第8話 アメリカ(7)
クリスはゆっくりと、サナトリウムの玄関をくぐった。そして歩みを止めて俺に語りかける。
「リョージくん、キミも来なさい。もう一度言っておくが、キョーコの症状の進行はもう止められない。現代医学でできるのは、進行を遅らせることだけだ。キミは見ておかなければならない。ドクター・クニミヤが果たせなかった、夢の
俺はクリスに続いて洋館の中へと進んだ。サナトリウムとして使われている古い洋館の内部は、経年相応にくたびれたものだった。廊下の床はスニーカーで踏み出すたびにぎしぎしと鳴り出す。さすがにいきなり踏み抜いたりはしないだろうが、足元のおぼつかなさは気になる。
注意しながら玄関ホールのらせん階段を上ると、二階はいくつかの小部屋に別れていた。その一つにクリスはノックもなしに入って行った。俺もそれに続こうとして、ふと足を止める。ここまでの話の流れでは、ここにはいまわの際のスズカのママがいるはずだ。そんなところに俺みたいな部外者が土足で踏み込んでいいのだろうか。
「来なさい。リョージくん。ここに真実がある。未来のない子供たちの真実があるのだ。キミも見ておきなさい」
クリスは相変わらず少年合唱団のようなボーイソプラノで部屋の中へと俺を促した。俺は覚悟を決めて部屋の中へと足を踏み入れる。
もう、後戻りは、できない。
窓際に揺れる白いレースのカーテン。
その向こうに、青空をバックに白い頂をたたえたロッキーの山並み。
緑の牧草の丘。赤い屋根の小さな家並み。
木の窓枠には花瓶に挿した名も知らぬ小さな白い花。
胸の高さまで木柵を囲んだベビーベッド。
素朴な手作りのガラガラとアメリカンな表情のぬいぐるみ。
ーーーそして、生まれたばかりの、まだ目も開かないような赤ん坊。
死に面した病人がいる部屋なんて祖父の病室にしか入ったことない。しかし、その少ない経験と照らし合わせてみても、この部屋は何かがおかしい。
この部屋の中には独特の「死を待つ匂い」というものが一切ないんだ。そのかわり赤ん坊の寝息が、オシロスコープのように規則正しくリズムを刻み、それがかえって重苦しい静謐となって空間を支配している。
この病室の中のアンバランスな生と死のコントラストに、俺は戸惑いを隠せない。
「彼女がキョーコ・セキグチ。わたしの、ママよ」
感情を塗りつぶした人工音声とさして変わらない声色に振り返ると、能面のような表情のスズカがゆらりと立っていた。スズカは俺には目もくれず、ベビーベッドのそばに浮つく足取りでたどり着いて、赤ん坊の小さな、あまりに小さな手にすがりついて、それを自分の頬にあてた。一筋の雫が静かにつたっていた。
「……ママ、間に合って、よかった。わたし、戻ってきたよ」
スズカは日本語でささやいた。この、どこかバランスのおかしい部屋の中にいる、スズカ、俺、クリス、そしてスズカがママと呼ぶ赤ん坊の四人の、あまりにもカオスなその取り合わせには、日本語の狂気を含んだ響きがなんとなく似合う、そんな場違いな思いが頭をかすめる。
「見たかね、スズカ。キョーコはもはや手遅れだ。ただし、まだ延命だけならば、可能だ。さあ、どうする、スズカ。ここでキョーコを救けて、ほんのつかの間と分かっていて、それでも生にしがみつくか。それとも、このまま安らかに神のみ元へと送り出してやるか。すべてはキミの決断次第だ。どちらがキョーコにとって幸せなのか、それを決めるのは、スズカ、キミだ」
クリスの言葉にスズカは顔を手で覆った。しばらくそのままベッドのそばで赤ん坊の手を握りながら顔を伏せていた。そして絞り出すように言葉を発する。
「わたしが、わたしの血を渡せば、ママは死なないですむの? ママは、ママは、なんとかなるの?」
スズカにはいつもの闊達さがみじんもない。今は見たことないほどはかなげで、苦しげで、そしてせつなげだ。伏せた顔を少しだけあげて上目遣いですがるようにクリスに問うた。
「キミは知っているだろう、スズカ。キミの血液だけでは直接には何もできない。ただ、キミの血液を欲しがる人は無数にいる。私にキミの血液を預けてくれれば、私はそれを驚くほどの金と交換することができるのだよ」
「……ママ、まだあと少しだけでも生きていたいよね? わたしが、救けてあげるから……」
そう言って振り返ったスズカは、しっかりした口調でクリスの碧眼の瞳をとらえて右腕を突き出した。
「クリス、私の血を使って」
「ほう、やっとその気になったかね。とは言っても、もうキョーコを元に戻すのは無理だ。キミの決断は称賛されるべきだ。しかし、なぜもっと早くその決断ができなかったのか。私にはそれが理解できない」
「ママは……、運命に逆らうな、と言っていたわ。でも、このままママを死なせるなんて、できない。わたしには、できない……」
スズカは涙をのみ込んだような声を絞り出す。
「キミの血液を金に換えれば、救われる仲間が何人かはいるだろう。それで、いいのだね?」
「いいわ。ただし、ひとつ条件がある」
「ほう。言ってみたまえ」
「リョージを無事に日本に返して。それが条件」
え? 俺? なんでそこで俺が出てくるんだ?
