第4話 アメリカ(3)

「看取りに、来たのよ。……もう長くないからね」


 スズカは、そのままハンドルを握り、徐々に暮れていくインターステートに沿って淡々と車を走らせていた。俺の視界に映る車のテールランプには、次々と赤い光がともり始めている。車内には沈黙と夜のとばりが重苦しくのしかかってきた。


 そう言えば俺はスズカのことを知っているようで、あまりよく分かっていなかった、いや、より正しくはほとんど知らなかったことに気付いた。どこの出身だとか、兄弟はいるのかとか、両親はどういう人なのか、とか。


 薄暮から夕闇へと移って行くフロントガラスを黙って二人で見つめる時間が続いた。片側三車線の中央を走るスバルの左側を、轟音を立ててスポーツカーが追い越していく。いつのまにかハイウェイの街灯の上には白く光る満月と、無数にきらめくスケールの大きな星空が広がっていた。


 結局一時間半ほど走ったところで、スズカは右にウィンカーを出してインターステートを降りた。空港から走り出して十五分で高層ビルが見えなくなり、三十分で街の明かり見えなくなって、残りの三十分以上はひたすら荒野の中を突き進む感じだった。思ったよりもソルトレークシティの街の規模は大きくないようだ。ただ行きかう車の量はかなり多い。とてつもなくでかいトレーラーが唸りを上げていたりする。そういう意味で寂寥感は感じなかった。


 一般道に降りても通行量は相変わらずかなり多い。多数の車が行き交う片側三車線の道路を今度は東に向かって進む。暗くてよく分からないが、道路の外側はおそらく一面の畑なんだろう。元はそれが全部荒野だったに違いない。その物言わぬ暗闇の向こうにぽつりと街明かりが見えてきた。改めて人家の灯のぬくもりを感じる。


「ここはブレイズウィックの街。昔は街道沿いの宿場町みたいなものだったのよ。今日はこのあたりで泊まろ? その前に食料調達ね」


 スズカは交差点の手前で国道を外れて大きな駐車場に車を止めた。ホームセンターかと思ったらスーパーマーケットだった。

 スーパーで保存食になりそうなジャンクフードやパンの類をしこたま買い込んだ俺たちは、すっかり陽の落ちたストリートをさらに三十分ほど走って国道沿いのモーテルの駐車場に車を入れた。

 念のために言っておくが、アメリカのモーテルと日本のラブホとはまったく似て非なるものだ。日本のロードサイドのラブホから無意味な派手さとエロさといかがわしさを抜けばアメリカのモーテルになる、と思えばだいたい合っている。

 それが証拠に俺たちが車を止めたルートエイティナイン沿いのモーテルの隣の部屋は老夫婦のオープンカー、もう一方の隣は家族連れだった。


 荷物は車に積みっぱなしで、身の回りのものと着替えだけもって駐車場から直接部屋に入る。カジュアルな造りのモーテルだけど身体のでかいアメリカ人向けに作られているので、ぶっちゃけ俺のアパートよりも広々としている。洗面台も風呂も異常に余裕がある。まさにアメリカンサイズだ。

 スズカと同じ部屋で一晩過ごすなんて、うふっ♡ とか俺が言うとでも思ったか? 残念ながら、スズカ相手に変な気なんて起こさないからな。


 スズカはベッドに頭から飛び込んで「あーつかれたー」とうめいている。俺は一声かけて先にシャワーを浴びさせてもらった。羽田を出て丸一日。さすがに疲れた。シャワーの湯栓からほとばしる湯を浴びてほっと一息。気が付かないようでも異国の空気には緊張しているもんだ。日本人的には湯船につかりたいところだが、それはさすがに高望みがすぎる。そう言えば、世界で湯につかる習慣を持った民族は数少ない、むしろ奇習と言っていい、湯や水を平気で湯水のように使えるのは日本人だけだ、と大学の講義で習ったっけ。

 シャワーから出ると、脱衣所の棚にぺらぺらな感触のバスタオルがかろうじて備え付けられていた。その吸い込みの良くないタオルでわしわしと身体を拭いて、Tシャツ短パンに着かえると、やっと人心地ついた。安いモーテルだけあって寝間着やスリッパはない。ま、贅沢言っちゃいけない。


「あー、もはやシャワーすら面倒になってきた」とぼやきながら、スズカが入れ替わりに着替えを持ってシャワーを浴びに行った。飛行機に乗ったとたん馬鹿みたいに寝始めたスズカも、さすがにフライトの後、間を置かずドライブまでしたら疲れただろう。

 お疲れのところかわいそうとは思うが、スズカにはいろいろ疑問なところを聞き出さなきゃならない。テレビが垂れ流している英語のニュースを聞きながらベッドに寝ころんでいた。

 まだ夜の十時にもなっていなかったが、どうにも落ちてくるまぶたに抗いきれなくなってきた。英語の授業で居眠りするのってこんな感じだったなあー、とまとまらない思考をなぞっているうちに、いつのまにか寝入ってしまっていた。


 こうして俺たちのアメリカ初日は暮れていった。


 ◇


 翌朝。と言ってもまだ外が真っ暗な時間に目が覚めた。

 時計を見ると、午前四時すぎだ。えらい時間に起きてしまったけど、時差ボケだからしょうがない。


 薄暗い室内で隣のベッドを見るとスズカが柔らかな寝顔ですやすやと眠っている。


 まったく俺はどうしてここまでこいつに弱いのかな、と自虐的な気分にもなる。そもそも強引とも思える接触で近づいてきたのはこいつの方からだ。タゲられたという気もするが、それにしては、あるラインより内側を決して他人に曝そうとしない。身の上に関わることは「まあ、そんなことはいいじゃん」とはぐらかしてしまう。

