第9話 前箸村(1)


「なあ、由紀恵」

「なあに?」

「由紀恵はさ、高校どこ志望すんの?」


 学校帰り。今年は六月になっても雨が少なくて、爽やかな初夏の陽気が続いている。そろそろこの山奥にも夏の気配が漂ってきた。陽射しがさんさんと降り注ぐ渓谷沿いの小道を、私は同級生のリョージくんと並んで歩いていた。

左手にはきらきらと輝く笹平川の流れ。右手には清らかな水をたたえた段になった田んぼが広がり、そして山沿いのバス道。


 ここ前箸村の中心を流れる笹平川は、標高三千メートルの南アルプスの深い山並みから流れてくる。前箸村の中心部あたりではまだ小さな川だ。何本かの支流がここで合わさって小さな盆地を作っている。ここから下流に向かって数百キロ、やがて日本でも指折りの大河となって太平洋に注ぐ。


「そういうこと聞く時はねえ」


 私はリョージくんにちらりと視線を送ると、スニーカーのつま先で小石を蹴った。別に深い意味はなかった。というか微妙にリョージくんの態度にいらついた。私が苦労してるのに、のんきなこと言ってやがるよ、こいつは。いや、進路の話をのんきなことにくくるのも変だけど。分かってるけどね。なんかイラつく。


 中学三年生の私がリョージくんとこうやって並んで歩ける時間は、考えてみるとあとそう何回もないだろう。それを思うとますますイラついてくる。

 山々が朱色に染まる秋が来て、しんしんと雪の降る冬が来て、早春の風に震えながら梅のつぼみが膨らむころ、私たちはもう別々の道を歩いて行くことになるだろう。

 それは確信に近い予感だった。


「自分から先に言うもんだぞ?」


 渓谷沿いの小道は、陽射しは強くても吹く風は心地よい。私は森の匂いがかすかに残る空気を深呼吸して吸い込んだ。リョージくんの質問に答えたくなかったわけじゃない。ただ、数日前から圧倒的なモヤモヤ感が私の中を支配していた。

 川沿いの小道はやがて二手に分かれる。左に曲がって笹平川を木造の橋で渡ると私の家、まっすぐ川沿いに進むとリョージくんの家だ。うちは古い日本家屋の農家だが、リョージくんの家はお祖父さんがお医者さんをやっていたこともあって、村の中では少しおしゃれな古い洋風の三角屋根の建物だ。リョージくんのお父さんはお医者さんを継がずに何かの技師になったらしくて、平成の終わりごろ、お祖父さんの引退とともに病院はやめてしまった。


「俺かあ……。俺、東京で暮らしてみたいんだよね」

「と、東京!? まじで? 一人暮らしするの?」


 私はびっくりして立ち止まった。実を言うとリョージくんがなんとなく遠くの都会の高校に行きたがっているのは薄々感じていた。しかしまさか高校から東京なんて……。


「いや、無理だろうなあとは思っている。高校から一人暮らしなんてねえ」

「リョージくん、前箸のこと、嫌いなの?」


 男の子だから広い都会に出て行きたい気持ちは分からないでもない。実際に高校を卒業すると、東京とまではいかなくても同級生の大半は都会に出て行ってしまって、このあたりに残る人数はごく少ない。それも、男子に限った話ではない。女子も当然のように出ていく。私も大学生になったら前箸村を出るんじゃないかと漠然と思っている。早いか遅いかだけの違いだ。

 でも面と向かって故郷をけなされたみたいで、私は少しムッとしてリョージくんをにらんだ。


「嫌いってわけじゃないんだけどさ、狭い世界しか俺たちみてないじゃん。なんか俺たちの前箸での常識ってさ、ほんとに世の中の常識なのかな、これでいいのかなっていう気がして」


