもなんにもないし……」


 志保ちゃんは相変わらずそんな私に目もくれず、楽しい未来だけしか見えていない。彼女の話声は私のあまり頭に入ってこなくなっていた。どこまでも楽し気に当日のデートプランの組み立てに熱中する志保ちゃんに、私は生返事を繰り返すだけだった。


 ◇


 塾のあった日から二日。明日は夏祭りだというのに、結局私はリョージくんにちゃんと話をできていなかった。ただ、登下校の途中にそれとなく話を聞いた感じでは、例年通り家の近い私に声をかけて夏祭りに行くつもりらしいことだけは確認できた。私はそれだけでなぜかほっとしてしまって、その先、志保ちゃんと約束していることが言い出せていない。


 今は昼休みの後の五時間目。教室の中には弛緩した空気が流れている。開け放たれた窓から流れ込む風は暑くもなく寒くもなく、心地よく頬を撫でる。現在完了形を熱心に解説している関口先生には悪いけど、私も半ば先生の声が耳を素通りしていた。左手で頬杖を突いて、右手で先生の喋ってる言葉を機械的にノートにメモしていく。これ、あとでノート見て何書いてるか自分で分かんなくなるやつだなー、と思った。


 私はふとシャーペンを止めた。筆記音が止まると静寂が広がって、ますます先生の声がはっきりと、しかし遠くに聞こえるようになる。考えてみたらここ数年、夏祭りに行くのに私とリョージくんはちゃんと約束なんてしていなかったことに気が付いた。

 中一の時は女子の友達数人と会場に行ったら、男子グループと屋台で鉢合わせした。そりゃ大して広くないお祭り会場だし、人波もそれほど多いわけじゃないからばったり会っても不思議はない。そのグループの中にリョージくんはいた。みんなで買い食いを適度に楽しんで、お堂の前でおしゃべりしてリョージくんと一緒に帰って来た。

 中二の時は家を出たところで祭りに行くリョージくんとばったり会ったので、「リョージくんも行くの? じゃ、一緒に行こっか?」と声をかけて会場まで一緒に行った。結果的にまた男子も女子もみんな集まったのだが、買い食いしている間に三つほどのグループにばらばらになってしまって、リョージくんとは別行動になってしまった。結局彼がいつ家に帰って来たのか知らないし、興味もなかった。


 しかし、今年はどうにも意識してしまう。それもこれも志保ちゃんが私に課した「リョージくんとの二人の夏祭りをセットして」という無茶なタスクのせいなんだけど、いや、それは十分すぎるぐらい分かってるんだけど。


「あー、なんかうまく行かないなあ……」


 ため息が知らないうちに心の中の声をそのままの形で連れ出してしまっていた。


「人生はね、うまくいくことばっかりじゃないのよ、由紀恵ちゃん。そのことは先生もよーく知ってるけどね、今は現在完了形の『経験の用法』について覚えてね」

「は、はいっ!」


 教壇に立つ先生からの突っ込みで我にかえった私は、思わず起立して裏返った声で返事をしていた。はははは、と教室の中が明るい笑い声が響いて、一気に弛緩した空気に活気がみなぎる。私のひとり言は思いのほか大きな音量で教室の中に響いていたようだ。私は赤面して「ごめんなさい」と先生に向かって頭を下げる。うー、恥ずかしい。穴があったら入りたい……。


 関口先生は仕方ないなという風に教科書をパタンと閉じて教壇の上に置いた。

「由紀恵ちゃんまで集中力が切れちゃうんじゃ、もう今日の授業はこれ以上やってもダメみたいね。本当は『完了の用法』までやりたかったんだけど、もう今日はここで終わり。みんなどうせ頭に入ってないでしょ?」


 先生はにっこり笑って続けた。


「まあ、仕方ないわね。先生も経験あるから分かります。気候のいい季節の午後の授業はどうしても緩んじゃうからね。シンヤくんもさっきからすっごい眠たそうだしね」


 再びはははは、と図星を突かれたきまりの悪さをごまかす笑い声で教室があふれた。


「少し雑談しましょうか。みんな、飛行機乗ると時差ボケになるのは知ってるよね。あれを回避する方法、どうしたらいいか知ってる? CAの人は外国に行っても現地時間を完全に無視して、できるだけ日本時間に合わせて行動する、って言われるけどね。先生はアメリカで暮らしていたことあるから何度も飛行機で行き来してるんだけどね、とにかく飛行機に乗ったらすぐに寝るのが一番なの。朝の飛行機でも昼の飛行機でもね。もう何も考えないで寝るだけ寝る。これで時差ボケはだいぶ回避できるわ。みんなも国際線乗ったら試してみてね。この中で飛行機の国際便乗ったことある人いるかしら?」


