第6話 アメリカ(5)
丘と言うにはいささかスケールがでかすぎる、もはや小山、そんな大きな起伏の中をスバルは走っていた。
標高が上がってきたのか、周囲は低木ばかり。その中を一直線に登るダートロードは、乗用車同士がすれ違うのには十分すぎる道幅がある。なにより風景が日本の山道と比べると、どこまでも明るくて開放的だ。
空は突き抜けて青く、緑の丘はなだらかにどこまでも続き、そして大いなるロッキーの山並みが遠くに立ちふさがる。その中にダートロードが俺たちの前にくっきりと道筋を示している。これだけ見れば快適なドライブだ。
踏みしめる土の音とともに、大地に轍を刻んでスバルは走り続ける。スバルご自慢の
路面はさっきまでと比べると少し荒れてきていた。うっかりしてると路面の岩を踏んでしまいそうになる。車速を三十マイルまで落として慎重に坂を上った。ダートロードに砂ぼこりが舞い上がる。こういう道で4WDと水平対向のターボエンジンは心強かった。少なくとも駆動力不足が原因で走行不能になることはない。
丘の頂上を越えて下り坂になると、視界の青空がぱっと広くなった。眼下に一面のパノラマが広がる。はるか先までなめらかな緑の斜面が続き、その途中に輝く小さな湖。その先にはまた大きな丘。そして一段遠くにソルトレークシティを出た時から見えている大きくて雄大なロッキーの山なみ。俺はスケールはずいぶん違うが、思わずふるさとの山並みを思い出していた。
俺の生まれ故郷は長野県と静岡県の境、南アルプスの山の中だ。もう一年以上帰省していないが、その程度ではなにも変わっていないだろう。
このロッキーの雄大な山並みの中を、豪快に突き抜ける開放的なワインディングダートとはまるで様相が異なるが、山並みの中にあるというただそれだけの共通点が俺の少ない里心をそっと撫でた。言葉がするりとあふれ出した。
「前箸ではこんなに先の湖まで見通せるところ、なかったなあ」
異国の人里離れた山の中で、故郷を思い出すとは思ってもみなかった。たまには帰ってみるかな、ふるさとの前箸村に。ふるさとは遠きにありて思うもの、だな。
大きなカーブを二回曲がると、景色の良い大きな崖の上に出た。眼下には深々とした緑の森が絨毯のように広がり、その中心にディープブルーの湖。そして湖畔に沿って二十軒ぐらいの家が立ち並んでいる。遠目にもメルヘンチックな村になっているのがわかる。人家が見えたのも、考えてみれば半日ぶりぐらいだ。俺は少し車のスピードを落として、わき見運転を決め込んだ。
「おお、こりゃすげーな」
思わず感嘆の声が口から漏れる。ずっと助手席で黙って風景を眺めていたスズカが、即座に反応する。
「きれいでしょ? あれが、わたしが小さいころの何年かをすごした村。プレスティックソン。もうここには二度と戻ってこないつもりだったんだけどね……。逃げられないものね。五年ぶり……かな、ここに来るのは」
「ああ、スズカ、ごめん。景色が良かったからついスピード落としちゃったよ。……お母さんとこへ、早く行ってやろうぜ」
ハンドルを握りなおして再びアクセルを踏もうとした俺を、スズカが制した。
「リョージ、悪いけどそのカーブの道が膨らんだところで、ちょっと車止めて」
崖の手前の大きなカーブの道のふくらんだところでスバルを停車させる。ハンドブレーキをギチチと引き絞った。スズカは助手席のドアを開けると車から降りて、崖ぎりぎりまで歩いて行った。俺も後に続く。ガードレールみたいな気の利いたものは、このワインディングロードには存在しないから、あまり路肩に近寄りたくない。俺は高所恐怖症というほどではないが、高いところが苦手だ。スズカは俺にかまうことなく崖の先端まで行って、風に髪をなびかせながらサングラスを外した。森と湖。ここの自然は美しく、そしてどこか人を遠ざけようとしている。この自然が人に牙をむく時、人はあまりに無力なのだろう。
そう言えば、ここまでダート特有の走りにくさはあったが、決して荒廃した感じはなかった。路面の轍から想像するに、数は多くはないが、定期的に一定量の車の往来がある道であることは間違いなさそうだ。
「リョージは、キミの故郷、前箸村のこと、好きだった?」
「嫌いではなかった。けど……つまらないとは思っていた」
そう、つまらないと思っていたんだ。村に小中学校は一つだけ。同級生はみんな顔見知り。地理的にも社会的にも前箸は、とても狭かった。その狭さに耐えられなくなって、俺は故郷を出て来たんだ。でも今考えると、その狭さとは、手を伸ばせば容易に人のぬくもりを感じることができる暖かさ。都会に出て暮らし始めて、それを痛感した。しかし、スズカは俺の故郷の名前をさらっと口にしたが、よく覚えてたなあ。そんなに何回も話した覚えないんだけど。
「いいところじゃないか。プレスティックソンっていうんだっけ? スズカはここでずっと暮らして行く気はなかったのかよ。なんで日本の学校に来たんだ?」
そう言えばスズカはアメリカ育ちで母親は今でもここにいる。何か理由がなければ日本で暮らすということにはならないのに、なぜ一人で故郷を離れたのか。俺は少し踏み込み過ぎかもしれないなと思いつつ、聞かずにはいられなかった。