 リョージくんは思いもよらないことを言いだした。私は面食らってまじまじとリョージくんを見つめる。ちょっときまり悪そうに視線を川面にそらしてリョージくんは続ける。


「たとえばさ、前箸の老人ってみんな元気だろ? 八十になっても畑仕事に精を出してるじいちゃんばあちゃん、いっぱいいるだろ。でも都会で介護が問題になってるってニュースとかでよく聞くじゃん。俺たちの、老人は元気なもんだっていう考えって、俺たちだけの思い込みなんじゃないかって気がするんだよね。そういうの確かめてみたいんだ」


 私は思わずうなってしまう。確かにそういうずれはたまに感じることがある。老人問題だけではなくて、ここ山奥の前箸では聞いたこともないものが「若者に流行の」と言われていることが頻繁にある。私はタピオカもソルビンも見たこともない。


「ま、たしかに高校出てから考えてもいいかもしれないんだけどね。で、由紀恵はどうするの?」

「……私は、普通に笹高笹平高校で十分かなあ。てゆーか、笹高以外考えたことなかった」

「それ、けっこう強気じゃねーか。女子は前商前箸商業が普通なんじゃないのか」

「いや、うちは農家だからどうも商業高校っていうのがぴんと来ないんだよね」


 前箸商業は前箸の集落から一番近い高校だ。前箸よりも奥の方に住んでいる中学生はだいたいそこへ進学する。

 そんななか、私は笹平川沿いの渓谷をバスで三十分ほど下ったところにある笹平高校に進学したいなあと漠然と考えている。笹平は前箸村よりもずっと賑やかな町だ。電車の駅もあるし、少しだけど繁華街もある。今年の春にササモールタウンという名前の大きなショッピングセンターもできた。なんでも県内最大級のショッピングセンターらしい。

 ササモールタウンはオープン後しばらくは周辺道路が渋滞で動かなくなるぐらいの大人気だった。私は少し落ち着いてからお母さんに車で連れて行ってもらった。広い建物に、きらきらと光るお店の商品の山。憧れの都会の風景がそこにあった。一応私にも都会へのあこがれがなくはない。ただ、生鮮売り場の野菜や山菜はうちで取れたものの方がおいしそうだなとは思った。


「で、リョージくん、関口先生には相談してみたの? 東京行ってみたいって」

「え? してないよ。せっちゃんに相談してもしょうがなくね? キミの英語の成績で東京なんておこがましいと言われて終わりだよ。いいよなあ、由紀恵は」


 リョージくんは学生かばんを肩にかけたまま唐突に私にうらやましげな流し目を送ってきた。うらやましがられることに心当たりがない。私は反論する。


「いいよな、って何がよ。リョージくんに羨ましがられる理由が思い当たらないんだけど。……それと、先生のことせっちゃんとか呼んだら失礼だよ。やめときなよ」


 いらだちとモヤモヤは治まったが、少し棘のある声が出て自分で焦る。しかし、そんな私の葛藤はどこ吹く風という感じで、リョージくんは淡々と答えた。


「せっちゃんはせっちゃんでいいんだよ。それはともかく由紀恵、英語得意じゃん。ほとんど勉強しなくても笹高行けそうとか言われてるんだろ?」

「まあ、英語クラブで関口先生にいろいろ教わったからね。先生英語だけじゃなくて、数学も国語も社会も教えてくれるんだよ」

「あー、俺も英語クラブに入っておけばよかった」

「ああ、それをうらやましがられても、もう手遅れだよねー、ふふふ」


 なんか思ったよりも子供っぽい理由だったのでほっとする。このまま行くと、私とリョージくんの家の分かれ道はもうすぐだ。いい機会だから聞いてみるか、あのことを。


「それでリョージくんさ、今度の夏祭りなんだけどさ、志保ちゃんと……」


 空は走り出すような青で、山はなだれかかるような緑。セミが鳴きだすのももうすぐだ。

 そして私たちが別々の道を歩き出すのも、もうすぐなんだろう。リョージくんが村の夏祭り見るのも今年が最後かもしれない。そう思うと、口から出そうとした言葉は音にならなかった。


