第3話

 こんな朝に来るお客さんは一人しかいなかった。


「清子ちゃんね、相変わらず時間に正確。純平、お母さん行くから戸締まりしっかりするのよ」


 うん、と素っ気ない態度のつもりで返したのにお母さんに気付いた様子はなかった。コーヒーを全て飲みきって流しに置くとバックを持って出て行く。玄関の方で話し声が聞こえた。


 いつもありがとね、清子ちゃん。


 いえ、習慣なので。


 淡々としたその声は昔から変わらない。

 同じマンションのお隣さんで僕の幼なじみの女の子。清子ちゃんが迎えにきて一緒に登校するのは小学校からずっと続いていることだった。

 よく女子と登校していることをからかわれて、もう来なくていいと言っても清子ちゃんは絶対に来てくれる。僕もそれは一度しか言ったことがなかった。

 お母さんと入れ違いで、清子ちゃんがリビングにやってきた。

 肩まで伸びたおさげの黒髪に眼鏡をかけた彼女の様子は子どもの頃からちっとも変わらなかった。美人になったとお母さんはいうけれど、一緒にいる時間が長すぎて僕にはピンとこなかった。


「おはよ、純平」


「おはよ」


 僕は急いでトーストを食べきって、もう冷めてしまったココアを飲みきった。

 僕が準備している間、清子ちゃんは決まってソファーで本を読む。今日読んでいるのは辞書のように分厚くて持ち歩くのが大変そうな大きな本だった。昨日はちっちゃな文庫本だった。

 毎朝、清子ちゃんが同じ本を読んでいるのを見たことがない。読み切ってしまうのか見切りをつけているのかわからないけれど、読んだ本はちゃんとノートに記録しているのを僕は知っている。その読書ノートなるものの量はちょっとドン引くレベルだ。

 あんまり笑わないし、暇があれば難しそうな本を読んでいる清子ちゃん。それでも彼女の周りには友達が多かった。きっとそういうのは生まれ持ったものなんだと思う。清子ちゃんは間違いなくお母さんと同じ側の人だった。


「中止になりそうだね」


 本のページに眼を落としたまま、清子ちゃんが言った。

 主語が無くてもなんのことかわかる。


「……まだわからないよ」


 ランドセルに入った持ち物を確認しながら、僕はお母さんにしたのと同じ応えを返した。

 清子ちゃんはチラッと僕を見て


 「何か企んでるって顔」と呟いた。


 僕は身体が強張るのを必死で隠す。

 清子ちゃんとお母さんの違いはここだ。お母さんは小さい嘘や隠し事には気付かないけれど、清子ちゃんは人に興味がなさそうなのによく人を見ている。彼女はきっとお母さんよりも僕の事を知っているはずだ。もしかしたら僕以上に僕のことを知っているかもしれない。

 冷静を装いながら僕は言った。


「企むって意味わかんない。僕は中止になるのが気に入らないだけだよ」


「そう」


 意外にも、清子ちゃんはそれ以上追求してこなかった。ほっとした顔を出さないようにする。

 まだ心臓がドキドキしていた。

 まるで漫画のキャラクターみたいに勘が鋭い清子ちゃんが何を思っているのか不安でたまらない。

 清子ちゃんは僕を一瞥してから、窓の外へと視線を移した。


「明日は雨が強くなるって話よ。強い風が吹くみたい」


「へぇ、そうなんだ」


 興味なさげの返事が出来ただろうか。僕はなるべく清子ちゃんの方を見ずに話していた。

 もう奇跡的に明日が晴れになることはない。悔しいけれどそれはもう確定事項みたいだった。けれど諦めることはなかった。遠足はこれからで、まだ始まってもいないんだ。

 そして、僕たちの遠足は誰にも知られてはならない。


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