「変わりたかったから……、かな。たとえそれが徒労であったとしても。変わらないことが最善という考え方が、耐えられなかったのよ。まだ若かったのよね」
その気持ち、よく分かるかもしれない。閉じた世界から逃げ出したくて故郷を出た俺と同じなんだな。
「でも、結局わたしはこの村と、そのコミュニティに守られていただけかもしれないって最近思うのよね」
聞こえるか聞こえないかの声でスズカが言った。
それも分かる。誰にとっても自分の母親の胎内こそが、一番居心地のいい場所なんだ。そしてそれは胎内を出てからでないと分からない。
「リョージ、もしかしたらね」
スズカは崖下に広がる湖の風景に背を向けて言った。山脈をわたる風がスズカの髪にひらりとまとわりつく。揺れる髪を手で押さえるスズカの表情はとらえようもない複雑な表情だった。
「キミには一人で……日本に帰ってもらうことになるかもしれない」
道々こういうことを言い出すんじゃないかとアメリカに着いた時から思っていた。スズカは故郷に帰りたい気持ちと帰りたくない気持ち、その両方のせめぎ合いの中でここまで来たのだろう。
物理的な距離の遠さで今までごまかしてきたけど、故郷を目前にすると帰りたい気持ちの抑えが利かなくなったとしても、誰もそれを責められない。俺を連れてきたことの意味なんか、知らなくてもいいかもしれない。俺は精一杯笑顔を作って答えた。
「おまえの好きなようにするべきだし、俺はおまえの言うとおりにするよ」
「こんなところまで付き合わせちゃって、なんかゴメン」
「俺が勝手についてきただけだ。気にしなくていいって。故郷があって、母親がいる、それだけで十分だろ。おまえがここに残る理由は」
二度と会えなくなるわけじゃないし、と軽く流そうとしてスズカに目を向けると、そこには思いつめた表情のスズカの顔があった。俺はとっさに口から出かけた言葉を飲み込んだ。
スズカは名残惜しそうに何度も振り返りながら、車に戻っていった。俺は小走りにその背中を追う。
もう少しパノラマの景色を見続けていたい気もしたが、ここでスズカに置いて行かれても困るだけだし、何より早く行ってやるべきだ。母親のところに。もうすぐそこに、手に届くところにまで、俺たちは来ていた。
崖にへばりついた未舗装のカントリーロードに一陣の風が吹き抜けていった。
すると砂埃をあげながら崖沿いのカントリーロードをチェロキーが村の方から登ってくるのが見えた。やがて俺たちの目の前でワイルドにブレーキをきしませて停車する。エンジンかけっぱなしのまま左側のドアが開いて、中から金髪の少年が降りて来た。朝方、モーテルの駐車場で見た少年だ。スズカは忌々しそうに少年をにらみつけている。
少年は例によって鷹揚な物言いで口を開いた。
「やあ、スズカ。ウェルカム・バック・トゥ・プレスティックソン。われわれはキミが戻ってくるのをずっと待っていたよ。やっと、われわれに力を貸してくれる気になったようだね」
「いつわたしがそんなことを言ったかしら? わたしはママに会いに来ただけ」
もちろん二人のやり取りは英語だ。俺のつたないヒアリング力を使わずとも、緊迫したこの場の空気だけでおよそやり取りの中身の想像はつく。
「まあ、そのあたりはゆっくり話そうじゃないか。キミは賢明な女性だ。少なくともわたしの知る限りではね。きっとわれわれの考えを理解してくれる時が来ると信じていたよ」
金髪の少年は葉巻でもくわえそうな鷹揚な物言いで話し続ける。金髪碧眼の見た目のかわいらしさとは異常にギャップのある老獪な話し方と仕草。なんというか、年相応の若さというものが一切感じられない。一体こいつは何者なんだ。
「誉めてくれたことにはお礼を言うわ。でもわたしはクリスたちの考え方には賛同するとは一度も言ってないし、これからも言う気はない」
「そうかね。このクリストファー・タウンゼントが半生かかって口説いても、キミたちは結局分かってくれないのか。キョーコも結局最後までイエスとは言わなかった」
「ママがそんな話に乗るわけないじゃない。当然、わたしもよ」
「……そう言って突っ張っていても、寿命は延びない。現にキョーコは」
スズカの表情がさっと変わったのが分かった。
「ママは、ママはどうしているの! あんたたち、ママになんかしたんじゃないでしょうね!」
「われわれがキョーコに危害を加えるわけないことぐらい知っているだろ。キョーコは……、残念ながら
金髪の少年のセリフを聞き終わらないうちにスズカはスバルに向かって走り出した。
「おい、スズカ! どこ行くんだ!」
咄嗟に日本語で怒鳴ってスズカを呼び止める。スズカは顔だけをこちらに向けて英語で怒鳴り返した。
「クリス、それでも、わたしもママもあんたたちのような生き方はしない。絶対に、しない! リョージ、行くわよ!」
スズカは乱暴にスバルの運転席に乗り込んだ。俺も慌てて後に続く。俺がシートに尻を付けた途端、派手なスキール音を響かせてスバルは弾かれたように走り出した。
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