第5話 アメリカ(4)
金髪の少年が去った駐車場は、静寂に包まれた。二階建て木造の部屋が並ぶモーテルの駐車場には、斜めに朝陽が射している。今日も青空のいい天気だ。
スズカも結局そのまま二度寝することなく起き出してきた。俺たちは連れ立ってモーテルのダイニングルームに、朝食バイキングを食べに行った。テーブルが五つほど無造作に置いてある。レストランというにはおこがましいが、設備は質素で清潔だった。まだ朝の五時前だが、外はすっかり明るくなってる。昨夜も午後八時近くまで明るかったし、このあたりは夜が感覚的に随分短い気がする。
バイキングの朝食を皿に盛って席に戻ってくると、スズカはクロワッサンをかじったままうーんと伸びをしていた。まだ目覚めきっていない感じだ。
「リョージ、六時前には出よっか? 今日は三百マイル走るから覚悟しといてね。リョージに運転してもらうから。走り出したらわたし、もう少し眠らせてもらおうかな」
「そりゃいいけどさ。どこへ向かって走りゃいいか分からん」
「大丈夫。一本道だから。サルでも間違えないよ」
スズカはあくびをかみ殺しながらアイスコーヒーを流し込む。
「今さっきの金髪キッド、なにもんなんだよ。俺のこともスズカのことも知ってるみたいだったし、やけに偉そうだったし」
「ああ、クリスのジジイ? 嫌なやつなんだよ。正直もうかかわりたくない」
俺が金髪キッドの名前を聞いた途端、スズカは目が覚めたように不機嫌になった。乱暴にグラスのストローをくわえて、上目遣いに俺をにらんだ。不覚にも萌えてしまうからやめてくれ、そういう表情は。
しかし、あの金髪キッドの名前がクリスっていうのは分かったが、たかだか身長百四十センチぐらいの少年相手にジジイ呼ばわりすんのは、いくらなんでも言い過ぎのような気がする。言葉とビジュアルの乖離がはなはだしい。どういう知り合いなんだ、一体。
「でもねー、腹立たしいけど無視するわけにもいかないのよねー。今、コミュニティのトップはアイツだから」
「その辺、ちょい詳しく教えてくれねーかな。昨日からどうにも話が見えないんだよ」
俺の言葉にスズカはなぜか恨めし気な視線を投げて、ずずっとオレンジジュースを飲みほした。グラスを机に戻してため息まじりにつぶやく。
「まあ、道々話すわ」
どうにも話したくなさそうなそぶりが気になる。十中八九俺が聞かなかったら黙ってるつもりだったに違いない。そうなると困ったことに聞く方の俺にも迷いが生じる。どう考えても聞いて楽しい話ではなさそうだ。このまま何も知らないでスズカとアメリカンロードトリップを楽しむのも有力な選択肢だとは思う。
それでも、やっぱり聞くしかないだろう。たとえスズカが話したがらなくても。
俺はひそかに覚悟を固めていた。
◇
雲一つない晴天。陽射しが強いが湿度が少なくて気温は肌寒いぐらいだ。ここは標高千四百メートルの高地。どうしても秋の空を連想する快晴の青空でも暑さの心配は一切不要だ。初夏の日差しは躍動感にあふれている。
ラジオから聞こえるオールドロックナンバーにたまに知っている曲が流れると一気にテンションがあがる。ハンドルを握る手も軽い。
朝早くモーテルを出立した俺たちはハイウェイを北に向かって走っている。昨日はスズカに任せきりだったけど、今日は朝から俺が運転担当だ。左ハンドル右側通行も、自分が運転していると意外とすぐ慣れた。むしろ助手席に乗って見ているだけの方が慣れるのに時間がかかるのかもしれない。
スズカは、宿を出て国道に入ると「あとは一本道だから。飽きるまで道なりに進んで。じゃ、私はちょっと眠るわね」と言って居眠りを始めていた。昨日の飛行機の中でもそうだったけど、こいつは「乗り物の中で眠ること」に関してはものすごい適性を持っているらしい。
「まっすぐ走っている時はいいけど、交差点曲がる時とか駐車場の中とかは気をつけてね。ついクセで左側走っちゃうから」と宿を出る時にスズカからアドバイスをもらっていた。しかし、かれこれ数時間は一般道を運転しているが、「交差点を曲がる」というシーンにいまだ一回も遭遇していない。そもそも片手で数えられるぐらいしか交差点を通っていなかった。さすがアメリカのカントリーロード。日本じゃ考えられない。
もう一つ車の運転をするにあたってのスズカからのアドバイス、それは「サングラス、買っといた方がいいわよ」だった。
スズカに言われて、モーテルのカウンターで安いサングラスを二十ドルで買った。アメリカの道路は、俺たちが思っているよりもずっと白っぽい色で舗装されているから、運転中ずっと見続けると目がおかしくなるとのこと。
言われてみると確かに道は白っぽいとは思うが、今のところそれほどサングラスが威力を発揮している感じはしない。
似合うかどうかは考慮外で安さだけで選んだので、一気にチンピラっぽくなってしまったのが自分でも不満ではある。しかしだな、スズカ、指さして笑うことねーじゃねーか。少し傷ついたぜ。
なだらかな丘の合間をゆったりカーブしながら越えると、眼前にはひたすら牧草地帯が広がった。道路の交通量は昨晩と比べると格段に減った。スバルの4WDは六十マイルのオートドライブ設定で軽やかに勝手に進んで行く。これだけ道が広くて交通量が少ないとハンドル操作もアクセル操作もほとんど必要ない。車は勝手に走って行く。手放し運転していてもさほど問題なさそうなあたり、さすがアメリカだなと思う。いや、手放し運転なんてしてないけどな。