 

「おまえさ」


 俺はまつ毛を伏せてすやすやと眠るスズカのほっぺたをつついた。


「ちょっとぐらい泣き言、言ってもいいんだぜ? 俺がいつでもいくらでも聞いてやるからさ」


 俺は、決めてるんだよ。お前と初めて会った時から。

「関口涼香っていうの。よろしくね」と名乗ったお前と、話した時から。

 どこか記憶の痛いところをピンポイントで突いてくる、お前の笑顔を眺めた時から。


「今度こそ、俺は、絶対間違えない」と。


 スズカは軽いうなり声をあげて寝返りを打つと、俺に背中を向けてまた寝息をたてて眠り始めた。


 外は少し明るくなってきた。

 このままスズカの寝顔を見ていてもよかったのだが、アメリカのモーニングデューを味わう機会はそうそうなさそうだ。なんと言っても俺は自他ともに認める夜更かし派、一限の出席率の低さには自信がある。大学生活の中で夜明けを見ることなんて、よほどのことがない限りない。と言っても、夜明けを見てから寝ることはそれほど珍しくない気もする。


 手早く着替えてスニーカーのひもを締める。忘れないように部屋のカギを持ってスズカを起こさないようにそろりと部屋を出た。部屋の外はいきなり駐車場だ。思ったよりも空気が冷たい。忘れがちだがここは標高千四百メートルの高地、大いなるロッキーの懐の中だ。


 街並みの背後には朝の紫に屏風のように立ちはだかる山脈。山並みに残る残雪が朝日のオレンジに染まって行く。ドーンパープルとサンライズバーミリオン、なかなかいいもんだ。その気になれば東京でも見ることができる天体の日常風景だが、アメリカではスケール感が違う。どこまでも立ちはだかる山並みも、透明な紫の空も。


「リョージ・クニミヤってのは君のことかい?」


 突然英語で声をかけられてパニックに陥った。

 振返るとそこにはステッキを持った金髪碧眼の小学生ぐらいの男子がいた。


「グ、グッドモーニング!」


 声が裏返ってしまった。実際今回の旅で俺が英語を話したのはこれが最初かもしれない。幼稚園児でも知っているクソ簡単な挨拶ですらまともに喋れなかった。微妙に自己嫌悪に陥っていると、少年は鷹揚に、ゆったりとした英語で続けた。


「いや、そんなに緊張する必要は、ない。はるばるここまで来てくれたことに礼を言う。いずれ君とはゆっくり話すことになるだろう。それよりも君に忠告しておこうと思ってね」


 妙に大人びた言い回しなのは俺の翻訳が悪いわけではない。金髪の少年は合唱団のような高い声で、えらそうな物言いをしている。無理に例えるなら天使のボーイソプラノでうっせえわを歌ってるみたいな、超絶気持ちの悪いミスマッチ感覚だ。


「キミは、スズカ・セキグチとは、いずれ離れなければならない。であれば、別れは早い方がいい。この理屈はキミも分かるだろ?」


 は? このクソガキ、なにえらそうなこと言ってんだ? それとも俺のヒアリングが悪かったのか?


「彼女は、キミと同じ道を歩くことは、できない。彼女とキミは、永遠にすれ違い続ける。そういう運命さだめなのだよ。しかし、キミが私たちの趣旨に賛同してくれるのなら、大歓迎だ。悪いことは言わない。覚悟がないならこれ以上彼女と行動を共にすることはやめて、私たちに協力してくれないかね。それがキミにとってもスズカにとっても最善の道ベストウェイだ。そう私たちは信じているんだがね」


 俺は一言もしゃべることができずに固まっていた。英語が口をついて出て来なかったというよりも、金髪の少年、というかクソガキの異様な迫力に完全に飲まれていた。言葉を換えれば、いいようにあしらわていた。


 その時、ばん、と部屋の扉が開いて、Tシャツ姿のスズカが出てきた。開口一閃、キレのいい英語でクソガキをどやしつけた。


「こんなところでなにやってんの! わたしたちには関わらないって約束だったんじゃない、クリス! 忘れたとは言わせないわよ!」

「おや、グッドモーニング、スズカ。今日も美しいね」


 クソガキはスズカに対しても鷹揚に応える。こいつのこの落着きは一体なんなんだ。スズカは寝起きでそのままベッドから飛び出してきた様子だ。


「朝からうるさいのよ! 近所迷惑! 今日の夕方には着くって言っといたでしょ! なんでこんなところまで出しゃばってくんのよ!」

「ふふふ、年を取ると朝が早くなってね」

「そのジョーク、笑えない!」

「ふふふ、ではミス・スズカ、また後で会うのを楽しみに待ってるよ」


 冗談なのか皮肉なのか、クソガキは黒い笑顔を浮かべて振り向くと、ゆっくりと自分の乗ってきたチェロキーに乗り込んだ。そしてぶるんとエンジンをスタートさせて、そのまま低音を響かせながら駐車場を出て行った。

 俺は目を疑った。自分の見たものが信じられない。呆然としながらスズカに話しかけた。


「お、おい、スズカ」


 スズカは寝ているところを起こされて、いまだに不機嫌な様子でつっけんどんなままだ。


「まったく、なんだってのよ、クリスのクソジジイ、アイツほんと腹立つ。リョージもリョージよ。アメリカは人気ひとけのないところふらふら出歩いたら危ないんだから。田舎だからって油断しちゃだめよ! いきなり撃ち殺されてもしらないからね!」


 スズカは一通り怒りをぶちまけると、あくびを噛み殺しながらベッドに戻ろうとする。俺もスズカの後を追った。


「い、いや、スズカ、そんなことより、今の金髪のガキさ、自分で車を運転して出て行かなかったか?」


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