 教室の中には沈黙が広がった。この田舎の中学校には、海外はおろか東京にすら行ったことがない人の方がまだ多い。


「まあ、あんまり気にしなくていいわよ。いずれみんな外国に行く機会があるでしょうし、別にその機会なんかなくても、生きていくのにはなんの不都合もないからね」

「先生!」


 お調子者のシンヤくんが手を勢いよくあげて大きな声を出した。さっきまで居眠りしてたのにまったく調子のいいヤツだよね。でも、ぼーっとして発したひとり言のせいでみんなの授業を切り上げさせてしまったのは私だから、あまりシンヤくんを責めることもできない。


「先生! アメリカ行くには何日ぐらいかかるんですか? 俺、高校生になったらアメリカ行ってみたい!」

「アメリカは横に広い国だからね、国の中で時差があるのよね。東海岸のニューヨークと西海岸のロサンゼルスとでは四時間の時差があります。日本からだとニューヨークに行く方が時間がかかるわ。飛行機で行きは十三時間、帰りは十五時間よ。行って帰ってくるだけなら二十八時間、朝に着く飛行機で行って、夕方の飛行機に乗って戻ってくればゼロ泊三日でアメリカ気分は味わえるけどね」

「まじで! ゼロ泊弾丸ツアー、なんかかっこいい! 俺、やってみようかな!」

「シンヤくん、そんなビルゲイツじゃないんだから。忙しすぎるエリートビジネスマンみたいなことしないで、先生としてはじっくりアメリカの風を味わってほしいな。無茶するよりも普通に旅行した方がいいんじゃないかしらね。ちなみにアメリカは野宿とヒッチハイクは禁止されてるからね。あと観光目的なら九十日までノービザで行けるのよ。覚えておくと役に立つかも」

「え! じゃあ一年間行きたかったら、どうしたらいいの?」

「出発前にビザを取るのよ。入国許可ってやつね」


 えー、シンヤは顔がブサイクすぎるから入国拒否されるんじゃないかー、こないだエロ本持ってて先生に没収されてるからアメリカに入国できないよー、と男子からも女子からもヤジが飛ぶ。

 私も笑いながら、ぐちゃぐちゃ考えていてもまともな結論出なさそうだから、放課後先生に相談してみよう、と思った。

「俺、ぜってー金髪碧眼超絶美人のカノジョ作るからさ、おまえたちイモ女子全員、俺の金髪カノジョ見て腰抜かすなよ! やっぱ時代はアングロサクソンのカノジョだぜ! イモ女子どもはすっこんでろってんだ! 特にカスミ、おまえ、謝るなら今のうちだぜ!」

「シンヤ、あんたいい加減にしときなよ! そんな美人があんたなんか相手にするわけないじゃない!」


 シンヤくんの煽りで一気に陸上部のカスミちゃんを筆頭にした教室中の女子VSシンヤくんの対決構図になった。もはや教室は制御不能アンコントローラブルな喧噪状態だ。いかに未来のカノジョ(ただし架空)が素晴らしいかを力説するシンヤくんと、そう言う話はホントに金髪超絶美人のカノジョを作ってから言え、というカスミちゃんのごく当然の反論の言い合いが響く中で、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。


「はい、今日の授業は終わり! みんな、次の授業はこんなヌルいことしないから、ちゃんと予習してきてくださいね。日直さんはだれ? 号令かけて」


 先生が告げると、日直の男子が「きりーつ、れいー」と気の抜けた声の号令をかけて授業時間は終わった。そして、さっきの喧噪そのままの状態で休み時間に突入した。


「先生、あの……」


 私は教材を片付けて職員室に戻ろうとする先生を呼び止めた。


「あら、由紀恵ちゃん、なにか上手く行かないことが気になっていたのね、ふふふ。結構なボリューム音量のひとりごとだったわよ」


 先生のからかいにまた赤面する羽目になってしまった。


「あ、ごめんなさい。ちょっと志保ちゃんの夏祭りのことが気になっちゃって……」

「ああ、この前お昼休みに話していたあれね」


 先生のきれいな眉が下がった。先生も先生でやはり志保ちゃんのあの話は気がかりだったらしい。


「志保ちゃん、大学生断る代わりにリョージくんと二人で行きたいって言って。アポを私が取ることになっちゃったんです……」


 先生は露骨に「あらら」という表情を見せて、周囲をさらっと見渡した。クラスメートたちはいまだにシンヤくんの金髪巨乳超絶美人の架空のカノジョの話で盛り上がり中だった。

 いつのまにか追加された巨乳属性の設定に、カスミちゃんが「金髪美人が全員おっぱい大きいなんて、そもそも発想がおかしい!」と激しく反発している。カスミちゃんの言うことももっともだ。でも、ごめんね、カスミちゃん。それ、やっかみにしか聞こえない……。

 先生はその喧噪をやり過ごしながら周りに聞こえないように私に言い含めた。


「由紀恵ちゃん、放課後、職員室に来てくれる? 詳しく話を聞かせて頂戴ね」

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