◇
五時間ぐらいはそのまま牧歌的な風景を眺めながら車を進めた。運転したというほど運転操作をした記憶は正直言って、ない。正しくは運転席に座っていた、ぐらいだろう。
アメリカの田舎はこんなもんなのか。人の住む集落と集落の間はゆうに二十マイル以上は離れている。民家が二三軒見えたなと思ったらすぐまた無人の畑か、そうでなければ森の中。遠くの山並みは一向に近づいて来ないが、ときおり丘と呼ぶには少々高低差の大きい小山を超えて進んで行く。すれ違う車は一時間に多くて数台。
「ちょうど夏至の時期でこれだけ涼しいってことは、冬はひどい寒さなんだろうな」
運転中にもかかわらず微妙に手持ち無沙汰だった俺は、居眠りから目覚めて静かに景色を眺めているスズカに当たり障りのない話を投げかけた。ラジオのロックンロールとスバルが大地を踏みしめる乾いたロードノイズばかりが聞こえていた車内に、久しぶりに人間の肉声が響いた。
「まあ、ここらへんは標高二千メートル地帯だからね。乾燥しているから雪はあまり降らないけど、冬はとびきり寒いわね。北海道より寒いかも。真夏でも夜は長袖あった方がいいぐらいよ」
どうやらスズカも無音の車内を持て余して、何か話をしたかったらしい。意外と軽やかな声で俺の問いかけに乗ってきた。しかし、気候の話をしている段階で俺のヘタレ具合が分かるってもんだ。
「このままこの道をまっすぐ走るとイエローストーン。聞いたことあるでしょ?」
「破局噴火で世界が破滅するっていうあれか」
「そう。よく知ってる、というか、ネット情報に毒されすぎよ、リョージは。ここはもうアイダホ。一時間も走ればイエローストーンのあるワイオミング。どの州都からもはみ出した、アメリカの中でもすみっこの僻地なのよね」
「おまえさ、昨日から思ってたんだけど、この辺に住んでたことでもあるの? 英語やたら上手いし、土地勘もあるみたいだし、知り合いもいるみたいだし」
おお、俺、よく聞いた。誉めてほしい。この流れるような話題の転換。ひとまず俺は日本を出た時から気になっていたことを聞けて満足だった。
「わたし、このあたりの育ちなのよ。正確にはもっと北のモンタナ寄りなんだけどね」
スズカはあっさりと答えた。まあ、そうだろうな、という気はしていた。
「じゃあ大学の入試は帰国子女枠だったのか。二重国籍なの?」
「んー、大学は帰国子女枠じゃないんだけどね。生まれは日本だから日本国籍だよ」
イマイチ歯切れが悪い。よく考えたらこりゃ極めてセンシティブでプライベートな領域だ。やべー。うかつに聞く話じゃねーよ。俺は首筋にあたるスズカの視線に冷や汗をかいた。まあ、国籍なんてプライバシーの最たるもんだから、あまり触れないにこしたことはない。
「それよりリョージさ、そろそろ運転、気をつけてね。アイツら、なんか仕掛けてくると思うから。多分殺されたりはしないと思うけどね」
物騒なこと言いやがる。アイツらってのは金髪のクソガキのことか。
「んなこと言っても何に気を付けりゃいいんだ」
見通しいい、道まっすぐ、対向車いない。運転はスバルの最新技術アイサイトのオートドライブにほぼ任せっきり。遠くに三千メートル級の山を見ながら鼻歌どころか昼寝してても大丈夫なぐらいだ。
「このあたりはまだ田舎だからいいけど、コミュニティに近づいてくるからね。とりあえず、次の交差点左に行ってね」
「え? そんな急に言われても困る」
スズカの唐突な指示に慌ててハンドルを握りなおした。スズカはからからと笑って続ける。セミロングの髪がふわりと揺れた。
「バカねー。次の交差点までまだ十マイルはあるわよ。どんなに急いでも十五分ぐらいはかかるから。獣道みたいなところ走りたいんなら別だけどさ」
いや、そんな思い切りアメリカンみたいなこと言われても分からんだろって。ゆるい丘を貫く道の両側は広大な畑。作っている作物はトウモロコシだろうか。たしかに目を凝らしても未舗装の農道が分かれていくだけで、交差点と呼べるようなものにはなかなか行き当らなかった。
「え? ここ入るのか?」
しばらく走ると、交差点らしきところに出た。オートドライブを解除してブレーキで減速する。三時間ぶりぐらいに車速が落ちた。
「そうよ、こっちの方が人目に付かない」
スズカは涼しい顔で国道から外れた農道よりも広めのダート道を指し示す。両側の牧草地をかきわけるようにダートは緩いカーブを繰り返しながら進んでいた。アスファルト舗装の国道に比べると格段に上下動が増えた。
道は広い牧草地帯を抜けると大きな丘の上り坂にかかった。坂の勾配がだんだん強くなる。
「あの丘を抜けるとね」
不意にスズカがぽつんとつぶやいた。
「ママがいるはずなの」
そのセリフの微妙な震えに気が付いて目を向けると、スズカは前を向いたまま静かに言葉を口にしていた。さっきまでの牧歌的な雰囲気は消えて、緊張感が漂っている。
「ママ、わたし、帰ってきたからね」
スズカの頬には一筋の雫がつたっていた。
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