「ほう。ドクター・クニミヤの末裔をあっさり返してしまっていいのかね?」
「彼は、関係ない」
「そうか。スズカがそう言うなら、彼には少し眠ってもらっておいた方がよさそうだ」
クリスはそう言うと、手に持ったステッキを俺に向けた。
あ、中が空洞になってる、と思った瞬間、ステッキから霧のようなものが飛び出してきて、俺の周囲を白く覆った。
少し湿り気のあるガスの匂いを嗅いだと思ったとたん、地面がぐらぐらと揺れ出して、立ち続けることができなくなる。視覚も歪んでそのまま病室の床に倒れ落ちた。スズカのスニーカーが近づいて来るのを、右頬に床の冷たさを感じながら霞む視界の中で見ている。なぜか現実感がまったくなくなっていた。
「リョージ、キミと同じ視線で物を見られる最後の、そして唯一の時間。短い間だったけど、それは、とても楽しかった。わたしは、ここで生きていく。わたしのことは、忘れてくれていい」
スズカが倒れ込んだ俺を抱えるようにして涙声でとくとくと語りかけてくる。俺の意識がだんだん薄れていく。こいつが何を言っているのか、さっぱり脳の理解が追い付かない。
「さよなら、リョージ。将来わたしがキミの前に再び姿を現しても、キミはもう、わたしのことに気が付かないかもしれない。でもそれでいいのよ。だから、キミはキミの時間をまっすぐ歩いていってほしい。わたしのことはきれいさっぱり忘れてくれていい。それがキミが成長するための関門だから」
なにを言ってるんだ、スズカ? そのセリフ聞いたことある。そのセリフを聞いたのは……。
うわごとのように繰り出すスズカの声を聞きながら、俺の意識は深い闇に落ちていった。
◇
「レディーズ・アンド・ジェントルメン。ジャパンエアライン七四三便は、まもなく搭乗を開始いたします。ご搭乗の方は北二十四番ゲートまでお急ぎください」
周囲のざわめきに重いまぶたを持ち上げた。空港の搭乗口の前にある待合ロビーの椅子の上で俺はだらしなくねそべっていた。身体が重い。足元にはトランクに入った荷物一式。掌の中になぜか航空券を握っている。チェックインもセキュリティチェックも出国審査も通った記憶がない。でも搭乗口の前にいるということは、どうにかしてそれらを通過してきたのだろう。
俺はもやのかかった頭を振って、順番に出来事を思い出していった。空港に着いて、レンタカーに乗って、モーテルに泊まって、高原の道をドライブして、崖の上から村を見下ろして、古い洋館のサナトリウムの前に行きついて、金髪碧眼のクリス少年がえらそうな態度で出て来て、病室の赤ん坊に会って、スズカが部屋に入ってきて……。
「スズカはどうしたんだ!」
思わず自分でびっくりするぐらいの声が出た。搭乗口から機内に乗り込もうと列を作っていた乗客の奇異の視線が集まる。やべえ。穴があったら入りたい。
ふと手に握らされていた航空券に付箋が貼ってあるのに気が付いた。ピンクの蛍光ペンで書かれたまごうことなきスズカの字。おそるおそる俺は読んでみた。
ーー親愛なるリョージ。
アメリカまで付き合わせてごめんなさい。いろいろ説明不足で、何が起こっているのかリョージにはまったく分からなかったことでしょう。
わたしはママとしばらくここに残ります。最善を尽くすつもりですが、ママは長くは生きられないでしょう。ママの最期にはそばに一緒に居てあげたい。ただそれだけです。
どのみちリョージと一緒に居られる時間も残り少なかったのです。リョージがわたしを不審に思う前に、わたしは消えるべきでした。
さよなら、リョージ。いつでもわたしはキミを見ています。いつかわたしがキミの前に再び現れても、キミはわたしに気が付かないでしょう。でも、それでいいのです。紗代ちゃんと上手くいくといいね。
Suzuka Sekiguchi
最後の大きく膨らんだ筆記体のSの字。スズカの達筆なアルファベットのサインを見て、苦い笑いがこみ上げた。
バカだなあ、スズカ。これじゃ、ますますなにも分かんないじゃないか。
俺は、一体どうすればいいんだ。
俺は、一体どうすればよかったんだ。
俺にできることは、何もなっかたのか。
搭乗口前のロビーには、いつしか人が少なくなっていた。航空会社のグラウンドスタッフが手招きしながら搭乗を急かしている。
「一人で東京へ帰るしかできねーじゃねーか、スズカ」
俺は椅子から起き上がり、バッグの取手を握った。キャリーバッグがロビーの床を転がる音が、俺の負け犬気分を増していく。声に出すと、その苦みが改めて脳髄に響いてきた。
「ダメだな、俺は。何歳になっても」
惰性で歩くボーディングブリッジはいつもよりもずっと長い上り坂に感じた。
また、俺の負けだ。この苦味はいつか味わったのと同じだ。
俺がまだ学ランを着て、田舎の中学生だった時に味わった感覚……。
昔日の思い出にひたりながら、俺は一人、機上の人となった。
(第一部 アメリカ編 完)
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