「志保か……。最近、志保かわいくなったよなあ。で、志保と夏祭りがなんなの?」

「ん、なんでもない」


 意外にもストレートに志保ちゃんをほめたリョージくんに、私はげんなりした。なんで私がこんなことでげんなりしなくちゃならないかなあ。世の中、理不尽だなあ。


「じゃあね、昼寝してて塾に遅れないようにね」


 私はリョージくんに向かって手を振った。リョージくんは黙って手を上げて自分の家に向かって歩いて行く。まーた、聞き損なっちゃった。ま、いいか。しかし、なんかイラっとするな。


 別れ道で手を振る残り回数が、また一つ減った。しかしこのいらだちとモヤモヤは一体なんなんだろう。私はそう思いながら胸の前で小さく手のひらを左右に動かしていた。


 ◇


 夕方、塾が終わると七時をすぎていた。

 前箸の集落の一番奥の高台には、龍刻寺という森に囲まれたこの田舎には不似合いに大きなお寺がある。その本堂の横の大きな畳敷きの部屋を使って、そろばん塾や学習塾が週に三回ほど開かれている。まさに寺子屋とはこのことだ。アニメなんかで出てくる近代的なビルの一室にある学習塾とは雰囲気がまるで違う。

 百畳ぐらいある畳敷きの大部屋に長机を並べて、各自自分で課題を解いて、分からなかったら手を上げると先生が来て教えてくれる。簡単なことなら並んで勉強している同級生に聞いて済ませることも多い。さすがに正座までは要求されないけど、なんか法事のような独特の雰囲気だ。ときどき勉強をしていると木魚とお経の音が聞こえたりするなんて、都会の学習塾じゃ考えられないもんね。

 塾に行くと少しばかり服に線香のにおいがついてしまうのが女子の不評を買っているが、まあ私は許せる範囲かなとは思っている。ちなみに塾の先生は住職の息子さんだ。と言ってもうちの両親と同じぐらいの年齢で住職の後を継ぐつもりらしい。たまに僧侶姿で車に乗って出かけるのを見かける。


「わあ、まだ明るいね、ユキちゃん!」


 同級生の志保ちゃんが境内の敷石でスニーカーのつま先に足を押し込みながら声をあげる。結局それでもうまく履けなかったらしく、志保ちゃんは身体をかがめてかかとに指を入れて直す。私は思わず声をかけた。


「志保ちゃん、そんな履き方したらスニーカー痛むよ? 紐いったんほどいてから足入れたらいいのに」

「だって、めんどいじゃん。ダメになったら買い替えればいいんだから。ササモールタウンに行けばかわいいのがいっぱい売ってるよー」


 志保ちゃんはこの大雑把なところが魅力なんだな、と最近思う。細かいことは気にしない、難しいことは考えない。そういう生き方に反発する面もあるし憧れる面もある。私にはできない生き方だ。でも、きっと彼女はどんな境遇になっても明るく生きていけるような気がする。

 志保ちゃんに比べると私は細かいことを針小棒大に悩んで、全体を見誤りそうな、そんな感じ。テストの成績が多少良くてもとても頭がいいとは言えないんじゃないかという気がしてくる。


 参道の敷石の上で軽くジャンプしてスニーカーを履ききった志保ちゃんは、くるりとバレリーナようにターンして、私の正面から顔を覗き込んだ。


「それで、ユキちゃんさ、あれ、やってくれた?」


 あー、やっぱり忘れてなかったかー。


「えーとね。ちょっとリョージくんに聞くタイミングがなくて。ゴメンね、志保ちゃん」


 志保ちゃんは緩やかな笑いを顔いっぱいに広げて、無邪気に言った。


「いいよー。でも、やっぱ夏祭りはリョージくんと一緒に二人で回りたいからねー。ユキちゃんが協力してくれるから安心だよね!」

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