三途の川

 私は、本当に何事もなかったのように授業を受けて、帰路に着いた。自宅の玄関を開けたその時だけ、母には少し、頬の傷のことで心配をかけたが、それもまた、その一瞬だけのことだった。私自身としても、やはりあれは何かの間違いだったのではないかと、幻覚だったのではないかと、そんな風に思うようになっていた。だから、それ以上そのことを気に留めることもなく、そのまま夜が更けた。


 いつも通り布団に入って、目を閉じる。自宅のベッドにしかない安心感と居心地の良さが体を包み、私の意識が睡魔に飲み込まれそうになる。


 …。


 違う。やはり違う。あれは幻覚などではない。あの時に感じた、硬い校庭を自室のベッドだと感じてしまう程の居心地の良さは、やはりこんなただのベッドには存在しなかった。だからこそわかった。あれは、物理的な要因だけで感じられたものではなく、なにか精神的な、私の身体の内部に異常が起きない限り、到底感じられないものだということを。


 

 明くる日、私は幼いながら確信した。



 あれは、三途の川だった。この上ない安心感と心地のよさを孕んだ死者の世界と、それでも抗ったものだけが帰ることのできる生者の世界の境界線に、あの時私は立たされていた。様々な餌をぶら下げて、こちらへ来た方が楽だと、何も考える必要はないのだと、そう私に囁いていた者が、もしかするとあの時私の傍にはいたのかもしれない。そう思うと、今でも鳥肌が立つ。そのような、まさに「死神」の甘言に乗せられて、あの時もし再び眠りについていたなら、今頃私は、僕は…。

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